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北京留学記:中国語ができない

最近またこのアカウント(@qoomingjs)でつぶやき出したんですけど、特につぶやくこともない…と思いつつ、何かないかな…と考えたところ、昔書いて外に応募してそのままになっていた文章を流してみようかな…という気持ちになったので、流して行こうと思います。文章自体は2012年に書いたものなので今とはスタイルもだいぶ違うし、見返すのもちょっと恥ずかしいのですが、パソコンのデータ整理で消えてしまうよりは良いかなと思うので。

2007年、北京オリンピックの1年前に語学留学をした、見栄っ張りで臆病な大学生の留学記です。


中国語ができない

北京市街地には清朝時代の宮殿である故宮を中心にした大きな道路が五重に存在する。それぞれ内側から「二環」「三環」……と名前がついており、方角と共に「北二環」「東二環」などと表すことで場所のだいたいの位置を掴むことができる。簡単に言えば四角形のどちら側にあるかを表わすことができるのだ。そのため北京において生活するときには北京の地図とこの五重の道路とを頭に入れておくことが非常に有益である。

実際、この五重の道路があるおかげで、北京市街地の地図を頭に入れることが意外とたやすい。西か東か、北か南か、中心にある故宮からどのあたりにあるのか、全体のおおまかな位置関係なら案外あっさりと覚えることができる。しかしその覚えやすさとは裏腹に北京は意外と大きい。試しに北京市街地と東京の大きさを比べてみるとよくわかる。五重に走っている北京の道路の中心にある故宮と、東京駅を重ねて地図を見てみると、山手線の南北方向の大きさはだいたい北三環から南四環までに及ぶ。東西方向はというと、西側は西三環にも届かない。東京の東県境は北京では東五環ぐらいまで、西は西五環よりもはるか西まで届くから、北京よりは東京のほうが大きいように見える。

しかし、北京市は五重の道路のはるか外側まで延びている。北京の市街地からバスで二時間以上かかる万里の長城の一部の八達嶺長城も北京市にある。日本地図に北京市の地図を重ねてみると、北は宇都宮、南は房総半島の最南端、東は銚子、西は甲府あたりまでの範囲が北京市に入ってしまう。北京市は四国とほぼ同じ面積だという。北京のなんと大きいことか。

このような広がりを持つのが北京である。と言っても、北京の大きさに感動してみたところで、わたし自身は北京を駈けずりまわる生活をしていたわけではない。北京市の南部に位置する、北京市街地のうち北四環の近くにある五道口で一年間暮らしていただけにすぎないから、北京市がどれくらい大きかろうとわたしの留学生活には実はほとんど関係がなかった。

わたしの留学した北京語言大学は北四環の外側にある海(ハイ)淀(ディエン)区学院路沿いに位置し、市街地の北東部に位置する北京首都国際空港からタクシーでおよそ一時間の距離にある。海淀区にはほかにも多くの大学が存在しており、中国の大学のなかでは最高峰となる北京大学と清華大学を始め、道路を挟んだ南側には中国地質大学、東側には中国石油大学、少しはなれたところにはオリンピックの柔道やテコンドーの開催地となる北京科技大学などもある。海淀区は北京市の学園都市であると言える。

北京語言大学は数多い北京の大学の中にあってもひときわ個性的である。一九六二年に創立された学校で、当時は「外国留学生高等予備学校」と言った。大学というよりは、北京大学付属の予備学校であり、中国国内の大学へ進学予定の留学生に対して中国語教育を行っていたようである。一九六四年に名称が「北京語言学院」に変更され、その後一九九六年に教育部の認可を受けて正式に大学になると共に「北京語言文化大学」への名称変更を行った。そして二〇〇二年に今の大学名である「北京語言大学」へと改名された。

日本語では「言語」というが、中国語では「语言」という。日本語で「言語学」という学問の名前を中国語では「语言学」というし、ことばを運用する力が強いことを「语言能力强」と表現する。中国語の中にも「言语」という単語はあるにはあるのだが、この単語はどちらかというと具体的に現れたものとしてのことばを指すようだ。それに対し、「语言」はどちらかといえば抽象的な意味でのことばを指す。とすれば北京語言大学は具体的なことばというよりはより抽象的な概念としてのことばについて学ぶところだといえるかもしれない。

