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💟崇神王権の串呂解明-崇神天皇‐扶余王依羅説に挑む2(№427)
🎀串呂哲学研究ノート 第427号
1、崇神王権の串呂解明
🌷前号で、皇大神宮内宮を起点にして、宮内庁により崇神天皇陵と治定されている行燈山古墳を調査鑑定した所、「⛩青龍神社境内社 崇神」「依羅小学校」「⛩大依羅神社」「広陵町的場」を串呂していることが判明し、
崇神天皇は扶余王依羅であるという鹿島学説の信憑性がいよいよ増大して参りました。
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これまで、日本の南北朝時代以降の歴史的事項が串呂で解明されたことは有りましたが、4世紀前後の歴史的事項を本格的に扱う事は串呂解明史上初めてのことであります。
三浦芳聖先生御降誕120年の記念すべき年に、このような串呂解明史上、画期的な状況となりましたことについて、天地神明の御加護・御教導に感謝申し上げる次第であります。
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💌読者の皆様方の御支援をお願いします!
串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により調査研究活動・執筆活動が維持されています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!
2、⛩皇大神宮内宮と崇神天皇陵(行燈山古墳)との神風串呂
(1)この串呂の要諦(主旨、骨子、根本義)
🌷前号でご紹介したように、皇大神宮内宮を起点として、崇神天皇陵(行燈山古墳)とを結んでその線上の地文を概観した所、下記のような地文が串線していました。
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🐉⛩青龍神社 境内社 崇神(兵庫県明石市藤江)-🌺大阪市立依羅小学校(大阪市住吉区我孫子)-🌺⛩大依羅神社(大阪市住吉区庭井)-🎯広陵町的場(奈良県北葛城郡)-⭕崇神天皇陵(行燈山古墳/奈良県天理市柳本町)-⭕⛩皇大神宮内宮(三重県宇治市館町)
🍀皇大神宮内宮の大神の鑑定結果は、行燈山古墳の被葬者(崇神天皇)は、扶余王依羅である!
(2)超重要地文一覧
🌷この串呂を詳細に調査研究して見たところ、この串呂は「崇神王権の串呂」であることが判明しました。
この串呂を理解するには、日本古代史の知識を必要としますので、ご面倒ですが、事前に下記の項目に目を通して置いて頂きたいと思います。
🟣崇神天皇 - Wikipedia
🟣王朝交替説 - Wikipedia
🟣ヤマト王権 - Wikipedia
🟣屯倉 - Wikipedia
🟣三宅町 - Wikipedia
🟣騎馬民族征服王朝説 - Wikipedia
この串呂の主旨「崇神天皇は扶余王依羅であり、崇神王権は海外からやってきた侵略者である!」を昭示する串呂地文は、たくさんありますが、すべて取上げると煩雑になりますので、特に重要と思われる超重要地文を列挙しました。
地文を取上げる地図🗾の縮尺は、およそ20万分の1の精度です。WEB地図のお蔭で細部まで分かるようになりました。🥰🎀😊🌺🌈🌷
🐴赤馬滝(島根県邑智郡邑南町布施)-🍀西入君(広島県三次市君田町)-👑帝釈峡(広島県庄原市東城町帝釈)-🔵弓削(岡山県岡山市東区瀬戸町)-🔵勢力(岡山県赤磐市)-🍀JR伊里駅(岡山県備前市穂浪)-🎯⛩青龍神社 境内社 崇神(兵庫県明石市藤江)-🔵〽旗振山(兵庫県神戸市須磨区西須磨)-🌺大阪市立依羅小学校(大阪市住吉区我孫子)-🌺⛩大依羅神社(大阪市住吉区庭井)-🟢我孫子(大阪府大阪市住吉区)-🟢天美(大阪府松原市)-🟢三宅(大阪府松原市)-🟡明神山自然の森展望台(奈良県北葛城郡王寺町畠田)-🟡明神(奈良県北葛城郡王寺町)-🐴馬見丘陵公園(奈良県北葛城郡河合町佐味田)-🎯広陵町的場(奈良県北葛城郡)-🟢三宅町(奈良県磯城郡)-⭕崇神天皇陵(行燈山古墳/奈良県天理市柳本町)-🔴初瀬山(奈良県桜井市笠)-🔴初瀬ダム(奈良県桜井市初瀬)-⭕⛩伊勢神宮 内宮(三重県宇治市館町)-👑石鏡町(南部/三重県鳥羽市)
馬 二串 -🐴-🐴- (赤馬滝、🐴馬見丘陵公園) 騎馬民族征服説を表わす。
いり 二串 -🍀-🍀-(西入君、伊里駅) 扶余王依羅を表わす。
依羅 二串 -🌺-🌺- 扶余王依羅を表わす。
三宅 二串 -🟢-🟢- 三宅=屯倉(みやけ)で、ヤマト王権の特徴を表わす。住吉区我孫子、松原市天美もヤマト王権に関連深い所である。
明神 二串 -🟡-🟡- あきつみかみ=大王・スメラミコト
初瀬 二串 -🔴-🔴- 初代王を表わす。
