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北京留学記:一个都不能少

今回は以前つぶやいた不動産の話です。留学生活の終わりまで。

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アパートを借りようと思い始めたのは四月の終わりごろからである。それから実際に借りるまでに四ヶ月ほどかかった。わたしは八月の中ごろに寮を出て、アパートの部屋を借りた。

寮は一日に一回寮の人が掃除しにきてくれるなど非常に居心地がよく快適であったが、あまりに楽をしすぎてはよくないのではないかとも感じた。一人部屋であったため、下手をすれば授業以外では誰とも顔を合わさずに生活ができてしまう。中国語を勉強するだけが留学ではないだろうし、このまま一人部屋で高いお金を払いながら生活していいものだろうかと考えた。それ以来、寮を出てアパートを借りるという選択肢もある、と考えたりもした。

金銭面を考慮したら寮で二人部屋という選択肢もあった。だが寮ではルームメイトをこちらから選ぶことはできず、相手が日本語を話せない場合もある。中国語力に自信がないのにルームメイトと上手く交流を図っていくのはとても無理そうに思えた。また相手によっては生活リズムが同じとも限らない。そんな学生とルームシェアをしたら、自分の生活リズムがこわれかねない。なによりせっかく中国にいるのに留学生だらけの寮に住んでいるのは物足りなかった。外に住めばそれだけ中国人の実際の暮らしに近づくことができるのは魅力だった。だからもし生活リズムが近かったり、勉強のために留学に来ているという意志が強く気が合う人を見つけることができ、なおかつその人も一緒に住む人間を探していたなら、ぜひ一緒に外に住もうと考えた。

そんなとき、寮から通知をもらった。五月の始めごろである。それは来学期も継続して住むかどうか知らせてくれというものであった。北語には夏休みなど長期休暇を利用した中国語の短期コースも存在する。休暇を利用して中国語を学ぼうとする学生が海外から数多くやってくるため、寮の部屋がどれくらい確保できるか確認しなければならないのだろう。わたしは、夏休みの間は寮で暮らし、来学期に引っ越すというのは可能かと寮に聞いてみたが、もし来学期住むつもりがないのなら、夏休みに寮に住むことはできないときっぱりと言われてしまった。なるほど、できるだけ部屋を確保したいという思惑がはっきりと見て取れる。慢性的に部屋が足りていないということは知っていたから、それも仕方がないだろう。ということは、もし寮に住み続けることを決めてしまったら、外で暮らすことはできなくなってしまう。

わたしはその時一人の日本人と知り合っていた。彼女はユミコさんと言い、北京大学で中国語を勉強していた。もともと大学の外に住んでいたが、ビザの関係で一度日本に帰り、その後は新しく部屋を探す必要があった。話をしてみると、彼女もいっしょに住める人を探しているのだという。わたしはチャンスだと思った。寮を夏休み前で引き払うことに決め、彼女の部屋に転がり込んでいっしょに部屋を探すことになった。

寮は六月末で引き払うことになった。寮からユミコさんの住む華清嘉園までは六〇〇メートル程度で、歩いて行ってもさほどかからない。しかし、引越の荷物を抱えて歩くには少しであってもきついだろう。トランクに衣服を詰め込み、郵便局で買ってきた大きな段ボール箱に教科書や生活用品を詰め込んだ。手伝いに来てくれたユミコさんとその友人とともに、タクシーを拾って華清嘉園へと向かった。あいにくの雨の中、タクシーのトランクにスーツケースを押し込み、段ボール箱三箱を座席の下に押し込んだが、タクシーの運転手には「シートが濡れるじゃねえか。こんな日に荷物なんか運ぶなよ!」と文句を言われてしまった。

ユミコさんの部屋はアパートの五階にあり、2DKの広さだった。ふたつある部屋のうち、一つをユミコさんが使っていて、もう一つの部屋には、ダンダンという中国人の女性が住んでいた。ミミという子猫を飼っているダンダンは、香水の輸入販売をしているようだった。時々、昼間に見知らぬ若い女性がやってきては、リビングの隅の棚のまえで何やら話し込んでいることがよくあった。その棚には、ヨーロッパの有名ブランドの香水が小さなボトルに入れられて並んでいた。これらの香水は本物だろうか、なぜ輸入販売をしているのか不思議だったが、尋ねることは出来なかった。ある日、リビングの机の上にフランス語のテキストが置いてあり、ダンダンにその訳を尋ねると、ただボーイフレンドがフランス人なのだと答えた。おそらく、彼と二人で輸入販売をしているのだろうと推測できた。

ユミコさんが中国人と一緒に住むようになったのは、北語での留学を一年終え、北大でもう一年勉強しようと北京に再びやってきたときだった。一年目は運良く寮に入ることができたが、北大ではそれができなかった。寮の部屋は日本の大学から集団でやってきた留学生に優先的に配分されてしまったのだという。知り合いに不動産仲介屋を教えてもらい、部屋を探してもらったところ、一人で住んでいる中国人の部屋を紹介された。ユミコさんはその部屋に住むことにし、ダンダンとルームシェアを始めたのだという。その部屋はダンダンの父親が持っている部屋だというから、彼女はかなり裕福なのだろうと察せられた。

ユミコさんのところへ転がり込んでからは、彼女の部屋に寝泊りするという生活をしていた。幸いベッドはふたりで横になってもきつくない広さだったが、勉強机はひとつしかない。そのため、北語や五道口の駅前にある喫茶店で勉強することが増えた。飲み物は十五元から二十元(二百二十五円から三百四十円)くらいで、決して安いと言えなかったが、机をひとつ貸してもらっていると思えば、仕方なかった。

七月中旬頃にユミコさんが日本へ一時帰国をしてからは、部屋をひとりで使うことができた。それでも人の部屋に世話になっているという意識は消えず、昼夜が逆転してしまう生活をしばらくしていた。

ユミコさんが八月中旬に中国へ帰ってくるのを待って、わたしたちは新しく住む部屋を探すことにした。まず、今年の初めにユミコさんが飛び込んだという不動産仲介屋に出かけ、部屋を探してもらうことにした。わたしには、部屋というものをどうやって探せばよいのか見当がつかなかったが、ユミコさんが中国での探し方を少し知っていたことは非常に心強く思えた。この不動産仲介屋は、華清嘉園の入り口付近にあった。アパートの入口は自動ロックになっていたため、ユミコさんが部屋の番号を押し、インターホンに向かって「ユミコです」と言った。しばらくすると自動ドアが開き、わたしはユミコさんが進んでいくのに従って中へ入った。一階の隅の部屋へ入っていくと、「ユミコ、元気だった」という明るい声に迎えられた。

ユミコさんは、この人を「スーザン」と紹介した。どこからどう見ても中国人であったが、不動産仲介屋ともなればさまざまな外国からの留学生と交流があるのだろう。そのときに中国名を用いるよりは、英語の名前を用いた方が覚えてもらいやすいのかもしれない。

スーザンはわたしを見ると、

「あなた、中国人?」

とたずねた。何を聞かれているのか一瞬判断しかねたが、ユミコさんが、新しくルームメイトになる日本人だと説明した。スーザンは驚いた顔をして、

「だって、中国人みたいな顔をしているんですもの」

と笑った。快活で優しそうな笑い方だった。

わたしたちはスーザンに条件を伝えて、部屋を探してもらうことにした。互いに便利であるため、できれば華清嘉園で探してほしいということ、二つ部屋があり、それに加えてリビングとキッチン、トイレがある部屋がいいということ。さらに忘れてはいけないのが借りる期間のことである。ユミコさんは一月中旬に、わたしは少し遅れて一月末に帰国する。そのため、部屋を借りるのは五か月と少々中途半端になってしまう。それでもよいと言ってくれるところで借りる必要がある。それらの条件をスーザンに伝えると、スーザンは手帳を開いていくつかの番号に電話をかけだした。わたしはユミコさんと一緒にそれをわくわくしながら見つめていた。