学生は「北京語言大学」のことを親しみこめて「北(ベイ)語(ユィ)」と呼んだ。この呼び名がいつごろ始まったのか、またわたし自身どこで覚えたのかまったくおぼえていない。中国の大学の最高峰である「北京大学」のことを北京の人たちが親しみこめて「北大」と呼ぶのに対抗して呼びはじめたのかも知れない。いつの間にか自然と「北語」と呼ぶようになっていた。

今の北語でもかつての性格を引き継ぎ外国人留学生が非常に多く学んでいる。世界一七五か国から留学生がやってきて中国語を学ぶ。国際色の豊かな大学であると言える。北語の教師や学生が北語のことを「小さな国連」と言いたくなるゆえんである。

基本的に中国人学生と外国人学生は別のところで学ぶようで、外国人学生向けのコースは非学歴と学歴に分かれている。卒業後学歴として認定される授業に参加することもできるが、日本の大学と同じように四年間かかる。学歴として認定されないコースはそうではなく、一か月から二年ほどのコースが中国語を学ぶ学生に開かれている。うち一か月から半年の短期コースを漢語速成学院が、一年以上の長期コースを漢語進修学院が担当している。わたしは、この漢語進修学院で学ぶことをきめた。

「学院」とは大まかに言って日本の大学の「学部」にあたる。簡単に言えば、漢語速成学院は「短期中国語学部」になり漢語進修学院は「長期漢語文化学部」あるいは「長期中国語学部」になるだろう。ただしこの二つの学院がほかの学院と違うのは、入学試験らしい試験が存在しないことだ。申請書を提出し入学金を払った時点で入学できてしまった。漢語速成学院は高校卒業または同等以上と認められる学歴を有し、かつ十八歳以上六十歳以下の者であれば応募できる。漢語進修学院で普通進修生として一、二年学習するならば、大学に二年以上在籍するか、または同等以上と認められる学歴を有する必要がある。年齢制限はこちらも十八歳以上六十歳以下なのであるが「同等以上と認められる学歴」で十八歳の人間というのがいるのかどうか、わたしにはわからない。だが語学生として学習するならば高校卒業の学歴を有していればよいらしい。何を以て語学生というのか何を以て普通進修生というのか、これもよくわからない。ただ、学生証には学生番号と医療費の公私のほかに「普通進修生」と記されていた。

わたしが北京へやってきたのは、二〇〇七年の二月も終わろうかという頃だった。北京に発つ飛行機は朝一番の便だった。家から成田空港まで電車でかなりかかるので、家から向かっては始発に乗っても間に合わなかった。そのため、前日は成田空港近くのホテルに泊まった。ひとりでかまわないと言ったのに、心配だからと母がついてきた。心配されるようなことはないと思ったが、娘がひとりで一年も旅立つとなっては、心配したくなくてもしてしまうのだろう。

翌日、朝食はホテルのバイキングがあり、わたしは味噌汁や漬物のような日本食ばかりとって食べた。朝食をせわしなく取り、バスに乗って、成田空港へ向かった。母に、付いてくるのはチェックインカウンターまででいいと言ったが、荷物が重量オーバーしていたため、慌ててオーバー分の金額を外で待っていた母に借りに行った。結局、母はそのまま出発口まで付いてくることになった。

朝早い便だったが、友人のYがひとり見送りに来てくれた。電車がないからと言って、前日は漫画喫茶に泊まったという。Yは仕事があるからとそそくさと帰っていった。そこまでして見送りに来てくれることに驚いたが、素直に嬉しかった。

母は最後の最後まで離れがたく見送っていた。一年間会えない娘を心配する母のその姿に、不覚にも涙がこぼれそうになったが、これから出発するというのに情けない姿は見せたくなかった。

飛行機に三時間ほど乗って北京に到着した。北京首都国際空港からタクシーに乗って、留学先である北語まで向かった。北語に到着し、世話になる寮の十七楼のまえでタクシーを降りた。重いトランクを引きずって、寮のカウンターで到着手続きをした。これから一年弱の生活がどのようなものになるかわからなかったが、北京での暮らしが楽しみであることには違いなかった。