豪壮な御陵(広陵町的場)である行燈山古墳に眠る崇神天皇は、西方から侵入し、武力で王権を奪い取った(弓削)騎馬民族(馬見丘陵)の扶余王依羅であり、石鏡を天窓に捧げて明神(あきつみかみ)に就任し、三宅を始めた初代王(初瀬山、初瀬ダム)青龍である。
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(3)地文の解説
上記の「超重要地文一覧」で列挙した串呂地文の簡単な解説です。この地文の解説を充分理解するには、日本古代史の知識を必要としますので、ご面倒ですが、関連項目に目を通すなど、時間を掛けて学習を深めて頂くよう御願いします。
このブログの読者の中には、古代史の専門的知識をお持ちの方々がおられると思いますので、お気づきの事項が有りましたら、ご教示下さるようお願い致します。
✅赤馬滝(島根県邑智郡邑南町布施)
騎馬民族を表わす。馬 二串 -🐴-🐴-
🐴騎馬民族征服王朝説とは言えないまでも、扶余王依羅の率いる軍隊は、騎馬民族であったことを表わしているのではないかと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1721967095165-Qp7ePm7pGx.png)
✅西入君(広島県三次市君田町)
西方から侵入して来た王を表わす。
🟡入は、侵入+依羅(いり)の両方を表わす。
【参照】
崇神天皇の名前
御間城入彦五十瓊殖天皇(日本書紀)
御眞木入日子印恵命(古事記)
✅帝釈峡(広島県庄原市東城町帝釈)
串呂哲学では、帝釈は、帝を解釈すると読み、帝(天皇、皇室、皇統、皇居、皇陵など)を明らかにする地文です。
ここでは、崇神天皇について明らかにしています。
崇神天皇=依羅 であると解釈しています。
✅弓削を串線!
弓削(岡山市東区瀬戸町)は「弓を削る」すなわち、戦争の準備をする事であります。武力の示威であります。
禅譲(譲位)に依らずして人為的に皇位を奪った、あるいは窺ったこと(人物)を表わす地文で、弓削道鏡がこの弓削の標本です。
崇神天皇の場合は、海外から侵入して、武力によって既存の王権を打ち破り、大王(スメラミコト)の地位を得た事を表わします。
✅勢力(岡山県赤磐市)
勢力(特に武力=軍事力)を有していたことを表わす。
国内唯一の地名。
✅JR伊里駅(岡山県備前市穂浪)
伊里(いり)=依羅(いり)=崇神天皇(みまきいりひこ)
近くに、備前警察署 伊里交番がある。
北方に伊里中(岡山県備前市)がある。
✅青龍神社境内社 崇神(兵庫県明石市藤江)
崇神天皇を表わす地文として建立されたと思われる「境内社」
![](https://assets.st-note.com/img/1721718121916-76GXodGrOG.png?width=1200)
✅〽旗振山(兵庫県神戸市須磨区西須磨)
旗を振るとは、「ある事項を推し進めようとして、率先して人々に働きかける。」ことを意味します。
ここでは、「依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」(渤海国史「大震国本紀」)とあるように、海外からの侵略者の中心人物であったことを表わします。
✅大阪市立依羅小学校(大阪市住吉区我孫子)
崇神天皇が「扶余王依羅」であることを表わす。
✅我孫子(大阪府大阪市住吉区)
オンラインに「弥生神代考6 天孫降臨考 第2部 6 渡来・帰化の人々(扶余・高句麗)」という記事が有ったので拝見していたら、下記の記事が出ていました。
崇神天皇の一族と思われる(依羅吾彦)にゆかりの地であるという事です。
「大依羅神社」(大阪市住吉区庭井2丁目18-16)は古事記・日本書紀にも見え、古代には一帯に広大な神領を有していました。「我孫子」の地名は「依羅吾彦よさみあびこ」に因むと伝わります。
✅⛩大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
崇神天皇が「扶余王依羅」であることを表わす。
🟡大依羅神社 (engishiki.org)より引用
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は創建1800有余年を遡る『古事記』・『日本書紀』・『三代実録』・『延喜式』等の国史書に記載されている神社です。当地の豪族であった依羅吾彦一族が、その祖先である第9代開化天皇の第四皇子「建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)」をお祀りしたのが起源とされています。
古代より豪族が治めていたこの地域には、広大な依網池の造営、天皇直轄領である屯倉が設置されていた《皇室との深い繋がり・国家にとって大依羅が重要な場所であった》ことが「古事記」・「日本書紀」などに残されています。
神功皇后が新羅征討の際、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが「日本書紀」に記載されており、依羅吾彦一族が古代より有力な氏族として、朝廷とも関わる祭祀に深く関係していたと考えられています。