しかし、なかなか条件に合う部屋は見つからないようだった。ネックになっていたのはやはり五か月だけ借りたいという条件だった。どこも半年という短い期間では貸したがらず、五か月ならなおさらであるとスーザンはわたしたちに説明した。わたしとユミコさんは少しずつ焦りだした。このままどの部屋も借りることができなかったらどうすればよいのか。そんな表情を浮かべていたらしいわたしたちを見て、スーザンは、

「大丈夫よ、最悪一年間で借りることもできるのよ。残りの半年は、違う人を見つけて、その人に貸せばいいんだもの」

と励ました。しかし、半年後に確実に借りてくれる人が見つかるとも限らない。わたしには半年後に寮を出そうな知り合いはいなかったし、ユミコさんにもいないようだった。一年間借りて、半年後にわたしたちが新しい借り手を見つけられなかった場合、負担が大きくなるのはスーザンである。そのため、わたしたちは引き続き、半年で貸してくれるところを探してもらうよう頼んだ。スーザンは、さも当然とばかりに快諾してくれた。

何件か電話をかけ、ようやく条件に合うところが見つかった。一年ではなく、半年でもいいそうだ。五か月で貸してくれないかとスーザンが頼んでくれたが、五ヶ月だと中国語では〝押(ヤー)金(ジン)〟という保証金を返してくれないという。それには少しためらい、他に見つかりそうもなかったし、スーザンにこれ以上迷惑をかけるのも嫌だったので、部屋を半年かりることにした。

スーザンが不動産会社の人と打ち合わせをしてくれて、その日の午後、すぐに部屋を見学することになった。わたしたちは一度部屋へ戻ってから、再びスーザンの部屋へと向かった。すでに不動産会社の人らしき若者が二人、スーザンと何か話をしていた。その若者の話し方や態度からは、あまり柄がよさそうな感じを受けなかった。この二人は本当に大丈夫なのだろうかという不安を抱いてしまうが、スーザンが特に態度を変えることなく話しているから、たぶん大丈夫なのだろうと信用することにした。新しい部屋は、ユミコさんとダンダンの部屋の十二階上であった。会社の人が鍵を取り出して玄関のドアを開けると、間取りは前と同じ2DKだった。しかし、部屋にはいたるところに空き缶やペットボトルが転がっていたり、携帯電話の充電器やスパナなどが転がっていたりと散らかり放題だった。机の上にはいつから片付けていないのかわからないたばこの吸殻が放置されていた。不動産会社の若者がその部屋をまるで秘密基地のように扱っていたことが容易に見てとれた。社員は空き缶を集めたり灰皿の中身を処分したりといそいそと片付けだした。確かにゴミは散らかっていたが、掃除をすれば住めそうである。社員と話をしながらトイレやベッドを見ていたスーザンは、

「どうせ学生なのだから、机とベッドがあれば充分でしょう?」

と聞いた。わたしもユミコさんも、それに反論する必要はまったく感じなかった。それに、十七階という今までに住んだことがない高さに部屋があるのが気に入った。窓は団地の内側に向いていたが、それでも十分見晴らしがよい。こんな高いところに住んだことは一度もなかった。ユミコさんもわたしと同意見だったようで、わたしたちはここに住むことにした。スーザンは再三トイレとベッドとシャワーが問題なく使えるかどうか見ておきなさいと言っていた。トイレやシャワーにはしばしばよく問題がおこるのだろう。再びスーザンと別れ、会社の承諾が降りるのを待つことになった。

しばらくして、会社からの承諾が降りたという連絡を受け、わたしたちは契約書を書くために不動産会社に行くことになった。しかし、わたしたちのように中国語があまり自由ではない外国人がふたりだけで契約書を書きに行くのは不安が残る。もしかしたら契約の内容を理解できないかもしれないし、知らないうちに一方的で理不尽な要求をのまされてしまうかもしれないと、スーザンがわたしたちに付いてきてくれるという。さらに、女性だけではなめられると判断したのか、スーザンの旦那さんも来てくれるという。実に頼もしい助けだと心強く思った。

タクシーで中関村の方向へ十分ほど行ったところに今回部屋を借りる不動産会社があった。ビルの九階で用件を言ったスーザンのあとについていくと事務所に通された。そこは五、六人ほどが電話をしたりパソコンで仕事をしたりしている普通の事務所だった。そこの一角にある椅子に並んで座らされて少し待つと、社員らしき人が契約書を持ってきて、机に置いた。スーザンはそれを受け取るとわたしたちの前に広げ、それぞれの項目について簡単な中国語で説明をしていった。契約書には部屋の状況や契約条件、家賃や押金の金額、違反事項などが書いてあった。契約書それ自体はパソコンで作成されていたため読みやすかったが、契約それ自体にかかわる部分はすべて手書きで、ほとんど読むことができなかった。日常生活のあらゆる場面で中国語を用いることに慣れている中国人にとっては、文字を多少崩して書いたとしても問題なく読めるのだろう。しかし、中国語を学んでいるわたしは、テキストや新聞などの印刷された文字に慣れるばかりで手書きの文字に接することがなかったから、ひとりでは契約書の内容を読むことができなかっただろう。不動産会社の社員が懇切丁寧に内容を説明してくれるほど親切な接客をしてくれるとも思えなかった。スーザンが説明をしてくれなかったならば、わたしはほとんど機械的にサインしていただろう。そのことを考えると、自分の非力さをなげくと同時にスーザンへの感謝を感じるばかりである。

身分を証明するものとしてパスポートのコピーを渡し、契約書に署名して、部屋の鍵と電気のカードとガスのカードを受け取って、その日は帰宅した。団地は、電気とガスがプリペイド式になっていた。銀行や電力会社の事務所のようなところに行ってカードを渡し、お金と引き換えにカードに度数を足してもらう。電気のカードを部屋の外にあるブレーカーのところに差し込んで始めて電気を供給するようになる。ガスは部屋の中にある湯沸かし器に差し込めばよい。水道はそうではなく、二ヶ月に一度お金を取りに来る人がいた。台所にあるメーターで水道代を計算し、その場で水道代を払う。しかし、日中はふたりとも学校に行っていたから、回収する人に何度無駄足を踏ませたことかと考えると、プリペイド式のほうが便利であった。

帰りのタクシーの中で、いつのまにか非常に疲れているのに気づいた。実際にはたいしたことをしたつもりはないし、不動産の契約をしたといっても署名をしただけだったから、その疲れには驚いた。しかし、スーザンと旦那さんが会社に向かっている際に敵対心ともいえる毅然とした態度をとっており、強大な敵との戦いに出向くかのように見えたことを思い出した。買い物や契約のときには慎重にことを運ぶべきだと旅行ガイドブックに書いてあったが、中国人にとっても慎重にならなければならないのだろう。しかし、この雰囲気がその後のどたばた劇の序曲になろうとは、その時は予想だにしていなかった。

翌日、スーザンが玄関の錠を変えると言いだした。前日に会社から鍵を受け取っていたが、「会社側が全ての鍵をこちらに渡したとは限らない」と毅然と言い放つ。言われてみれば確かにそのとおりで、もともと何本鍵があるかわからないのだから、わたしたちがすべての鍵を受けとったとは言い切れない。会社の人が部屋に入り込み、盗みを働くとも限らない。最初から部屋に入られる可能性があるようでは、セキュリティもなにもあったものではない。〝疑わしきは疑え〟というのが、中国で暮らす上での鉄則なのだろう。あるいは、ひょっとしたら部屋を借りるということ自体、だまされないよう慎重に行わなければならないのかもしれない。相手が与えたものを何の疑いもなく信用するというのは、中国で暮らしていくには甘い考えなのかも知れなかった。

