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介護士 佐藤花子


運命の朝


東京の喧騒が徐々に高まる早朝5時。佐藤花子(27)は、まだ薄暗い自宅のワンルームで目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む僅かな光が、花子の整った横顔を柔らかく照らす。

「はぁ...今日も始まるんだな」

鏡に映る自分の顔を見つめながら、花子は小さくため息をついた。広告代理店に勤めて5年。華やかな世界で働く自分を夢見て飛び込んだはずが、今では毎日が同じような灰色の日々。花子の瞳から、かつての輝きが失われていることに、彼女自身気づいていなかった。

いつもと同じようにスーツに身を包み、駅に向かう花子。しかし、この日は彼女の人生を大きく変える出来事が待ち受けていた。

池袋駅のホームは、いつもの朝と変わらぬ光景。通勤客で溢れかえる中、花子は無意識のうちにスマートフォンを操作していた。そんな時、突然聞こえた悲鳴に顔を上げる。

目の前で、一人の老婦人が崩れ落ちようとしていた。

「危ない!」

花子の体が、意識より先に動いた。老婦人に駆け寄り、その体を支える。周囲の人々が騒然とする中、花子は冷静さを失わなかった。

「大丈夫ですか?しっかりして!」

老婦人の額に手を当てると、冷や汗で濡れていた。顔色は土気色で、呼吸も浅い。

「すみません!救急車を呼んでください!」

花子の声に、ようやく周囲の人々が動き出す。

救急車が到着するまでの10分間、花子は老婦人の手を握り続けた。その温もりが、花子の心に何かを呼び覚ます。

幼い頃の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。介護士だった祖母の笑顔。施設でのボランティア体験。「花子ちゃん、人を支える仕事は大変だけど、それ以上にやりがいがあるのよ」という祖母の言葉。

救急車のサイレンが近づく中、花子の心に静かな決意が芽生えていた。

揺れる心


その日の夜。花子は会社帰りに立ち寄った居酒屋で、親友の美咲と向かい合っていた。店内の喧騒とは裏腹に、花子の表情は沈んでいる。

「どうしたの?花子。今日はぜんぜん元気ないじゃん」

美咲の言葉に、花子は小さくため息をついた。

「ねえ、美咲...私、このままでいいのかな」

「え?どういうこと?」

花子は朝の出来事を話し始めた。老婦人を助けたこと、そして蘇った介護の夢のこと。話せば話すほど、花子の目に力が宿っていく。

「私ね、本当はずっと介護の仕事がしたかったの。でも、両親の反対もあって...」

美咲は黙って花子の話を聞いていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「花子、あなたの目、久しぶりに輝いてるよ」

その言葉に、花子は我慢していた涙があふれ出した。

翌日、花子は意を決して両親に電話をした。

「お父さん、お母さん。私、介護の仕事がしたいの」

電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れる。そして、

「お前に介護なんかできるのか?甘く見るな」

父親の厳しい声に、花子は言葉を失う。しかし、

「でも、あなたの決意が本物なら...応援するわ」

母親の優しい声に、花子は勇気づけられた。

その夜、花子は祖母に手紙を書いた。介護への思い、両親との会話、そして自分の決意を。

数日後、祖母からの返事が届く。

「花子、夢を諦めちゃいけないよ。人を支える仕事は大変だけど、それ以上にやりがいがあるの。あなたなら絶対にできる。私が太鼓判を押すわ」

祖母の言葉に、花子の決意は固まった。

会社に向かう花子の足取りは、いつになく軽やかだった。

「部長、お話があります」

花子の声に、部長は顔を上げた。

「私...退職させていただきます」

部長の驚いた表情を前に、花子は静かに、しかし力強く自分の思いを語り始めた。

新たな挑戦


春の柔らかな日差しが差し込む教室。花子は緊張した面持ちで椅子に座っていた。周りを見渡すと、様々な年齢層の人々が集まっている。介護職員初任者研修の初日。花子の新しい人生の幕開けだった。