下記資料は「💟ここまで解った元伊勢伝承-第3話 天照大御神は崇神王朝の祭祀を拒否」からの引用転載です。
🍀引用ここから・・・・・
🔴イリ王朝は扶余族王子・依羅(イリ)の渡来王朝
最近の研究では、高句麗系の史書、渤海国史「大震国本紀」(桓檀古記)の記事が引用されています。時期は3世紀末頃です。
正州は依慮の国都とする所なり、鮮卑・慕容廆のために敗られ、憂迫して自裁せんとし、忽ち念ず。「我が魂、尚未だ泯びざれば、則ち何ぞ往きて成らざらんか」と。
密かに子・依羅に噣ね、白狼山を踰えて夜海口を渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神の符命に応ずと為すを以て、群臣をして賀儀を献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。
🍀・・・・・引用ここまで
【参照】
🍀神道・神社史料集成(古代)大依羅神社
大依羅神社 | 國學院大學デジタルミュージアム
✅天美(大阪府松原市)
天美北、天美西、天美東、天美南に分かれています。下記の三宅西と隣接しています。
天美地区=依羅郷(よさみごう)
崇神天皇の一族と思われる(依羅吾彦)にゆかりの地であるという事です。
「弥生神代考6 天孫降臨考 第2部 6 渡来・帰化の人々(扶余・高句麗)」の天美関連記事(今後の研究課題です。)
「和名類従抄」には「摂津国住吉郡大羅(於保與佐羨)」(大阪市住吉区)及び「河内国丹比郡依羅郷」(松原市北西部)が見え、古代この地域(松原市天美)は「依羅連よさみのむらじ」が居住した「依羅郷」で、「大依羅神」とは、元来はこの依網(依羅)の地域神として祀られたと推測されています。
✅三宅(大阪府松原市)
三宅 二串 -🟢-🟢-
三宅中、三宅西、三宅東に分かれています。上記の天美と隣接しています。
三宅=屯倉(みやけ)で、ヤマト王権の特徴を表わす。
屯倉(みやけ)は、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』『風土記』木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。(屯倉 - Wikipedia)
🟡松原市三宅中に「⛩屯倉神社」が有る。
✅明神山自然の森展望台(奈良県北葛城郡王寺町畠田)
明神二串 -🔴-🔴-
明神は「あきつみかみ」と読み、大王(おおきみ)を表わす。
✅明神南部(奈良県北葛城郡王寺町)
明神は「あきつみかみ」と読み、大王(おおきみ)を表わす。
明神二串 -🔴-🔴-
✅広陵町的場(奈良県北葛城郡)
的場は、重要な串呂である(🎯的中している)事を表わします。
住所の「広陵町」は、大きな陵墓=天皇陵を表わします。
「広陵町的場」には、全国第16位の行燈山古墳に対する串呂主宰神のきめ細かい配慮が窺われます。行燈山古墳築造の頃=4世紀前半頃(古墳時代前期)から、古墳(陵墓)の規模が大きくなったことを表わします。
✅|馬見丘陵《うまみきゅうりょう》公園(奈良県北葛城郡河合町佐味田)
奈良県北葛城郡広陵町から河合町にかけて広がる馬見丘陵内にある奈良県営の都市公園。
馬 二串 -🐴-🐴-
🐴騎馬民族征服王朝説とは言えないまでも、扶余王依羅の率いる軍隊は、騎馬民族であったことを表わしているのではないかと思います。
【参照】騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)
東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう。
(騎馬民族征服王朝説 - Wikipedia)
✅三宅町(奈良県磯城郡)
三宅 二串 -🟢-🟢-
大阪府松原市三宅に同じ。
【参照】三宅町 - Wikipedia
✅崇神天皇陵(行燈山古墳/奈良県天理市柳本町)
崇神天皇の御陵は、 宮内庁により行燈山陵(奈良県天理市柳本町字行燈)とされています。
![](https://assets.st-note.com/img/1721733305080-tybR4ruymD.png?width=1200)
🌷行燈山古墳について
🟣山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)と呼ばれる。
🟣被葬者は明らかでない。
🟣宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されている。
🟣全国では第16位の規模の古墳。
🟣4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
🟣崇神天皇以前の九代の天皇の陵墓に比べ、断トツに大きく立派です!