わたしたちは、さっそく部屋の掃除にとりかかった。トイレや風呂場は、前日スーザンが手配をしたので見違えるほどきれいになっていた。部屋を掃除してシーツやふとんを調達してベッドに敷けば、問題なく寝ることはできる。荷物はこれから徐々に運び込むとしても、寝る場所は先に作ってしまいたかった。部屋のほこりを払い、リビングのゴミを片付け、キッチンをきれいにしていくと、早く越してきたいという気持ちでうずうずしてきた。掃除や洗濯といった家事は好きでも得意でもなかったが、自分の家となる部屋を住み心地よくしていく作業は少しも苦だと感じなかった。部屋を片付け終わると、荷物をすこしだけ運び込んだ。早めにふとん一式を買いにいこうと思いながら、その日はユミコさんの元の部屋で眠った。

部屋を決めて二日目、手続きをしに社員とともに派出所におもむいた。中国においては 〝外国人〟であるわたしたちは、引っ越しをするたびに臨時戸籍登録というものをしなければならなかった。派出所にはほかにも何組か留学生と大家らしき中国人が書類をもって手続きに来ていた。手続きには契約書とパスポートが必要で、寮に住んでいたときには学校がまとめて手続きをしてくれた。自分で手続きを行うのははじめてだった。ソファにすわって順番を待っていると、カウンターの向こうに座っている職員のおじさんに視線で呼ばれた。職員のおじさんは提出した契約書とパスポートの番号を、部屋の住所とともにパソコンに登録していったが、ふと手がとまり、立ち上がって近くにいたほかの職員を呼びよせた。なにやら話をしているのを見て嫌な予感がよぎったが、わたしたちのほうに顔を向けると、

「ちょっとこっちへ来てくれませんか」

と言ってわたしたちを促した。事情がのみこめずにただ促されるままカウンター脇の小部屋に入ると、そこには机と椅子が何脚か置かれており、大柄な警察官がひとり立っていた。わたしとユミコさんは不安を感じながら椅子に座らされ、目の前に置かれた紙を見た。一枚は白い紙で、もう一枚には中国語が書いてあった。警官がその紙を指さして何か言っているが、なまりのひどい北京語でほとんど聞き取れない。ユミコさんと顔を見合わせていると、これ以上なにを言ってもわからないと判断したのか、中国語の書いてある紙をわたしたちに押し付け、白い紙へ写せという。その紙にはこう書いてあった。

わたしは○月○日~○日まで○○に滞在したにもかかわらず、二十四時間以内に届けを出しませんでした。わたしは間違っていました。わたしは中国語がわかるので、通訳はいりません。

血の気が引き、冷や汗が流れていくのを感じた。要するに、不法滞在である。知らないうちに法律を犯してしまっていたのだ。中国の法律では、外国人が入国した場合、そして引越しをするなどして新しい場所に住み始めたときには、二十四時間以内に区域の派出所に届出を出さなくてはいけなかったらしい。そういえば、北京に来たばかりの頃、正式に登録したのはしばらく経ってからであったが、到着したその日に寮の服務台で簡単な手続きをした記憶がある。さきほどの文章は要するに反省文のようなものなのだろう。言われたとおりに紙に書き写し、署名をした。しかし、なぜ反省文の手本が用意してあるのか疑問に思った。たしかに、反省文を中国語で書けと言われても、自分で文章を考えることなどできなかっただろうが、ずいぶん準備が良い。そんなことを考えていると、西洋人らしい女性が警官に連れられて部屋にやってきて、すこし離れたところに座らされ、同様に反省文を写しだした。おそらく、このあたりは留学生が多く、引っ越しをしても二十四時間以内に届けを出さないということは日常茶飯事で、右から左へというように処理していかなければ他の業務が滞ってしまうのだろう。しかし、引っ越したばかりの団地で登録するための場所を探すのは一苦労である。相当数の留学生が毎日こうして反省文を写しているのだろうと思うと、どうにかならないものだろうかと感じずにはいられない。

パスポートのコピーを取られ、コピー代を一元(十七円)払っただけの極めて軽い処分だった。

「今回は初めてだからこれくらいで済んだけれど、次回はきちんと処罰しますよ」

バリバリの北京なまりでそうまくしたてると、警察官はわたしたちを部屋から出した。

こうして解放されたのだから、無事に登録して帰れるのだろうと思っていたが、職員のおじさんと社員がなにか話し合っていた。聞こえてくる話の端々から理解したところ、臨時戸籍登録はまだ済んでいないようだった。正式に手続きするためには大家の身分証の番号が必要なのだが、それがわからないのだそうだ。社員は大家の身分証の番号を控えずに、自分の身分証で登録をしようとしていたようだった。社員であるその人間が部屋の大家だとばかり思い込んでいたわたしは、その人が単に不動産賃貸の間に立つ会社の一社員に過ぎないことを思い知った。社員は慌てて会社に電話をして大家に連絡をつけてくれると言っていたが、会社からの連絡に大家は出ないようだった。とうとう社員も「どうしようもないから、今日は帰れ」と諦めて帰ってしまった。わたしとユミコさんはほとんど事情も分からないまま突然放り出されてしまい途方に暮れた。だが、社員が言うようにどうしようもないのも事実だと思ったので、しかたなく家に帰ることにした。

中国の法律によると、外国人に家を貸す場合、大家は家賃の五パーセントを税金として支払わなければならず、払いたくないがために連絡を拒絶しているのだろうと職員のおじさんが話をしてくれた。確かに、外国人に貸すだけでその家賃から税として少し取られるというのは、大家としては不満が残ることなのだろうと納得がいく。しかし、そこで納得してはいけなかった。わたしたちは登録をしなくてはならないのだ。そのためには税金もきちんと大家に払ってもらわなくてはいけなかった。

翌日、午前中に会社に電話をし、再び派出所に来てくれるよう言った。しかし、手のひらを返されたように、「登録ができるかどうかは派出所と君たちの問題であるから、われわれとは関係ない」と冷たくあしらわれた。そんなことを言われても、わたしたちだけでは登録することができないのだから、無関係を装う態度は会社の責任を全うしていないのではないか。わたしたちだけではどうすることもできなかったので、まずスーザンに相談することにした。ことの経緯を話している間、スーザンは真剣な表情で聞いていたが、一通り話し終えると、ため息をついた。

「あなたたちは外国人なのだから、どのみち登録をしなくてはいけない。それは派出所の人もわかっているわ。だからあなたたちは派出所に通えばいい。登録できるまで毎日派出所に通って、『登録をしなくちゃいけないのだけど、ほかのことはわからない』といい続ければ、あとは向こうがなんとかしてくれるわよ」

確かに、それが最善の方法であるように思えた。

「でも、税を払わなきゃいけないのは、どうしたらいいの?」

ユミコさんが、少し不安をのぞかせた声色で尋ねた。スーザンは笑って、

「それは大家と警察の問題だもの。わたしたちは関係ないわ」

とあっさり言いのける。確かに部屋を借りるとはいえ、わたしたちは税の支払いに関係がない。派出所に毎日通うのは非常にわずらわしいように感じたが、スーザンは、

「あら、いい中国語の練習になるわよ。中国語でいかに自分の要求を伝えるか、いい練習じゃない?」

と状況をポジティブに捉える姿勢を見せた。物事を捉えるなら、少しでもポジティブでいたほうがやる気もおきるし悪い状況を楽しむことができる。そのことばに励まされて、すこしだけがんばってみようか、という気持ちになった。