「皆さん、おはようございます。これから介護の基礎を学んでいきましょう」

講師の野田先生の声に、花子は背筋を伸ばした。

最初の数週間は、座学が中心。介護の歴史や制度について学ぶ。花子は必死にノートを取る。しかし、

「佐藤さん、介護の仕事は体力も必要ですよ。机上の勉強だけじゃダメです」

野田先生の厳しい言葉に、花子は焦りを感じた。

実技訓練が始まると、さらに厳しい現実が待っていた。

「佐藤さん、そんな力の入れ方じゃ、利用者さんを傷つけてしまいますよ」
「佐藤さん、もっと利用者さんの目を見て話しかけてください」

指導者の厳しい言葉が飛ぶ。何度も失敗を繰り返す花子。

ある日の実習。花子は担当の利用者、田中さんのお世話をしていた。

「佐藤さん、ありがとね。あなたの笑顔を見ると、元気が出るよ」

田中さんの言葉に、花子は思わず涙がこぼれそうになった。

「ありがとうございます、田中さん。私も田中さんと話せて嬉しいです」

その日の帰り道、花子は空を見上げた。澄んだ青空が、花子の心を映しているかのようだった。

「よし、明日からもっと頑張ろう」

花子の瞳に、かつての輝きが戻っていた。

認知症夫婦との出会い


初夏の陽気が漂う6月。研修を終えた花子は、晴れて介護施設「さくら荘」で働き始めた。白を基調とした制服に袖を通す時、花子の心は誇りと緊張で一杯だった。

「佐藤さん、今日から田中夫妻の担当をお願いします」

主任の村上さんの言葉に、花子は大きく頷いた。

花子が担当することになった田中夫妻。夫の正一さん(80)は認知症を患っており、妻の絹子さん(78)が献身的に支えていた。

最初の出会いの日。花子は緊張しながら夫妻の部屋をノックした。

「失礼します」

部屋に入ると、窓際で外を眺める正一さんと、その隣で編み物をする絹子さんの姿があった。

「あら、新しい方ね。よろしくお願いします」

絹子さんの優しい笑顔に、花子は少し緊張が解けた。

「はい、佐藤花子と申します。どうぞよろしくお願いします」

しかし、正一さんは花子に気づいた様子もなく、ずっと窓の外を見ている。

「正一さん、新しい担当の方が来てくださったわよ」

絹子さんが声をかけると、正一さんはゆっくりと振り返った。

「誰だ、お前は」

正一さんの冷たい視線に、花子は一瞬たじろぐ。しかし、

「正一さん、佐藤と申します。これからお世話させていただきます」

花子は笑顔で答えた。

その日から、花子は田中夫妻との関わりを深めていく。絹子さんの優しさと、正一さんの時折見せる温かな表情に、花子は介護の喜びを感じていた。

しかし、ある日、事態は一変する。

「誰だ!俺の家から出ていけ!」

正一さんの怒鳴り声が廊下に響く。花子が駆けつけると、正一さんが絹子さんを押しのけようとしていた。

「正一さん、落ち着いて!私です、絹子です!」

絹子さんの必死の声。しかし、正一さんの混乱は収まらない。

花子は咄嗟に二人の間に入った。

「正一さん、大丈夫です。ここはあなたのお家ですよ」

花子の落ち着いた声に、少しずつ正一さんの興奮が収まっていく。

その夜、当直だった花子は、ナースステーションで深いため息をついていた。

「難しいケースね」

振り返ると、村上主任が優しく微笑んでいた。

「はい...どうしたら正一さんの心に寄り添えるのか...」

「佐藤さん、二人の過去を知ることも大切よ。明日、絹子さんとゆっくり話してみたら?」

村上主任の言葉に、花子は小さく頷いた。

窓の外では、満月が優しく輝いていた。その光は、まるで花子の未来を照らすかのようだった。

過去の秘密

翌日、花子は絹子さんとの面談の機会を得た。施設の小さな庭で、二人は向かい合って座っていた。初夏の陽射しが、二人の肩を優しく包み込む。

「絹子さん、よろしければ...正一さんとのことを聞かせていただけませんか?」

花子の言葉に、絹子さんは少し驚いたような表情を見せた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「そうね...あなたに話してもいいかもしれない」

絹子さんの目には、懐かしさと悲しみが入り混じっていた。

「私たち、若い頃は本当に仲が良かったの。でも...」

絹子さんの話は、50年以上前にさかのぼった。

...

1965年の春。絹子18歳、正一20歳。二人は小さな町工場で働く同僚だった。

「絹子さん、今度の日曜日、映画を観に行きませんか?」

昼休憩、正一が赤面しながら絹子を誘う。

「え?...はい、喜んで!」

絹子の心臓も高鳴った。

その日から、二人の恋が始まった。しかし、絹子の両親は二人の仲を認めなかった。

「あんな貧乏な家の息子なんかと一緒になるな!」

ある晩、絹子は決意を固めて正一の元へ駆け寄った。

「正一さん、私...あなたと一緒に行きたいの」

月明かりの下、二人は固く手を取り合った。

翌日、二人は町を出た。しかし、現実は厳しかった。

...

「私たち、本当に何も考えていなかったわ。お金もなく、毎日が苦しかった」

絹子さんの目に、悔しさの色が浮かぶ。

「ある日、私...弱気になってしまって。正一を置いて実家に戻ってしまったの」

花子は息を呑んで聞いていた。絹子さんの目には、悔恨の色が浮かんでいる。

「でも...一週間もしないうちに、私は正一のもとに戻ったの」

...