こうして、わたしの留学生活ははじまった。三月をまもなく迎えるとは言っても、北京の街はまだ凍えるほど寒かった。それは三月になっても変わらず、ひどく乾燥していたこともあって街全体が灰色に覆われているようにみえた。どこへ行くにも上着を欠かすことができず、上着のポケットに両手を突っ込んで歩かなければ耐えられないほどだった。

わたしの中国留学の目標と言えば、まずは大学の専攻で二年間学んだ中国語に磨きをかけることだった。親元を離れての海外生活やクラスメートのほとんどが外国人という環境での勉強を通して、今まで感じたことのないことを感じることができるのではないかと考えていたが、はっきりとした目標としてわたしが念頭においていたのはむしろ中国語がどれだけうまくなるか、ということであった。

中国文学や中国経済を学ぶために留学する人もいるなかで、なぜ語学留学を選んだのだろう。ことばは外国で生活することでとりあえず身につくと考えれば、それは語学留学を選んだ理由にはならない。ことばを身につけるためだけになぜわざわざ一年を費やすのだろう。大学を休学して一年という貴重な時間を割いて中国語を身につけるくらいなら、長期休暇のたびに中国へやってきて短期留学を繰り返すという手段をとるほうがよいという人もいる。しかし、わたしは中国で生活をして中国語を身につけたかった。留学すると決めたときぼんやりと考えたのは短期留学を繰り返すことでもなく、学問を学ぶために留学することでもなく、中国で生活をして中国語を身につけたいということだった。あえて言うとすれば、日本語で展開される世界を離れて中国語で展開されている世界にどっぷり浸かってみたかったのだろう。

もちろん、まったく違う環境に身をおく以上は何かしら感じることはあるだろうし、まったく違うものに触れることで感じ方に何かしら変化があるかもしれないとも思っていた。だが実際に触れてみないと「何かしら」が何であるかはわからなかった。その「何かしら」に惹かれて留学を決めたのかもしれない。とにかく留学を始めたころのわたしにとって中国語の授業が留学生活における重要度の大半を占めていた。特に留学の最初の一週間は新生活への期待と初めての一人暮らしへの緊張も相まって、わたしの心は中国語学習に対する十分な気合と少しばかりの不安で満ちていた。

漢語進修学院のクラス編成は初級、中級、高級の三つのレベルに分かれている。さらに各級が上・下の二班からなるので、全部で六段階のクラス編成になる。高級というのはすなわち上級のことで、日本語とはすこし異なる。日本語で〝高級〟というと品物の質や住宅が上等であるという場合に限られるが、中国語では将校の階級やクラスのレベルを表すのにも「高級」を用いる。また初級上と初級下では初級下のほうが高いレベルに位置する。日本語の感覚で考えると初級下のほうが低いクラスを意味するような気がするが、中国語ではそうではない。長編小説の「上巻」「下巻」が順序の前後を表すように、学習の進度にしたがうと考えるのだろう。日本語のようにレベルを山に見立て学習するにしたがってひたすら上へ上へと登っていくものとは捉えず、順番に従って一歩ずつ段階を踏んでいき高みに達すると捉えるのだろう。

進級はこの六段階のクラス編成に従って行なわれる。授業を始めるためにクラスわけテストを行なって学生の現在のレベルを測り、それに適したレベルに分ける必要がある。全く中国語を学習したことがない場合には自動的に初級上に振り分けられるが、少しでも学んだことがあればテストを受けてレベルを決定する必要がある。学校側としては、学んだ時間数や資格を自己申告させるよりはテストの結果に基づきクラスを分けたほうがより適切な教育を行うことができると考えているのだろう。

わたしは留学を始める前に中国語を学んでいたので、三月二日に行われたクラス分けテストに参加した。テストは聴解・文法・読解・総合穴埋めの四つから構成される。日本の文部科学省に相当する中国の教育部が認定している資格試験「漢語水平考試」、いわゆるHSKと同じ形式であった。