朝と夕方にとにかく派出所に通い、登録しなければならないのに登録ができない状況を訴えた。派出所の人は、しつこく訪れるわたしたちの要求を十分理解してくれているようだった。そして、通い始めて五回目に、しつこくやってくるわたしたちを哀れに思ったのか、見かねた警察官が動いてくれた。会社に電話をかけてくれたのである。警官は受話器を取ると、受話器の向こう側に向かって巻き舌のひどい北京語の野太い声で怒鳴り散らした。いつもなら荒く聞こえる北京語がとても頼もしく思えた。しばらく押し問答が続いていたが、警官の気迫に負けたのか、それとも法律に従えという命令に従ったのか、身分証の番号を話したようだった。大家に連絡させたのか、それとも大家の電話番号を聞き出したのかはわからなかったが、おかげでようやく登録を済ますことができた。「もし会社が団地の中にあったら直接出向いたのだが、団地外の会社だったせいで大分めんどうくさいことになった」と登録係のおじさんには言われたが、無事に登録ができたことでほっとした。それにスーザンの言ったとおり、いつのまにか北京語が少し聞き取れるようになっていた。日本語の標準語と江戸っ子のことばに違いがあるように、北京語はわたしたちの習っている普通話とは発音が若干異なる。巻き舌の発音が強く、聞いただけでは「らりるれろ」にしか聞こえない。数日前に反省文を書きながら耳にしたときには全てが「らりるれろ」にしかきこえなかったのだが、最終的には発音の規則がそれなりにわかるようになっていた。ポジティブに捉える視点を与えてくれたスーザンに感謝するばかりである。

四苦八苦しながらも引っ越した華清嘉園というところは団地になっていて、その団地の一番西側に位置していた。団地の北側は大通りに面しており、西にある中関村へと向かう車や東に向かう車が昼夜問わずひっきりなしに行きかっていた。大通りを挟んだ北側には蓮の花をトレードマークにした大型スーパーがあり、そこへ行けば必要なものは大方見つけることができる。

そのスーパーの入口をはいると、すぐにヒマワリの種や木の実、季節によってはパックされたアイスクリームや石焼き芋を売っていた。ユミコさんに頼まれて買い物をしに来たとき、スーパーの入口に、花火のように目を引く赤い木の実の串刺しが放射状になって藁束に刺さっているのを見て、もう冬なのか、と足を止めたのは十月の末ごろだった。

〝冰(ビン)糖(タン)葫(フー)芦(ル)〟と呼ばれるその菓子は、サンザシの実を八つほど竹串に刺し、溶かしたアメでコーティングしたものである。サンザシの実の間にあんこを挟んだりすることもあるし、イチゴやキウイなどの実でつくったりすることもある。初めてこの菓子を見たのはまだ中国に来たばかりのころで、寮の前の果物屋でパック詰めされているものを見かけたのだった。パックの表面に掛かれた〝葫芦〟の意味は理解できなかったが、パックから出ている竹串と、パッケージに描かれている鮮やかな赤い実にひかれて、一本買って食べてみることにした。部屋に帰って開けてみると、中から出てきたのは確かに赤い実の串刺しだったのだが、赤い実のあいだにくすんだ色のものがあるのが見え、まるで泥か、中身がくさっているのかと思えるほどだった。このまま捨ててしまうべきかとも思ったが、とりあえず買ってみたのだし、もしかしたらあんこかもしれないと思い、一つだけ口にしてみることにした。

おそるおそる口に入れてみたものの、乾燥したスポンジのような食感と果物らしき酸っぱさがするだけで、泥のようなものは特に甘いわけではなく、ただ口の中に不快な感触を残すだけだった。もしかしたらこの実だけくさってしまっているのかもしれないと思い、もう一つ食べてみたが、やはり同じ食感と味で、食べるのが急に怖くなり、残りは全て捨ててしまった。その後、スーパーでよく観察してみると、中に入っていたものはやはりあんこだったとわかり、日本のあんこを念頭に置いていては駄目なのだと気づいた。そう気づいてからは、サンザシをコーティングしている飴の甘さとサンザシの実の酸味が案外とおいしいことに気づき、スーパーで見かけるたびに買って帰り道に食べていた。しかし、五月くらいになってあたたかくなるとぱったりと見かけなくなってしまった。サンザシの実を飴でコーティングしてあるため、少しでも暖かくなってしまうと溶けてしまうのだろう。冰糖葫芦は冬の食べ物なのだということを知った。十月になってまた冰糖葫芦を食べられるようになったことは嬉しかったが、それは同時に北京でそれだけの時間を過ごしてしまったということでもあり、あと本当に二か月程度しかないのだと、とっくにわかりきっていたはずのことをつきつけられたようだった。

華清嘉園は五道口駅のすぐ西側にあり、大通りに面した一階部分はファストフード屋や服屋が並んでいた。五道口の西側にはほかにもビルがあり、韓国資本のパン屋やカラオケボックスに日本料理屋もあってにぎわいを見せていた。にぎわうところには人が多く集まるが、集まるのは買い物客だけではない。五道口の駅前には〝小(シァオ)攤(タン)〟と呼ばれる露天商も多く集まってきていた。若い人はビニールシートの上に服やマフラー、クッション、ポーチやキーホルダーなどの雑貨を並べ、少数民族らしいということが服装から判断できる人は、民族特有の装飾品や置物を並べている。荷台のついた三輪車に乗っている人は、荷台に漫画を積んで客を待っていた。近づいていくと、「ほしいもんはないか」とリストを手渡される。リストには、荷台に積んでいない作品も載っていた。荷台に積みきれていない分はどこかに隠しておいてあるのだろう。手にとってみると、一ページに二ページ分掲載されている、粗悪なものだった。文字が小さく読みにくいだろうと思うが、それでも安く漫画を読みたい人がいるから、こうした〝盗(ダオ)版(バン)〟、つまり海賊版はなくならないのだろう。

そもそも、こうした小攤は違法である。小攤を取り締まる〝城(チャン)管(グヮン)〟は、白いワゴン車に青いパトロールランプを点滅させて五道口のあたりを常に見回っている。城管に見つかると、小攤は品物をすべて没収されてしまうという。そのため、小攤は品物を大きな布に包んで移動している。店を広げる際は、売り物をその布の上に並べて地面に置く。果物など地面に置かない場合は、三輪車の荷台の上で包みをほどいておく。城管のワゴン車がやってくると、小攤はあわただしく品物を隠す。それは驚くべき速さで、地面に置いた布の端をわしづかんで品物を包んでしまうのである。そして城管のワゴン車が去ると、何事もなかったかのように包みを開いて商売を再開する。

こんな光景は、夏くらいまでは華清嘉園の北側の歩道で日常茶飯事だった。しかし冬の訪れとともにあまり見られなくなってしまった。そのかわり、それまではいないことも多かった城管のワゴン車が五道口に常駐するようになった。翌年に控えたオリンピックに向けて、違法行為は厳しく取り締まっていこうということなのだろう。ある日、学校の帰り道にいつもは小攤のせいで狭いはずの道が広く感じられ、物足りなさを感じた。見慣れた風景が少しずつ変わり、気づいたときには取り返しのつかないほど変わっている。そうやって感じることができるほど、五道口での生活は知らず知らずのうちに積み重なっていた。

