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京丸の神風串呂

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、京丸についての神風串呂をご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。




1、京丸とは

松良天皇の隠棲地のひとつに遠州京丸(静岡県浜松市天竜区春野町小俣)がある。ここは、60年に一度、径3尺(1m)もの大きさの白いボタンのような花を咲かせる「京丸ボタン」の伝説で有名なところであります。

三浦芳聖によると、富士谷御所が落城したあと、富士谷御所にいた人々は、それぞれ各地へ落ち延びて、その後、京丸に集結し隠棲しました。

三浦家系譜には、応永元年(1394年)、第一皇子・美良親王降誕。皇太后が崩御したので、この地に葬ったと記録されていたが、松良天皇の母・小室門院元子内親王の御陵は、静岡県牧之原市大寄町部ヶ谷の「妙覚塚」ですので、興国天皇(守永)の中宮「藤原茂子」の可能性が高いようです。

この御陵を守るため、昭和55年(1980年)まで京丸には藤原氏を名乗る一族が住んでいました。京丸藤原家の家紋は、多くの木地師と同じく、十六弁の菊花の下に木の葉をあしらった「十六弁葉菊」だそうです。

この里に一軒だけ最後まで残っていた藤原家の人々も、第18代当主の忠教(ただのり)氏が、昭和55年(1980年)に逝去した後は誰も住んでいません。

京丸は、享保年間に起きた洪水の際に、下流の石切村に流れ着いた椀が発見されるまでは、存在を知られていなかった隠れ里で、昔、村に迷いこんだ若者と、村の娘が恋に落ちた。が、村には里人以外と婚姻してはならないという掟があり、悲嘆した二人は大きな牡丹に変じたのだという悲恋物語が残っている。『ウィキペディア(Wikipedia)』京丸 (詳細後述)

地元郷土史家の調査によれば、京丸部落の起源が、藤原家に伝わる南朝落人の伝説に沿ったものであることを裏づけている。藤原家の古文書類は過去の火災ですべて焼失し、代々の言い伝え(南朝の落人伝説)だけが遺されている。それは以下のとおりです。

「南北朝時代 、後醍醐天皇が、謀反した足利尊氏に追われ信州に逃げのびて戦いを続けた際、供奉して都落ちした藤原左衛門佐らは、天皇が信州浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)で崩御されたので、御遺体をそこに葬り、御首級を奉持して高塚山(京丸山の稜線の中川根町側の峰)に葬り、自分たちは近くの京丸に住みついて塚を守護してきた」というものである。

また、鳥居純子著『花かずら』(大和書房/1972年/55頁)には、下記の記事が掲載されています。

桓武天皇の御宇、藤原左衛門佐なるもの、田村将軍の征東軍に従い東夷を征し帰路京丸を過ぎ、子孫ここに住す。その後南北朝のとき皇子の軍に属し、城を構え賊軍と戦いしことあり。太刀洗沢、遠矢場、竜馬ヶ原などあり
(松下発三郎、京丸記録簿、明治三十六年ろくがつ吉日調)

(注=松下発三郎氏は静岡県小笠郡土方村〈現在の城東村〉の人で明治初年ごろ、眼病を患い京丸の岩岳神社に願かけして癒ったお礼に、京丸に住みついて〈本家の食客分〉子供たちの勉強をみてあげたという。忠教氏もその教え子の一人である)

三浦芳聖は、京丸について下記の如く述べています。

「松良天皇」の「世継」は大宝天皇でありますから「京丸」に於て「大宝天皇」が御降誕されたことが解ります。皇紀二〇四八年〔1388年〕に富士の皇居が乾皮無きまでに粉砕せられて、「京丸」に集結されたのは何年頃になるか解りませんが、「松良天皇」の世継「大宝天皇」が皇后腹で御降誕になったのは、皇紀二〇五四甲戌年〔1394年〕であります。