四か月前、つまり大学で一年半勉強をしたころにこのHSKを一度受けたことがあった。成績は初級をちょうど修了した程度であった。そのころから半年勉強をしていることを考えると、きっと今のわたしのレベルは中級を半分終わらせた程度で、振り分けられるレベルは中級下になるのではないだろうか、と思った。

クラス分けテストを受けた三日後に、成績とともにクラス分けの結果が発表された。漢語進修学院の事務所のある教一楼に行き、結果の書かれた紙を受け取った。返ってきた結果を見るとテストの点数と共に「準高」と書いてあった。「準高」とは何であろうか。「準上級」ということだろうから中級を意味するのだろうか。隣にいた人の成績表を横目でこっそり見ると、その欄には「中下」とあった。きっと「中級下」のクラスに振り分けられたという意味だろう。「中級下」は中級ではレベルが高いほうになるから、それよりさらに高いレベルとなると「高級」しかない。ということは「高級上」のクラスに振り分けられた、つまりすでに中級を修了したと判断されたのだとわかった。

「高級上」とはわたしが予想していたのより上のクラスである。基本的に一つのレベルで半年間学び、もう半年をそれより一つ上のレベルで学ぶことを考えると、六つのレベルのうち上から二つ目にあたる高級上はクラス分けテストでたどり着くことのできる一番上のレベルである。

予想よりよい結果が出てしまったことで小さな不安が芽生えた。果たして授業についていくことができるのだろうか、中国語を理解することができるのだろうか、会話の授業ではうまく話すことができるだろうか。テストには会話の力を測る試験はなかった。テストの聴解は音を聞いて目で解答を探すだけである。漢字を小学生の頃から学んでいたおかげか答えを探すのは非常に速い。しかし実際の会話には音しか存在しない。もしかしたら聴解の成績は漢字の理解にずいぶん助けられていたのではないか。考えるうちに授業についていくことができるかどうか不安になった。レベルの高いクラスに入ったところで授業に全くついていけなければ苦痛に過ぎないだろうし、授業を活用できなければ留学の期間をまるまる無駄にしかねない。

また一方で、わざと不安がっていたのかもしれない。あらかじめ不安に思っておくことで心構えができるからだ。授業についていくことができて不安が外れるのは一向に構わない。「不安がっている」というポーズをとることで、実は全然不安になど思ってないのだ、と思い込みたかった。

しかし、不安がっているポーズをとることで不安を感じていないように振舞う、というのも不安の裏返しなのではないか。本当は不安で仕方がなかった。心の底では、ひどく厚い壁にぶち当たってしまったように感じていた。だが不安を誰かに見破られてしまうのはもっと怖く恥ずかしかったし、逃げたがっていると思われたくもなかった。だから心の中で不安に蓋をし、わたしなら十中八九問題がないと信じたかった。そうして大丈夫だと自分を騙してからでないと安心して不安になれなかった。

だが同時に嬉しくもあった。実際のわたしの力がどうであろうと学校から「高級上のクラスに入ってよい」と許可をもらえたのだ。せっかく学校に許可をもらえたのだから、みすみすチャンスを逃す必要はない。そして何より中国で、北語で留学できるのは一年しかないのだ。高級上のクラスに入ろうと決めてしまうと、明るく楽しい充実した留学生活がスムーズにスタートする気がした。

授業初日は水曜日であった。といっても在校生の授業はすでに月曜日に始まっていたので、この日は新入生にとっての授業初日であった。そして今後半年間共に学ぶクラスメートたちと初めて顔を合わせる日でもあった。

会話の授業の教室には二つずつ並んだ机が横に三列並んでいた。縦は五列ほどだったのでさほど大きくはない。教壇といえる台はなかったが、黒板の前には教卓のようなものが置いてあった。教卓と言えるほど高くなく、表面には三十センチ四方の黒い画面がついていた。テレビでも見ることができるのだろうか。

教室に入ると、教卓の前に三つ並んだ席に座っていた三人の女の子と目があった。彼女たちは楽しげに談笑していた。一人は褐色の髪の毛を一つに結った色白の子だった。東アジアや東南アジア出身でないらしいことはわかるのだが、どこの国からやってきているのかはわからない。そのとなりには黒髪で肌が少し黒い小柄な女の子が二人座っていた。東南アジアから来た子だ。国籍が違う女の子たちが楽しく話しているのを見て少なからず衝撃を受けた。三人は中国語を用いて話していたからだ。おそらく三人が共通して使うことのできることばが中国語しか存在しないからなのだろうが、なによりスムーズな会話を中国語で行っていたことに驚いた。この人たちはこんなに速く中国語を使うことができるのか。