ルームシェアを始めたばかりのころは、ふたりで暮らすというものがどのようなものかわからなかった。しかし、炊き立ての白米が食べたいという願望が一致したため、わたしたちはしばしば自炊した。近くの大型スーパーで炊飯器を買ったが、白米だけを食べるわけにも行かず、何かしらおかずを作る必要があった。ユミコさんが友人からパン粉をもらってきたため、作るものといえばもっぱらコロッケかハンバーグだった。わたしは自炊などできないし、ユミコさんもさほどできるほうではないらしく、毎回四苦八苦しながら料理していた。炊いた白米と不恰好なコロッケにユミコさんがもらってきたソースをかけて、ほとんど使うことのないリビングのガラスの机に運び、それぞれの部屋からイスを持ち寄って食事をした。コロッケはそれなりにおいしく出来上がっていて、炊き立てのご飯をより楽しむことができた。

家でご飯を作るときは、いつ自炊をするか前もって決めていた。ユミコさんは離れたところに住む友人のところに遊びに行くことが多かったからだ。前の日に、「明日コロッケ作ろう」と話し、ふたりで協力して自炊をしていた。ある日、いつものようにハンバーグを夕食に作ろうという話になった。ユミコさんは学校が遅くなるというから、その帰りを待ってから作ることになるだろうと考えた。しかし、帰ってきても、ユミコさんは部屋から出てこない。ノックをしても反応がなく、疲れて眠ってしまったのかもしれないと思った。そう思って部屋に戻ると、MSNのメッセンジャーに、「今日ご飯作れない」とメッセージが入っていた。ユミコさんからである。おそらく何か落ち込むようなことがあったのだろう。そのせいで鬱々とした気持ちになっており、他人と一緒にいる気がしないのだろうと察せられた。頑固なユミコさんは、一度そうと決めたら、てこでも動かなかった。仕方なしに、わたしはひとりでハンバーグをつくることにした。ふたり分つくり、ご飯を炊き、自分の部屋で食べた。ユミコさんの分はあとで食べるかもしれないと思い、フライパンに蓋をして台所に置いておいた。

夜寝る前に見たら、まだそのままになっていたが、翌日にはなくなっていた。ユミコさんは何もなかったかのように、翌日も学校へ行った。しかし、その日の夜、MSNのメッセンジャーに、「ハンバーグありがとう」という一言が送られてきた。素直に言うことができないユミコさんの頑固さをかいまみた気がした。

こんな頑固さを持ったユミコさんとの生活が五ヶ月ほど過ぎた十二月のある日、突然不動産会社からユミコさんの携帯電話に電話がかかってきた。嫌な予感を感じながら電話に出てみると、いきなり「税を払っていないから保証金を返せない」と言われた。税を払うのはわたしたちではない。何のことを言っているかわからず、とにかく保証金を返してもらうと言って電話を切った。電話を切って、わたしたちはいぶかしく思った。税はそもそも大家が払うものではないのだろうか。不安に思い、スーザンのところに話をしにいくと、その通りだと言う。いつわたしたちが払うことになったのだろう。確かに国の立場からすれば税金は納められなくてはならない。しかし、それは大家が払うべきであって、借りている人間が払うものではない。遠回しに税を払えと言っているのは、会社が大家と結託して外国人であるわたしたちを罠にはめようとしているのかもしれない。おかしいと思って無視をしていると、また電話がかかってきた。今度は「税を安くするために、家賃を下げる契約をしよう」と言ってきた。税は家賃の五パーセントであるから、家賃を下げればそれだけ税は安くなる。不動産会社がそのように言ってくるのもわからないことではない。しかし、わたしたちにそう持ちかけてくること自体、おかしいのではないか。

わたしは、ユミコさんの手から話をうばうと、道理がおかしいと電話口に向かってどなった。あっているのかわからない中国語だったが、そんなことにはかまっていられなかった。だが、相手は、そうすることがわたしたちのためになると繰り返すばかりで埒があかない。

帰国直前に再びトラブルに巻き込まれるなど予想もしていなかった。電話を切って、どうしたらよいか途方にくれたが、ひとまずスーザンに相談に行くことにした。スーザンは、

「今までいろんな会社の物件を仲介しているし、いろんな外国人に貸したことがあるけど、こんなにひどいのははじめてだ」

とあきれた顔でため息をついた。そして、もし押金を返そうとしないなら、警察に通報することも考えておく必要があると言った。さらに大使館に守ってもらえとも提案された。事がそこまで大きくなるとは思ってもいなかったが、それが一番確実で現実的な解決方法であるように思われた。ユミコさんは一月中旬で帰国するため、時間がなかった。部屋を引き払う日程についても不動産会社と相談しなければならなかったから、年が明けてすぐに直接不動産会社に乗り込むことを決めた。直接「対決」することにわたしとユミコさんは不安を覚えたが、スーザンは、

「大丈夫。あなたたちは外国人だから守られている」

と励ましてくれた。

北京での生活では「守られている」という意識を持ったことはなかった。むしろ、自分で自分を守らなければならないという意識のほうが強かった。町に出れば、財布やパスポートを盗まれないように常に気をつけていたし、買い物をするときはだまされないように注意を払っていた。それに、学校の中ではほかの学生も北京ではみな「外国人」で、守られているというよりは立ち向かっているように思えたから、そのようにふるまうのが当然だと思っていた。しかし、それはひとりの人間にとっての話で、外国で暮らしていても母国の力を知らないうちに借りているのだということに気がつかなかった。パスポートだって母国が発行してくれなければ手に入らないし、大使館に居場所を登録することも求められていた。法律や外交的な意味では知らず知らずのうちに守られていて、仕方ないことではあるのだけれど、透明な壁ごしにしかその町に接することができないはがゆさを感じてしまう。

二〇〇八年を迎え、帰国まであと半月となった一月の中ごろに、わたしとユミコさんは、スーザンを伴って不動産会社に乗り込んだ。スーザンがいるからきっと大丈夫だろうという安心感と、それでもうまくいかなかったらどうしようという不安があった。会社はこちらが予想しているよりも理が通らない要求を突き付けてくるのだ。会社に着くとすぐに、スーザンは社員に向かって押金の話を切り出した。社員は、保証金は返すが、そのためには税を払わなければならないという。

「税はわたしたちが払うものではない。契約書に何も書いていない」

スーザンは言い、と契約書を突きつける。社員は冷静を装ってはいたが、いらだちを隠しきれない様子だった。そして、

「部屋を貸すときに税金は借り手のほうで払ってくれといったはずです」

と負けじとどなる。そんな話は初めて聞いた。わたしの中国語は確かにたよりないが、「税(シュイ)」という単語は話に出なかったはずだ。スーザンも負けじと、それはそもそも契約書に書くべきだと切り返す。

「こちらは押金を返してもらうだけでいいの」

「先ほども言いましたが、そのためには税を払ってもらわなくてはなりません」

全く堂々巡りである。わたしとユミコさんは何も言えず、黙って見ているほかなかった。中国人と中国人の討論は口げんか以外の何者でもない。理の通しあいをしているのであるが、その口調はけんかをしているのとなんら変わりはない。すさまじい速さで繰り広げられる中国語に振り落とされないようにしながら、話の内容を理解することで精一杯だった。

突然、社員がわたしとユミコさんのほうを見た。そしてスーザンに向かって言う。

「これは会社と契約者の問題だから、あなたは関係ないはずだ」

確かにそのとおりである。問題の当事者はわたしとユミコさんで、スーザンはついてきてくれたに過ぎない。それなのに、当事者ではないスーザンが交渉を行っている。中国語の分からない外国人ふたりをだしにしてスーザンが利益を得ようとしていると思われたのだろう。スーザンも、社員の意図するところを察し、わたしたちに要求を伝えるように促した。

「いい?あなたたちの要求をこの社員さんに伝えるのよ」

しかし、口げんかをしているといっても過言ではない中国語の激しい応酬を目の当たりにした後で、つたない中国語で何を伝えたらいいのか。要求はただひとつ、押金を返してほしいということだった。