【参照】『行燈山古墳- Wikipedia』
行燈山古墳(あんどんやまこふん、行灯山古墳)は、奈良県天理市柳本町にある古墳。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。/実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇の陵に治定されている。/全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
✅⛩伊勢神宮 内宮(三重県宇治市館町)
神風串呂の一大拠点。
最高、最大、超重要なる串呂起点である。
![](https://assets.st-note.com/img/1721733479883-8jh8MrzMos.png?width=1200)
✅石鏡町(南部/三重県鳥羽市)
崇神天皇が神宝を天窓に捧げて大王位(スメラミコトの位=高御座)についた事を表わすと共に、天照大御神の御霊代である「神鏡」を富士山麓から召し上げて宮中に奉遷したことを表わします。
この辺りの事情は「神皇紀」に詳しく語られています。
【参照】
🟣皇大神宮内宮と石鏡町との神風串呂
🟣皇統の行方を重ねて立証!新串呂解明12-⛩元伊勢内宮と石鏡町との神風串呂
![](https://assets.st-note.com/img/1722042546436-POrNPXpYEN.jpg?width=1200)
3、この串呂の地文一覧
この神風串呂線上にある、崇神天皇=扶余王依羅説を補強すると思われる関連地文を列挙して見ました。
地文を取上げる地図の縮尺は、およそ20万分の1の精度です。WEB地図のお蔭で細部まで分かるようになりました。🥰🎀😊🌺🌈🌷
多忙の為、地文の解釈など、後進に託したいと思います。
🌈神主(島根県江津市二宮町)-🌈神村(島根県江津市二宮町)-🐴赤馬滝(島根県邑智郡邑南町布施)-布野冠山(広島県三次市)-🟡西入君(広島県三次市君田町)-🔵濁川町(広島県庄原市)-👑帝釈峡(広島県庄原市東城町帝釈)-西山(岡山県高梁市備中町)-成羽町中野(岡山県高梁市)-🌈神原(岡山県高梁市松原町)-🐉⛩龍神社(岡山県高梁市高倉町)-真星 星の村公園(岡山市北区真星)-御津勝尾(岡山市北区)-御津国ケ原(岡山市北区)-🐉龍神山(岡山市東区瀬戸町弓削)-🔵弓削(岡山市東区瀬戸町)-🔵勢力(岡山県赤磐市)-🟡伊里駅(岡山県備前市穂浪)-🐉🎯青龍神社境内社 崇神(兵庫県明石市藤江)-🔵〽旗振山(兵庫県神戸市須磨区西須磨)-🌺大阪市立依羅小学校(大阪府大阪市住吉区我孫子)-🌺⛩大依羅神社(大阪府大阪市住吉区庭井)-🟢天美(大阪府松原市)-🟢三宅(大阪府松原市)-🐴馬見丘陵公園(奈良県北葛城郡河合町佐味田)-🎯広陵町的場(奈良県北葛城郡)-🟢三宅町(奈良県磯城郡)-🟠宮古 (奈良県磯城郡田原本町)ー🔵武蔵町(奈良県天理市)-🟣太良路(奈良県宇陀郡曽爾村)-🟣太郎生堰堤(三重県津市美杉町太郎生 )-😭神去村神去地区の看板(三重県津市美杉町上多気)-⭕崇神天皇陵(行燈山古墳/奈良県天理市柳本町)-🔴初瀬山(奈良県桜井市笠)-🔴初瀬ダム(奈良県桜井市初瀬)-🌈神末(奈良県宇陀郡御杖村)-🌈卍神宮寺 (丹生大師/三重県多気郡多気町丹生)-🌈積良(三重県度会郡玉城町)-🌈山神(三重県度会郡玉城町)-🟠宮古(三重県度会郡玉城町)-〶宮本郵便局 (三重県伊勢市佐八町)-⭕⛩伊勢神宮 内宮(三重県宇治市館町)-👑石鏡町(三重県鳥羽市)
4、参考資料
今号の記事作成に大変参考になったのが下記の資料でした。貴重な研究資料であると思いますので、関連記事を転載させて頂きました。今後の研究課題であります。
🍀「弥生神代考6 天孫降臨考 第2部 6 渡来・帰化の人々(扶余・高句麗)」(女神物語-弥生神代の考察-)
・・・・・引用ここから
崇神天皇62年冬10~11月、「依網池よさみいけ」、苅坂池、反折池の造成工事が行われた、との記事が「日本書紀」にあります。
その依網池は、大阪府堺市池内から大阪府大阪市東住吉区のかなり広い人工池でしたが、1704(宝永元)年、大和川の流路変更工事により水が流れ込まなくなり、徐々に縮小し、現在は池があった処に石碑(大阪市住吉区庭井2丁目)が建てられています。