そうした外国人とクラスメートになること、彼らと中国語でコミュニケーションを図っていかなければならないことを改めて確認した。

「你好」

小さな声で挨拶をして、隅の席についた。彼女たちからの返事はなかった。

授業開始時間が近づき教室に次々と入ってくるクラスメートを見ていると、日本にいたときの環境とは全く異なるところにいるのだと実感した。スカーフを頭に巻いて髪の毛を隠している女性はイスラム教圏からやって来たのだろうし、彫りが深くひげの濃い顔をした男性は中東出身だろう。長身でがっしりとした体型の男性は南米出身に見える。日本人らしい顔の人はいたが、聞こえてきたのは韓国語だった。もしかしたら、クラスで日本人はわたしだけなのではないか。外国で唯一仲間となりうる日本人がいないかもしれないと思い不安になった。

あとから名簿で調べてみて分かったのだが、わたしのクラスには全部で二十七人の生徒が在籍していた。その国籍はベトナム、韓国、日本、イラン、メキシコ、ラオス、インドネシア、スーダン、ブルガリア、カザフスタン、タイ、オーストラリアと実に多彩だ。生まれて二十年間ほとんどの時間を日本人だらけの空間で過ごしてきたわたしにとって、これほど多くの外国人に囲まれたのは生まれて初めてである。それだけでも緊張するのに、中国語を使わなければコミュニケーションが図れない。ひょっとしたら中国語が通じないのではないか。数日前の不安が再び頭をもたげ、いやそれは単なる錯覚に過ぎない、やろうと思えばできないことはないと自分を励まして初授業に臨んだ。

最初の授業は会話だった。会話の教科書に載っている本文の学習は月曜日に終わっているらしく、二回目の授業に当たるこの日は本文で学習した内容についてクラスで討論することが授業の中心となった。厳しい目つきに眼鏡をかけてふくよかな体つきをした女性教師はこの日の授業内容を手短に説明するとクラス全体を手際よく三、四人ずつのグループに分けた。気がついたら、近くに座っていた学生とグループを組まされていた。

同じグループになったのは全員男性だった。中にはすでに顔見知りである学生もいたようだったが、わたしたちはまず自己紹介をすることになった。

一人目はイランから来たという男性で、長いまつげと彫りの深さとひげの濃さが印象的だった。二人目はオーストラリア出身だという男性だった。しかし見た目からは、オーストラリア出身には見えなかった。それで思い出した。高校時代、クラスに交換留学生としてやってきていたオーストラリア人は金の髪と白い肌をしていたのである。だが、彼はわたしと同じ黒い髪に黄色い肌をしていて、東アジア出身であるように見えた。次に自己紹介したのは黒髪を後ろで一つに束ねた男性だった。聞いたことがない国名だったので出身はわからなかった。ただ陽気そうな話しぶりからは南米出身なのではないかという推測ができた。

最後にわたしが自己紹介をした。三人の話す中国語に気後れし話し出すタイミングを逸したためだった。他の三人は聞いてくれたようだったが、どれだけ通じたかはわからなかった。

討論のテーマは「贈り物」だった。自分の出身地ではどのようなときに贈り物をするのか、どのような贈り物は敬遠されるのか、といった話をした。話をした、と言っても実際に話しをしていたのは他の三人で、彼らは互いの国や地域のことを笑顔で紹介していく。しかし、わたしはそれをほとんど理解することはできずに、笑いながらあいづちを打ち続けた。今まで中国人の、それもコントロールされた標準的な中国語である「普(プー)通(トン)話(ホァ)」しか聞いたことがなかったからだ。ところが、彼らの中国語は母語の影響を大きく受けていた。それに三人が三人とも異なる影響の受け方をしていて、音を聞き分けることさえできない。