「我三十号走、还给我押金」

わたしは三十日に帰る。押金を返せ。正しい言い方などわからない。丁寧さや文法、単語の使い方は適切ではないかもしれない。ただ、要求を伝えるしかないならば、言い方に気を使っている必要がなかった。社員はわたしの下手な中国語を嘲笑せず、冷静な顔つきを保ったまま言う。

「税を払わなければ押金を返すことはできない」

やはり同じ内容の事柄だったが、分かりやすくゆっくりした中国語で伝えてきた。だが、これでは話が進まない。さすがに怒りをこらえきれなくなり、「だけど、契約書には、そんなこと書いてない!」と怒鳴った。実際には怒鳴ったつもりだった。怒鳴りたかったのだが怒りの余り、中国語もひどくなった。どうやらわたしの中国語は怒りの回路にはつながっていないようだった。

いよいよ埒があかなくなったとき、スーザンと社員が席を立った。わたしとユミコさんは突然の出来事に顔を見合わせ、急に投げ出されてしまったようだった。手持ち無沙汰になってしまった。しばらくしてふたりが帰ってきた。どうやら奥で何やら交渉をしてきたらしい。スーザンはわたしたちに対して、わたしたちと会社は税を折半することになったと説明した。

「本当は争いごとは好きじゃない。お互いに非があったのだから、これが一番妥当だよ」

と笑って見せた。ユミコさんは少し納得していないようだったが、わたしはスーザンの考えに同意だった。もしかしたら社員は実際に税のことを伝えたのかもしれない。わたしたちからしたら税は大家が払うものであったし、会社にとっては税はわたしたちが払うものだった。そうだとしたらどちらにも非がある。これが一番いい判断だろう。それにわたしは最初からスーザンの決定に従うつもりでいた。自分の考えがないと言われても、どうしてこのような状況になったのか理解していないのだ。スーザンが決めたのだから、これ以外にはよい判断はないのだろうと思った。

翌日、わたしたちは社員と待ち合わせをして、派出所に税を払いにいくことになった。向かうは戸籍登録のときに散々通ったあの派出所である。わたしとユミコさんはこれで五ヶ月間の懸念から解放されるのだと浮かれていた。会社もやっと動いてくれるし、わずらわしい悩みからも解放される。おそらくわたしたちほどあの派出所に通った留学生はいないだろうが、それもこれでおわりである。そう思っていた。しかし、わたしたちの期待はあっけなく裏切られた。

派出所にいる女性は、税は大家が払いに来なきゃいけないのだと冷たく言った。わたしはそこでようやく理解した。問題は税のお金を誰が出すかではなく、大家が払いに行くか否かだったのだ。怒りを向けるべきは税を払わなければ押金を返さないといった会社でもなく、税を受け取らない派出所でもなく、税を払いに来ない大家だったのだ。社員は実に申し訳なさそうな顔をして、大家に連絡を取った上でまた連絡する、とだけ言った。わたしもそれしかないのだろうと思った。その日はそれで別れ、怒り半分呆れ半分で奇妙な気持ちを解消させるために、わたしはユミコさんとおいしいものを食べにいくことにしたのだった。

その翌日は必修クラスのテストだった。そしてとっていた授業のテストがすべて終わった日だった。テストが終わるとすぐに帰国してしまう人がいるので、その日はクラス全員があつまることのできる最後の日であった。せっかく会えたのだから、ということで昼食をクラスメートと先生たちとで食べることになった。クラスメートは思い出話に花を咲かせ、今後のことについて話した。そして、お世話になった先生たちに花束を渡して記念写真を撮った。別れを惜しみながら出会えた喜びをかみしめていたまさにその時、わたしの携帯電話が鳴った。嫌な予感を感じながら見知らぬ番号からの電話に出ると、やはり不動産会社の社員からだった。社員は、大家といっしょに家の前まで来ているので、すぐに出てこられないか、と言う。ユミコさんが家にいれば彼女に行ってもらうのだが、日本からやってきた友達を迎えに空港に向かっているところであった。このままあと一時間は帰ってこられない。電話口の向こう側からは大家らしき人の不満げな声が聞こえてくる。すぐには無理だというと、派出所に来てくれればよいから来てくれと言われた。しかたなく、わたしは名残惜しくもクラスメートとの昼食を中座して、派出所に向かうことになった。

派出所につくと、すでに税を払い終わった後であった。そこには前日来た社員と見知らぬ初老の男性がおり、この人が大家らしいことはすぐ見て取れた。もっと強欲そうな中年男性を想像していたのだが、初めて見る大家はごま塩頭の小柄な、どこにでもいそうな中国人のおじいさんだった。しかし、この老人がいままで散々わたしとユミコさんの悩みの種を生み出していたかと思うと、素直に挨拶をするのも悔しく、社員に向かってとりあえずの感謝を述べた。

家の方向が同じということで、三人で少しだけ歩いた。大家は社員に向かって「今後はできれば外国人には貸さんでくれ。外国人は税金や登録が実に面倒だ」と何度も愚痴を言っていた。それを聞きながら、やはり腹の立つ大家だと思った。社員がなんども「ここ一帯は家賃が高いんですよ、借りるのは大体外国人です」と言いながら大家をなだめていた。実際、華清嘉園は中国人の感覚からしたら家賃が高い部類に入るらしい。北京旅行に出かけたときのガイドの馬さんには「そんなところに住んでるなんて金持ちだね!」と言われたことがあった。

社員と一通り話し終わると、大家は問題の外国人であるわたしに話しかけてきた。「韓国人か?」「どこで勉強をしているんだ?」「中国語はどれくらい勉強しているんだ?」「中国語がずいぶんうまいな」。中国人だけには限らないが、外国語を勉強している外国人に対して、母語話者がする典型的な質問である。わたしは内心腹立ちながらも、それらの質問に答えた。今までに何度も答えた質問である。誰に聞かれようが簡単にこたえることはできる。

いよいよ大家と別れようかというとき、前を歩いていた大家が突然わたしのほうを振り返って言った。

「再(ザイ)见(チェン)は日本語では『コンニチワ』というんだったか?」

その瞬間にわたしの怒りは跡形もなく消えうせた。わたしは耳を疑った。まさかと思った。まさかあの大家が日本語を使おうと思うなんて。

この大家は今まで全く協力的ではなかった。社員に向かって「厄介だから外国人に貸すな」だの「貸すのは中国人がいい」だの、文句ばかり言っていた。そのくせ義務は果たそうとせず、税を払うときも大家は一元も出そうとしなかったし、払いにこようともしなかった。税を払うのも、電話口から聞こえてきた声から察するにしぶしぶだったに違いない。あまりにも非協力なので、わたしは大家を敵だとみなしていた。そんな大家の口からこともあろうに日本語が出てきたのである。

大家は、わたしが中国語の「さようなら」を知らないとは思っていなかっただろう。大家はわたしと中国語で会話をしており、簡単な質問になら答えられるくらい中国語ができることを理解しているはずなのだ。最も基本的な挨拶である「再见」を知らないと思うわけがない。それにも関わらず、大家は敢えて日本語を使おうとした。それに、自信ありげにではなく、わたしに確認をとらなければ正しいかどうか分からないのに、である。

なぜ大家はわざわざ日本語を使おうと思ったのだろう。外国人留学生と話をしているときにも似たようなことは起こる。つまり以前覚えた日本語の単語をわたしに言っては、嬉しそうな顔をする。わたし自身にも経験がある。簡単な単語やあいさつを教えてもらい、次に同じ国の違う人間に出会ったときにその単語を使えばたいていの人は喜んでくれる。相手の母語を少しではあるが知っているということを示すのは、わたしが相手に対して感じている好感を最も手軽に示せる態度であるように思われた。