此処は「小丸」(困る)とあります様に作物もろくに出来なく食物にも乏しい処(斯様な処だから逆賊足利が鵜の目鷹の目になって必死に探索しても見つからなかったのであります。)でとても生活できないので、再び分散され、「小室門院」には遠州萩間の部ヶ谷即ち現在の静岡県榛原郡相良町大字大寄字部ヶ谷と云う処へ落ちられ、皇后「綾子媛」には宮路左太夫らがお供して遠州船明即ち現在の静岡県天龍市船明に落ちられ、松良天皇には樵夫の姿になられて三州萩、即ち現在の愛知県宝飯郡音羽町萩へ落ちられました。

尚、「小室門院」は「大宝天皇」が降誕された皇紀二〇五四〔1394年〕甲戌年に萩間に於て崩御されました。故に「小室門院」には「京丸」には居られず直接萩間に落ち延びられたものと思われます。
(三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』244頁、〔年数〕編集者)

🟡「小丸」(困る)は、小俣おまた(こまた)のことだろう。
(komata→omataと変化した。)


🟠「増補大日本地名辞書」(吉田東伍)より抜粋
小俣
今気田村の大字とす、堀之内の北四里の山中にして、七百米突許の高地にあたる。小俣の諏訪社の棟札に、正徳四年周智郡気田庄小俣村とあり。〔掛
川志稿〕〇人類学会雑誌云、遠州の奥なる京丸キョウマルに、阿弥陀仏の木像あり、其背書に、

南無西方極楽世界之阿你陀如来、十方三世諸仏、皆是阿弥陀仏、請願者本願大⬜諸願成就、皆令満足所、正年四十九歳、丙申年男子藤原国吉、刑部尉、天長地久御願円満、志事、当所富貴⬜子孫繁昌、七難即滅、七福即生、昔天竺⬜外長者、阿弥陀如来依功徳、往白廃国大王成、今生信濃国善光寺仏前、
⬜本多善光之⬜、寛正甲申、五年十一月廿八日、敬白⬜雄、

人口は小俣京丸両村合して八十余、食物は通例麦と稗にて、稀には米を食ふことあり、其他串柿、椎茸、芋などを食料の中に数ふべし、古人の紀行に、遠州奥山の京丸の牡丹は、花の大なる車輪のごとしとて、其奇異を説き、或地図には京丸に牡丹谷てふ標目をさへ加へたれど、今此山中を探見するに、牡丹などは根もなき造りごとなり、もしくは石楠花を牡丹と思ひたがへしにや、山中に石楠花多し。

補【京丸】掛川志稿、京丸は麦と稗と常食にて、稀には米を交ふる事もあり、土地にて出来る食物は、串柿と椎茸と八つ頭芋のみなり。或人の紀行に、京丸牡丹あり、世間の評判にては、京丸には非常な大輪の花が咲く牡丹が有て、其弁が往々天龍川へ流れて来るといひて、或る地図にも、京丸の辺に、牡丹谷といふ地名が書き入れて有りしが、誰が実に其植物を見しともなく、又正しく花弁を捨てしにもあらず、一説にては、石楠の花を見違ひしならんといへり。
〇今気多村と改む、天龍川の一支源気多川の上游にして、秋葉山の東谷なり、
(吉田東伍 著「増補大日本地名辞書」第五巻 北国 東国)



🟡下記の動画で阿弥陀堂のみやびな天井画を拝見させて貰った。
京丸に南朝正統家が駐留していた証拠あかしのひとつである。

京丸牡丹 - YouTube(阿弥陀堂の天井画 11:38~)

2、京丸の神風串呂

🟠地文学への招待-南元宿(第279号)
🟡富士谷御所(大明見)の神風串呂(№71)
🟡山崎町御名と木曽岬町松永の神風串呂 (№84)
🟡福山市松永町と遠州京丸の神風串呂(№88)
🟡舞鶴市大君と浜松市京丸の神風串呂(№89)
🟡京丸と三浦芳聖降誕地との神風串呂(№99)

串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。