「大依羅神社」(大阪市住吉区庭井2丁目18-16)は古事記・日本書紀にも見え、古代には一帯に広大な神領を有していました。「我孫子」の地名は「依羅吾彦よさみあびこ」に因むと伝わります。
「依網池」は「依羅」に通じるのでしょうか。
「和名類従抄」には「摂津国住吉郡大羅(於保與佐羨)」(大阪市住吉区)及び「河内国丹比郡依羅郷」(松原市北西部)が見え、古代この地域(松原市天美)は「依羅連よさみのむらじ」が居住した「依羅郷」で、「大依羅神」とは、元来はこの依網(依羅)の地域神として祀られたと推測されています。
この地域には、現在も「建豊波豆羅和気王」や「依羅宿禰」を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社、柴籬神社が鎮座しています。
・大依羅神社(大阪市住吉区庭井2丁目)延喜式神名帳に「大依羅神社四座」
祭神:建豊波豆羅和気王(依羅吾彦の祖神、開化天皇皇子)及び、住吉三神
・祭神
説1:大己貴命、月讀命、垂仁天皇、五十師宮(五十猛命)の四座、
説2:住吉三神、建豊波豆羅和気王
・田坐神社(松原市田井城5、河内国丹比郡)祭神:依羅宿祢、呉服漢織の女神、豊宇気毘売神
・酒屋神社(松原市三宅中4)
祭神:津速魂命 式内社、由緒:942(天慶5)年、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を祀り、三宅天満宮と称したが、明治期より屯倉神社と称していたところ、明治40年(1907)、酒屋神社が屯倉神社境内へ移された。
・阿麻美許曽神社(大阪市東住吉区矢田7丁目)
現祭神:素盞嗚尊・天児屋根命・事代主命
由緒:「許曽」は新羅で祭祀や神社の森を意味する。神社は大阪市域となってしまったが、元々は松原市天美地区(城連寺・油上・芝・池内)の氏神であり、現在もそれに変わりがない。天美地区は古代の河内国丹比郡依羅郷なので、依羅連の居住地と想定され、その祖神・建豊波豆羅和気王を祭神としていたと考えられるが、・・。
・柴籬神社(松原市上田7丁目)祭神:瑞歯別天皇、依羅宿祢
由緒:仁賢朝の創建、・伝・反正(瑞歯別)天皇の皇居、柴籬宮の址
・当社東500mに6世紀後半築造の大王墓・河内大塚山古墳(大阪府松原市西大塚、羽曳野市南恵我之荘、墳丘長335m、被葬候補者:第21 代雄略天皇)あり。
大依羅神社の社伝に、神功皇后の三韓征伐の際、「依羅吾彦男垂見(よさみあびこたるみ)」が住吉三神と祖先の建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけ)に戦勝を祈り、帰国後は、依羅吾彦の一族が神主となった、とあります。
「新撰姓氏録」の、不思議なことに「扶余国」としてではなく諸蕃・百済の部に、「依羅連(河内国)」は百済国人・素祢志夜麻美乃君に出自ありとし、山河連(河内国)も「依羅連同祖」だと記されているのです。
また、摂津国皇別に登記されている「依羅宿禰」は 開化天皇皇子・彦坐命に出自があり、、日下部宿禰と同祖とされています。いずれも、「日本紀」「続日本紀」の記載と合っている、と云います。
更に、天神に分類されている項目に、つぎの3姓氏が登記されています。
・依羅連&柴垣連(左京、天神) 饒速日命十二世孫・懐大連の末裔
・依羅連(右京、天神) 同神十世孫・伊己布都大連の末裔
・物部依羅連(河内国、天神)神饒速日命の末裔
・・・・・引用ここまで
🔴神風串呂を学びましょう!
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🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
・・・・・
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💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
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🟡バックナンバー(総合)
🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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