もしかしたら大家も同じことを考えていたかもしれない。だがわたしは、大家のような普通の中国人は、外国人との交流や外国語とは全く関係ない世界にいると思っていた。北語の外国人学生や日本語を学んでいる中国人とは全く違った、外国人には全く興味を持たない人間だと思っていた。外国人に興味がないと思っていたから、わたしが中国語を使って歩み寄っていかなければならないように思っていた。しかし、大家のその一言はわたしの考えが誤っていることを示した。大家もまた外国人に対して知っている外国語を使ってみたいという気持ちを持っていると思うと、驚かざるを得なかった。

大家の話した曖昧な日本語は、握手の右手が差し出されたようなものであった。敵だと思っていた人間から差し出された手は振り払うには余りに唐突だった。そして大家がわたしは日本人で日本語を母語としているということを認め、歩み寄ってくれたように思われた。それが一瞬にしてわたしの怒りを消し去ってしまったのだ。

驚きながらも冷静を装って、大家に「再见

は『サヨウナラ』といいます」と伝えた。それを聞くと大家はわたしに向かって手を振りながら日本語で「サヨウナラ」と言い、去っていった。

もちろん、怒りが消えてしまったことに対して後悔の念を抱かなかったわけではない。あれだけ散々振り回されて、そのたった一言で怒りが消えてしまったことに悔しさを感じたが、それと同時に少しだけ嬉しく思ってしまったのも事実である。やられた、と思った。

そうして部屋のトラブルを無事に解決することができた頃、中国は春節を迎える準備を始めていた。春節というのは旧暦における正月で、毎年だいたい二月上旬頃に迎える。中国にとっては太陽暦の正月よりもこちらの春節のほうを重視する。春節が近づくと街中に真っ赤な中国結びの飾りや吉祥の模様を描いた切り絵が飾られる。日本よりは十二支を重視するようで、ねずみをあしらった商品が売り出される。春節のときには家族団らんが重要な役割を果すために、帰郷する人たちで駅や空港はごったがえす。そんなニュースをラジオで聞きながら、わたしは北京に来たばかりの頃を思い返していた。

北京にやってきた二〇〇七年三月初旬は、ちょうど過(グオ)年(ニェン)の真っ只中だった。過年とは、旧正月から始まり、旧暦の一月十五日である元(ユェン)宵(シァオ)節(ジエ)まで続く新年を祝う時期のことである。外国での生活が始まって一週間ほど経ち、クラス分けテストを受けたものの、授業はまだ始まっていなかった。大学の同級生が何人か短期留学生として北語に来ていたから、昼間部屋に行き他愛のない話をしたり学食で夕食を共にすることができた。しかし、おぼろげな不安を常に感じていたからか、夜寝る前の時間になるとどこか落ち着かない。日本にいる友人に逐一様子を報告するインターネット上で日記を書いてみたところでどうなるものでもない。

ある晩、夜になるとあちこちから花火のような音が聞こえてきた。まさか発砲事件ではあるまいと思い窓を開けて外を見ると、目の前で打ち上げ花火が開いた。なにごとかと思ったが、スーパーマーケットで見かけた「元宵節」という単語に思い至った。パソコンで調べてみると、ちょうど翌日に控えているらしい。正月になってから初めての満月を祝うため、満月に見立てた「湯(タン)圓(ユェン)」という団子を食べることをその時インターネットで調べて知った。「湯圓」は家族円満を表す「団(トゥアン)圓(ユェン)」と音が似ているため、そのような意味が込められているという。翌日スーパーに行き、湯圓を買ってゆでた。冷凍食品ではあったが、中国文化に関係あることができたのだった……。

ささいなことではあったが、あれからだいぶ時間が経ってしまったのだと思うと懐かしく思った。と同時に、北語に通う前の時間があったことなどすっかり忘れていることに気づいて、それだけの日時を積み重ねたのだと感慨深く思った。

ユミコさんは、一足早く一月中旬に帰国した。北大が出したビザの期限が北語より早いのだという。夜、八時頃に家を出て友人のところに寄ってから空港へ向かうと言っていたから、八時に間に合うように帰宅した。しかし、待ち合わせ時間が早まったらしく、ユミコさんはすでに家にいなかった。机の上には、数日前と同様に北大の校名が入ったレターパッドに書かれた置き手紙が残されていた。ユミコさんは置き手紙などしたこともなかったが、半年の生活が終わってしまうと思うと書かずにはいられなかったという。数日前の手紙には、「なんとも気が利かない無愛想な子」というわたしの第一印象と、ルームシェアをすることに決めた理由が書かれていた。ユミコさんも、わたしがルームメイトとして適しているか考えたときに、一生懸命中国語を学んでいると判断し、ルームシェアすることを決めたのだという。彼女の手紙に書かれていたことは、わたしがユミコさんに対して感じていたことそのままであった。お互いに、似ているところが多かったのだろう。中国語がうまくならなくてはならないという強迫じみた思い込みを抱えて生活し、頑固であるところも、一人が好きなのに寂しがるというところも、よく似ていた。

最後の置き手紙には、「またもっと成長した頃に会いましょう」と書かれていた。それはいつのことになるかわからなかったが、それほど遠くはないのだろうと思った。

借りていた家を返したのは、帰国する前日だった。あらかじめ手続きをしておいて、帰国の日までよいかと尋ねたが、手続きをしたら部屋を出てもらわないと困ると言われた。早朝の便に乗ることにしたから、部屋を返したらどこかに泊まらなければならなくなった。華清嘉園の近くに安いホテルがあり、そこに予約をしたが、スーザンにそのことを話したら彼女が持っている部屋を貸してくれることになった。

部屋の物はあらかた整理しておいた。シャンプーやリンス、ハンガーや電気スタンドは、入れ替わりに来る人の役に立つと思い、北京に残る友人に託した。寝具やストーブ、自転車はスーザンに引き取ってもらい、処分してもらうことにした。教科書や本は段ボールに詰めて船便で日本に送っておいた。残った衣類や貴重品をまとめていると、部屋にスーザンと不動産会社の人が来た。問題がないか調べられ、ユミコさんから預かった鍵とスーザンが預かっていてくれた分を渡した。

わたしの手元に残ったのは、寝具と自転車とトランクだけになった。スーザンの事務所で働いている女性が荷物を預かりに来てくれたので、荷物を彼女に任せ、わたしは不動産会社の人と会社に向かうことになった。会社で電気と水のカードを返し、押金を返してもらうのである。

会社に着くとその青年とは別れ、事務所に通された。少し前に、スーザンとユミコさんと来たところである。電気と水のカードを返して鍵を返すと、社員は青年が持ってきたらしい書類に目を通した。そしてそれらに印章を押していくと、紙を一枚わたしの前に出した。

「領収書を書いてください」

渡された紙は真っ白だった。つまり、自分で押金を返してもらったという内容を証明する文書を書かなければならないのだ。領収書の書き方など習ったこともないし、そもそも領収書の文言を自分で書くということなど、日本語ですら経験したことがなかった。

「書き方を知りません」

というと、社員は慌てたような表情で、

「書いてもらわないと困ります」

と言った。そう言われても、書けないものは書けない。押し問答の末に、文書を社員が書き、そこにわたしがサインすることで落ち着いた。中国語を一年学んだとは言っても、それは決して完結を意味しない。むしろ、学ぶことはまだたくさんあるということを思い知った。

会社を出て、華清嘉園にあるスーザンの事務所へ帰ろうと思いジーンズのポケットに手をいれると、冷たくて硬いものにあたった。何だろうと取り出してみると、それはさきほど返してしまったはずの部屋の鍵だった。「返したくない」とよぎった思いが知らないうちに行動となってしまったのだろうか。わたしは取り出した鍵をパスポート入れにしまった。