1965年の夏。灼熱の太陽が照りつける中、絹子は小さなアパートの前で立ち尽くしていた。手には小さな鞄を握りしめている。

ドアをノックする音が、絹子の鼓動と重なる。

ゆっくりとドアが開き、正一の痩せこけた顔が現れた。

「絹...子?」

正一の声は、信じられないという思いに満ちていた。

「正一さん...ごめんなさい。私...戻ってきました」

絹子の目から涙があふれ出す。

正一は一瞬躊躇したが、すぐに絹子を強く抱きしめた。

「もう離さない。絶対に」

...

「あの時、正一は私を許してくれたの。でも...彼の心の奥底に、私への不安が残ってしまったみたい」

絹子さんの声が震える。花子は思わず絹子さんの手を握った。

「だから今、認知症で混乱すると、あの時の不安が蘇ってしまうのかもしれません」

花子は、正一さんの行動の理由が少し理解できた気がした。

「絹子さん、ありがとうございます。こんな大切なお話を聞かせていただいて...」

花子の目にも、涙が光っていた。

「私、絶対に正一さんと絹子さんのお力になります。二人の想いを大切にしながら、ケアをさせていただきます」

絹子さんは、優しく微笑んだ。

「ありがとう、佐藤さん。あなたのような方が介護をしてくれること、本当に嬉しいわ」

その日から、花子の田中夫妻へのアプローチが変わった。正一さんの混乱時には、若い頃の思い出話をさりげなく織り交ぜるようにした。

ある日、正一さんの誕生日会で、花子は昔の写真をスライドショーで映し出すことを提案した。

「どうかしら、絹子さん?」

「素敵なアイデアね。でも...正一が混乱しないかしら」

絹子さんの不安そうな表情に、花子は優しく微笑んだ。

「大丈夫です。私がそばにいます」

誕生日会当日。スライドショーが始まると、正一さんの目が次第に輝きを増していく。

「あ、これは...俺たちが初めてデートした時の...」

正一さんの声が、部屋に響く。

そして最後の写真。結婚式の二人の姿。

正一さんは、ゆっくりと絹子さんの方を向いた。

「絹子...ありがとう。ずっと...ずっとそばにいてくれて」

絹子さんの頬を、大粒の涙が伝う。

「正一...」

二人は静かに抱き合った。

花子は、自分も涙が止まらないのを感じていた。

## 第5章:新たな課題

夏の終わりが近づく頃、さくら荘に新しい職員が加わった。山田翔太(24)。大学を卒業したばかりの、やる気に満ちた青年だった。

「よろしくお願いします!精一杯頑張ります!」

元気のいい声が、職員室に響く。

花子は微笑みながら翔太に挨拶した。

「山田くん、よろしくね。分からないことがあったら、何でも聞いてね」

しかし、その笑顔も長くは続かなかった。

翔太の態度が、次第に問題になってきたのだ。

ある日、花子は廊下で翔太の声を耳にした。

「もう!何回同じこと言えばいいんですか!」

驚いて覗くと、翔太が利用者に怒鳴っている場面に遭遇した。

「山田くん!」

花子の声に、翔太は我に返ったように振り返った。

「先輩...」

その夜、花子は翔太と面談することになった。小さな相談室で、二人は向かい合って座っている。

「山田くん、どうしたの?最近様子がおかしいわ」

花子の優しい声に、翔太は俯いたまま答えない。

「黙っていても分からないわ。話してくれない?」

長い沈黙の後、翔太はゆっくりと口を開いた。

「先輩...俺、本当はこんな仕事がしたくなかったんです」

その言葉に、花子は驚きを隠せなかった。

「実は...俺、祖父の介護をしていたんです。でも、上手くいかなくて...結局施設に預けることになって...」

翔太の声が震える。

「自分が無力だったことが悔しくて...だから介護の仕事に就いたのに、こんな自分じゃダメなんだって...」

花子は、翔太の葛藤を感じ取った。

「山田くん、介護は一人でするものじゃないのよ。チームで支え合うものなの」

花子は優しく、しかし力強く語りかけた。

「あなたの気持ち、すごく分かるわ。私も最初は戸惑いばかりだったもの」

花子は自分の経験を少しずつ話し始めた。失敗談や、乗り越えてきた困難について。

翔太は、次第に顔を上げ始めた。

「先輩...ありがとうございます。俺、もう一度頑張ってみます」

花子は、翔太の目に再び光が戻ったのを感じた。

「そうよ、一緒に頑張りましょう。きっと、あなたのおじいちゃんも喜んでくれるはずよ」

翔太の目に、小さな涙が光った。

その日から、翔太は少しずつ変わり始めた。利用者に優しく接し、同僚とも協力するようになる。

花子は、翔太の成長を見守りながら、自分自身も成長していることを実感していた。

介護の世界は、まだまだ課題が山積みだ。でも、一人一人の想いを大切にしながら、少しずつ前に進んでいく。

花子は、空を見上げた。夏の終わりを告げる夕焼けが、新しい季節の始まりを予感させていた。



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