「子供時代のイジメの話」という問題なのか

炎上した。あっという間に炎は燃えさかった。擁護したバンドメンバーも炎上して火に油ではなく「油に火を注ぐ」ことになりましたとなぜか新しい慣用句までつくってしまった。それにしても今回は燃えに燃えていて7月20日現在、この火はまだ鎮火する感じはないし、他のいじめ加害体験のあるアーティストにも波及してる。

本人は辞任した。会見とか表には出てこなかったがSNS上で謝罪もした。なのになぜ火は燃え続けるのか。それはこの「いじめ事件」の吐き気を催すほどのエグさが第一にあるのと、第二には、それをまったく悪びれずに、いい年した大人があたかも自己の武勇伝だったかのように語っているその姿勢への嫌悪感などがミックスされたことで、今や「あいつだけは許せねえ」状態になってしまったのでしょうね。

個人的に彼の音楽性は好きです。フリッパーズも聞いてたしコーネリアスもCD持ってたし、METAFIVEはMV見てカッティングのキレの良さに惚れ込み、買っちゃったりしたくらいなので、彼の音楽になんのケチも付ける気はない。普通に好き。

ただ、あのイジメ内容が(本人は誇張があると弁明しているようですが)半分でも事実ならもうこれは子供同士のトラブルではなく立派な暴行事件です。ネットで「罪を犯した人が罪を償って出てきたら罰を受けたということで社会から受け容れられるのに、罪でもない子供の頃のイジメは永遠に受け容れられないってことでいいですか?」みたいな投稿もみたけど、いやいやこれ西野オンラインサロンに対しての大悟の言い方を借りればただ「捕まってないだけの虐待事件」ですからね。

いじめを「加害者」「被害者」「傍観者」みたいにカテゴリー分けしたらそのどれかには必ず貴方も入るでしょ?と聞きたいくらい、多くの日本人が子供時代から間違いなく見聞きしたり体験しているはず。なのにメディアに登場している人たちの多くが「自分はどのカテゴリーにいたのか」を明示せずに批判したり擁護したりしている。そのことに対しての違和感はなくはないけど、ではイジメって良いのか悪いのかで言えば間違いなく悪いわけだし、いじめっ子側の論理としてよくある「いじめられる方にも問題があるんですよね」についても200%否定したい。たとえ行動がどんくさくても、たとえその言動にじれていらつかされようが人が人を苛めていいというルールは存在しない。だけど悲しいかなイジメは多分これからもなくならない。戦争がなくならないのと同じレベル感でなくならない。でもどうせなくならないなら何を言ってもやってもいいというわけではないという話をしたいんだ。

イジメが文化だのサブカルだの、90年代はそういう時代だっただの、一切理由にならないからさ。クラスメートに殴られたり蹴られたりしてる生徒に「これは文化だから、通過儀礼だから、とりあえず我慢しておいて」なんてないでしょ?そして実際当時もそんな文化なんかなかった。時代のせいにしちゃいけない。著名なインタビュアーも「あれが世に出たのはそういう時代だったし、それを校閲して通した編集部も、それを話してるアーティストもいたそんな時代だから」となにか時代性のせいにしてたけど、ナチのユダヤ人迫害も、KKKの黒人虐待も、「あれは1940年代のドイツのカルチャーで」とか「あれはアメリカがそういう時代だったから」とかで肯定なんかしないでしょ。悪いものは悪いでなぜ片付けられないのか疑問。それともこういう斜に構えたことを言うのもこれまた今の時代の問題なのか。

子供時代は残酷だ。僕もクラスの吃音がひどい子の真似をしたり、からだの悪い人の歩き方の真似とかした経験はある。そしてそのときは面白いかなと思ってやってたという認識もある。でも当時たとえば吃音の真似をすると「そういうことをすると自分もドモりがうつるよ」と友達に真顔で言われ、こわくなってすぐやめたりもしたし、そもそも不謹慎なことを子供が冗談にでもしたら、それをたしなめる人や眉をひそめる人もいたし、面と向かってきちんと怒ってくれる人も先生や友達にも少なからずいた。そうして「やっていいこと、いけないこと」を子供心に家庭や学校等の中で学んでいったような気がする。それこそそういう民主的な時代だった。彼はそういう成長をさせてもらえる環境にいなかったのだろうね。不幸なことだ。

「子供の頃のいじめを大人になってからもずっと言われ続けるのか」という声が芸能人からあがってたけど、あのう誤解しているようですが、問題になっているのはむしろ子供の頃のイジメそのものではなくそれを大人になってからも吹聴していることやそんな自分でありながらついついオファーされたらオリパラの制作に参加しちゃうその問題意識の低さなのですよね。だって炎上するのに決まってるじゃん。気付かれないとでも思ってたのかね。今までだってこれが何度か問題になる度に、自身のファンあての掲示板などを通して、拡散する人を批判し、逆に過去の行動は自己肯定化してきた人なので正直「心の底から悪いことをした」とは思っていないことはそれこそ過去の言動からも明白。それでよく「あらゆる差別を許さない」と謳うSDGs五輪に参加しようと思ったよねとむしろ驚いてしまう。

いい音楽をつくる人が必ずしもいい人である必要はないと思うし、今回のことを契機に今後の他の仕事やいろんな交友関係にまでケチを付ける気は僕はないです。またいい音楽が生み出されたら僕はわだかまりなく聴き続けられる自信もなんとなくあるし。これからまた地に足を付けて少しでもいい音楽を創り出していくことが彼のミッションなのであればそれをひたすら邁進してもらえればと思いますが、繰り返しになりますがこの五輪には参加しちゃいけなかった。過去の総括も謝罪もないままには。

ただそれだけ。ただそれだけなんだよね。

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