その後昼食をとり、仕事で出かけているというスーザンを事務所で待つことにした。窓際にある簡素な応接セットに腰を下ろし、ぼんやり外を眺めていると、スーザンの旦那さんがお茶を入れてくれた。紙コップに茶葉が直接入れ、お湯を注いだものだった。コップを傾けるたび葉が口の中に入って飲みにくいと思ったが、もてなそうとしてくれたのが嬉しかった。

スーザンが帰ってくるのを待って、北語のむかいにある石油大学にあるという部屋へ向かった。旦那さんがわたしのトランクを運び、リリーというアルバイトの女の子は自転車に寝具を乗せて運んでくれた。手持無沙汰になってしまったわたしは、リリーの自転車からまくらを取り上げて、抱えるようにして運んだ。

慣れ親しんだ五道口駅の東側には、五道口ショッピングセンターがこの日オープンした。このショッピングセンターは六月ごろに建築準備が始まり、立派なビルが早々に立ったものの、一向にオープンする気配が見られなかった。いつオープンするのかユミコさんと心待ちにしていたのが夏ごろだったが、ユミコさんはオープンする前に帰国してしまっていた。昼間少しだけ覗いて見たが、なにもかもが新しく、ぴかぴかに磨かれていた。正面入り口には大型のスクリーンが設置され、花火の映像を映し出していた。帰国する前日にオープンするとはなんとも間が悪かったが、その間の悪さは、おせじにも五道口のほこりっぽい空気に似つかわしくない大型ショッピングセンターのありかたなのかもしれなかった。

スーザンに案内された部屋は、オレンジ色の裸電球がつるされただけの実に簡素な部屋だった。ベッドがひとつと机がひとつあるだけで、床にトランクを広げてしまえば、足の踏み場はもうほとんどなかった。シャワーとトイレは共用で、狭くて寒い廊下の突き当たりまで歩いて行かなければならなかったが、シャンプーやリンスは人にあげてしまっていたからあまり関係がなかった。

夕食は北語の中にあるムスリム食堂で、前学期のクラスメートであるイラン出身のアーミンと食べた。漢語進修学院での中国語予備教育を終えたあと、大学院生として北語に残っていたアーミンに明日帰るとメールしたら、「それなら夕食を一緒に食べない?」と返信が来たのだった。中国人の知り合いと一緒にいくから、そっちも知り合いを連れて来ていいよと言われたが、誘うことができる知り合いはもう近くにいなかった。

アーミンは前学期と変わらず、目をしばたたいては長いまつ毛をゆらしていた。アーミンと中国人学生との会話は意味をつかめない単語が多く、ほとんどついていけなかった。それでも、かつてアリヤやファンリェン、メイランやメアリーたちと幾度となく味わった香辛料のまぶされた羊肉の串焼きや焼き立てのナンの味をともに楽しむことができた。ムスリム食堂のナンは、日本で見るような細長いパレット型のものではなく、フリスビーのような大きさをしている。新疆ウイグル自治区のムスリムが開いている店であるため、そのような特徴があるのだろう。

アーミンと中国人学生と握手して別れ、わたしはその日泊まる部屋へと戻った。翌日は朝早い便で帰るため、そのまま眠ってしまおうかと考えたが、足はいつのまにか五道口の喫茶店に向かっていた。五道口にいくつかある喫茶店には、考え事をしたりぼーっとしたりするときによく通っていた。すぐに眠りについてしまうのはなんだか惜しくて、最後の夜をかみしめたかったのだろう。慣れ親しんだ風景の中に、自分の身体を置いておきたかったのかもしれない。

案内された隅の席に座り、店内の風景を眺める。パソコンを覗き込む人、中国人と中国語で話している西洋人、楽しそうにおしゃべりしている留学生たち。わたしが北京からいなくなったとしても、おそらく店の風景は変わらないのだろう。そう思うと、店の雰囲気の中にいるはずなのに、切り離されて外から眺めているような奇妙さを感じた。

運ばれてきたカフェラテには、ミルクとコーヒーのコントラストを利用して雪だるまが描かれていた。今まで注文してもこんなサービスなど受けたことはなかった。わたしの事情を知っているほど顔見知りの店員はいなかったから、偶然であることは間違いない。だが、そんな些細な偶然さえ特別な心遣いであるように感じられてうれしく思えたのだった。

翌日、一月三十一日。朝五時ごろに起き出し、少しだけ広げていたトランクに荷物をつめて部屋を出た。部屋の鍵は部屋に置いておけば後でスーザンが回収してくれるという。これから発つという意味を込めてスーザンの携帯に一コールだけ電話をして部屋を後にした。

早朝のためタクシーが走っていなかったらどうしようかと不安に思ったが、特に問題なくつかまえることができた。タクシーはまだ暗い北京を、北東の方向に向かって走り出した。五道口や北語など見慣れた街並みが後ろへ消えていくと、なんとも言えない感慨が湧いた。

「……今天是我在北京的最后一天」

今日は北京の最後の一日と運転手にこぼしてみたが、運転手にその感慨は伝わらず、あいまいな返事をされただけだった。

北京首都国際空港に着く頃には東の空が白んでいた。まだ人もまばらなカウンターで搭乗手続きを行い、シャッターが閉まっている土産屋をしり目に、成田行きの飛行機が来る待合室で飛行機を待つことにした。

近くの搭乗ゲートは西アジアへと向かう飛行機が来るのだろう、白い布で髪を覆った白い服の男性が何人か、搭乗口に消えていった。そうして飛行機が来るのを待っていると、まぶしい光が飛び込んできた。日本より少し遅い日の出である。空は真っ青に澄んでいるし、空港内の冷えた空気に息が白く見える。

こんなに晴れがましい気持ちで北京を離れるのは不思議だった。中国語にはまだ不安があるし、北京にいる人々に対して離れがたい気持ちも持っている。だが、中国語はこれからまだまだ長くつきあっていけばよい。小さいころから家族やまわりの大人を真似して身につけてきた日本語でさえ言いたいことなど半分も伝えられていないのだ。たかだか三年勉強した程度で満足に扱えるはずなどない。

飛行機に乗り込んで離陸を待つ。スピードを上げて滑走路を走っていく。急にエンジンがかかり、身体が座席に押し付けられながら飛び立つのを待つ。高校の語学研修でオーストラリアから帰るとき、飛行機の車輪が地面から離れるのを感じた瞬間にわけもわからず涙があふれてきたのを思い出す。思い返すと、オーストラリアの大地から離れてしまうことは三週間過ごした場所や時間との縁が切れてしまうことのように感じられたのだろう。だが、北京の滑走路から車輪が離れたのを感じても、そのような気持ちになることはなかった。北京で出会った人たちとは、どこかでまた会うことができる。そう信じることができた。違う国にいることなどほんのささいなことで、その気になれば再会することなど造作もないことの様に感じられた。いや、再会などしなくてもかまわないのかもしれない。漠然とした「また会える」という確信が心強く感じられた。小さな島国に生まれた人間がユーラシア大陸の東端の大地を踏みしめ、果てなく広がっていく地面の存在を知ったからだろうか。それとも、世界のあちこちから集まった文化も母語も異なる人間と、中国語という共通項のみで出会った心地よい奇妙さに感銘を受けたのだろうか。何がそう思わせているのかはわからなかったが、北京留学で出会ったひとやできごとは、何一つ欠けてもだめなのだろう。前期に王先生の授業で見たチャンイーモウ監督の映画『一个都不能少』というタイトルを思い出しながら、つながっていることを無性に信じてみたくなった。


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