「日本ではどうですか」

一度だけイランの学生がわたしに話を振った。先ほどから一言も発しないわたしに配慮してのことだろう。唐突に話を振られ、心臓が跳ね上がった。他の二人の視線もわたしのほうへ向く。

「あー……、日本では、あのー……」

しどろもどろになりながらことばをつなごうとする。しかし何を話してよいのかわからない。日本で贈り物にしてはいけないものと言ったら何だろうか。病人には椿を贈ってはいけないのだったか。「苦」と「死」を連想させるから、櫛を贈ってはいけないというのは正しい情報だろうか。「結婚式ではご祝儀を偶数枚で渡してはいけない」というのは今回話している内容に含まれるだろうか。

それに、どのような単語を用いて説明すればいいのかわからない。適切な単語を知らず説明することができないのだ。「櫛」は中国語でなんと言うのだろう。「椿」は? 「結婚式」は? 先ほど教師は「贈る」をなんという単語で説明していたか。

左手で辞書を調べながら右手で手振りを行いながら中国語を話した。他の三人は一通りわたしの話を聞くと、再び三人だけで話し始めた。グループ会話にもかかわらず、そこに上手く入り込めないことを痛感し、悲しくなった。中国語力はもちろんのこと、話す内容についても理解が足りないのだと痛感した。

グループでの会話が一通り終わったころを見計らって、教師はクラス全体に声を掛けた。グループでどのような話が出たかまとめて発表してほしい、ということだった。わたしたちはイランの学生に代表を任せ、発表した。わたしの話も紹介されたが、あまり理解してもらえなかったのか、複数話したにも関わらず、一つしか紹介されなかった。

全てのグループが一通り発表し終わったところでちょうど休み時間となった。初授業は耳が中国語に浸かりきり、もう中国語を聞くのが嫌になってしまうほど疲れた。机に突っ伏すとため息が大きくこぼれ出た。

「你好!」

その時、話しかけてきた人がいた。顔を上げ振り返ると、先ほど同じグループになったオーストラリア人だった。授業中ほとんど発言しなかったわたしに気をつかってくれているのだろうか。それとも暇そうにしているわたしを見てよい暇つぶしだと思ったのだろうか。

彼はわたしが中国に来たばかりだということをわかっていたようだった。今まで見たことがない人間が数日後れてクラスにやってきたとしたら、それは中国に来たばかりの学生か、そうでなかったら初日に授業を欠席した学生だと思うだろう。だが彼は先ほどのわたしの焦りぶりから前者であると見当をつけたのかもしれない。

わたしは少しでも中国語を使えるよいチャンスだと思い、何を話そうか頭をひねった。しかし思いついたのは、その時わたしの心を大きく支配していたことについてだった。

「みんな中国語が上手なんですね。わたしはさっきほとんど分かりませんでしたよ」

素直な感想だった。教師の話すスピードは大学二年生のときに受けた授業で教師が話していたスピードよりも圧倒的に速かった。またクラスメートのレベルもわたしなどとは比べ物にならないほど高かった。彼らはわたしの知らない単語を多く使っているのか、何を話しているのかさっぱり聞き取れなかった。授業中、彼らは教師ともなんら問題なくやりとりをしているし冗談まで飛ばしていたし、教師の質問に対して自分の考えを述べていた。それに対してわたしは、周りの人間が何を話しているのかほとんど聞き取れない。

それを聞いたオーストラリアの彼は、冷静さを帯びた笑顔で笑って見せると、

「没问题,慢慢来!」

と言った。「問題ないよ、ゆっくりおいで!」という意味だと理解した。わたしは少しむっとした。そんなことは実際にうまく話せるから言えるのではないか。ゆっくりでも勉強すれば中国語は上達するかもしれない。しかしそれでは授業に追いつくことはできない。同時に余裕を持って冷静にそんなことばを言うことができる彼をうらやましく思った。

数日前の楽観的な自信は、たった一回の授業で脆くも崩れ去った。そして頭の片隅を占めているに過ぎなかった不安が全面的に押し出された。おそらく試験の結果を受け取った時点では、現実味のある不安とは考えていなかったのだろう。しかし、それが放っておくことのできない、現実にはっきり存在する不安に変わった。わたしはこのとき初めて現実に気付いたのだ。

学校側もこうした事実は想定しているのだろう。もしクラスのレベルが合わなかったときのためにクラスを変えることのできる調整期間があった。しかし、それも気付かないうちに過ぎてしまった。

さらにわたしの不安に拍車をかけたのは、他のクラスメート同士がすでに親しげだったことだ。これにはショックであったのと同時に不思議でもあった。いくらわたし以外のクラスメートが在校生で、すでに授業を受けているといっても、その日の授業は新しいクラスになってから二回目の授業ではなかったか。それなのにどうして互いの名前をはっきりと知っているのだろう。すでに親しげだということは、もともと顔見知りであったのだろうか。絆のしっかりした仲良しグループに入り込むことほど至難なことはない。わたしはクラスメートと仲良くできるのだろうか。クラスメートの不思議なまでの仲のよさはわたしの不安をあおるのには十分だった。

全く逃げ道がない状態で、「わたしは中国語ができない」という愕然とした気持ちのまま留学生活は始まった。

授業が始まって一週間経ち、わたしが最も不安を感じたのは、わたしとクラスメートたちの中国語力の「差」だった。クラスメートたちはわたしが聞き取れていない教師の話も、問題なく聞き取れているようだった。教師はおそらく話す中国語のレベルを調整しているだろうから、それすら聞き取れていないわたしは他のクラスメートに比べたら劣っていた。聴解力は現地に行かなければどうにもならないということは人から聞いていた。たしかに、やりとりがそのことばだけでなされている現場に行かないと聞く力はつかないだろう。だが、わたしはすぐになんとかなると思っていたし、当時の自分の実力でも問題ないはずだと高をくくっていた。しかし、すぐにはどうにもならない。すぐにどうにもできない分、余計につらい。

「差」が存在することで、わたしの気持ちは焦った。クラスメートがわたしよりできるということは、わたしがクラスメートの足をひっぱる可能性があるということだ。わたしが何か発言しなくてはいけないとしたら、きっとしどろもどろになってしまい、それだけ授業が遅れてしまう。もしかしたら、こんな簡単なことができないのかと見下されてしまうかもしれない。「この子は中国語ができない」とはたとえ事実でも思われたくなかった。

話しかけて、分からないという顔をされるのが怖かった。もし日本語なら、分からないという顔をされたとき、更に説明を加えることができる。言いたいことを完全にわかってもらうことはできなくても、歩み寄ることはできる。そうすれば、分からない、理解できないと顔をされる心配をすこしでも減らすことができる。だが、中国語ではそれができなかった。歩み寄ろうとすることさえできなかった。

話しかけられて、わからないのも嫌だった。相手はわたしに理解してもらいたくて何かを話しかける。少なくとも伝えたいことがあるから話しかけてくる。しかしわたしは、そのことばの音を受け取ることはできても、それが何を意味しているのかわからない。何か話しかけられたとき、それがわたしに向けられているということはわかる。だが、相手がわたしに向けている音がどんな形をしているのか、どんな色をしているのか、どんな表情をしているのか、それがわからない。わたしが受け取っているのは「ことばらしき音が向けられている」という事実だけである。その事実だけ受け取っても、意味がわからないから返すことができない。返したいのだが、どうやって返したらよいのかわからない。「どんな意味だかわからないけど、わたしは受け取っていますよ」という意味をこめてことばを返したとしても、相手は困るだけだろう。相手がわたしに何を言いたいのか、わたしは理解したくてたまらないのに、受け取れないのは苦痛でしかない。

だから、そこには「差」などないと言い切ってしまいたかった。中国語を使って問題なくコミュニケーションがとれる。そう思い込んでしまいたかった。しかし話せば話すほど、聞けば聞くほど、「差」の存在ははっきりと見えてくる。そして余計に焦ってくる。

いったい大学での二年間の勉強は何だったのだろう。わたしは二年間、何を勉強してきたのだろう。

わたしの所属している東京外国語大学の中国語専攻では一・二年の時に九十分授業を週六コマかけて中国語を勉強する。授業は一年次においては独自に作成したテキストを用いて読解・作文・会話をそれぞれ二コマずつ行う。一学年約六十人の中国語専攻は、そのまま全員がひとつの授業をうけるということはなく、半分の三十人ずつで一クラスを作り、読解と作文の授業を受ける。作文とはいっても、文法を学ぶことが中心におかれ、二年間で基本的な文法を学べるようになっている。読解では短く簡単なものから徐々に長いものへと取り組んでいく。授業中は一文ずつ学生が音読をし、訳出する。その都度文法事項を確認し、文構造をつかみ、文章を通して中国を理解していく。会話の授業では一つのクラスをさらに半分に分け、十五人という「徹底的な少人数教育」を受ける。授業は中国語ネイティブが担当し、習った教科書の文章を暗誦したり単語を使って短文を書いたりして実際に使用するための練習を行う。

二年になると六コマの授業がさらに細分化され、六コマすべてを異なる教師が担当するようになる。講読一コマ、読解二コマ、作文一コマ、会話二コマとなり、文章読解が占める割合が大きくなる。異なる教師が担当する分、学ぶべき内容は増える。当然予復習の量も増える。高度な内容を目指したはずの授業内容はただ単に「量が多いだけ」に思えてしまってくる。

専攻が中国語だとは言っても、語学以外の授業がある。その授業にも課題があるから中国語の予復習だけに時間を割くことはできない。アルバイトもある。「大学生なのだから遊ばなくてはいけない」という強迫観念もある。中国語を勉強する時間はますます減る。それに教科書は読めばなんとなくわかるのだから、使いこなせなくても分かった気になってしまうし、使える気にもなってしまう。そんなことでは一生懸命身につけようという気持ちなど起こるはずもない。

わたしは二年間、テストのために勉強してきたのではないだろうか。いや、その日の授業をやり過ごすための勉強をしてきたのではないだろうか。そもそもそれは勉強と呼べるのだろうか。

語学を勉強する、ということがわからなかったのかもしれない。中学高校で六年間に渡り英語を勉強してきたとは言え、読むことに重点が置かれた授業であった。それにテストで百点でなくても問題がなかったがゆえに、語学というものも百パーセント理解していなくてもあたりまえ、百パーセント理解できているほうがむしろ異常であるという錯覚にとらわれていた。その錯覚を抱えたまま、わたしは二年間、もしくはそれ以上を過ごしてきたのだろうか。だとしたら、これからの一年間、どのように中国語を勉強していけばいいのだろうか。

わたしは英語ができる人間に対して腹立たしさを感じるような人間だった。日本人なのだから英語を偉そうに話すな、と街中で英語を話している日本人を見るたびに毒づいていた。英語が話せることがそんなにかっこいいのか。しかし、これもよく考えてみると、単なる嫉妬に過ぎないのかもしれない。英語を話すとか、中国語を話すとか、全部「自分ができたらいいなと思っているけど能力が足らなくてできないこと」なのだ。本当はできるようになりたいくせに、実際に使いこなせている人間を見かけてしまうと嫉妬してひねくれてしまうから、できるようになるための努力すらしなくなるのだろう。そうして大学二年間はもちろん高校時代も過ごしてきた。だが今回ばかりはそれではいけないのだ。

少しずつ話さなくてはいけないという気持ちはあったが授業中に話すのは苦痛である。雑談でもうまく話すことができないのに、授業中大勢の学生が聞いている前で何か話さなくてはいけないと思うと、失敗したときのことばかり頭に浮かぶ。だから休み時間にクラスメートに話しかけることから始めることにした。

すでに他のクラスメート同士はずいぶん仲がよかったが、その空気にうまく混じりこめば気軽に話しかけられるような気がした。だからわたしは思い切って、通路を挟んだ反対側に据わっていた女の子に話しかけることにした。彼女は初日に教室にいた三人のうちのひとりだった。

「你好,你是哪个国家的?(こんにちは、あなたはどこの国の人?)」

そう聞くと相手は色素の薄い瞳を見開いてわたしを見、そして満面の笑顔を浮かべて言った。

「我是从哈萨克斯坦来的!」

どこだろうか。よくわからない。もう一度聞いてみたがやはり分からない。彼女はにこにこしてわたしを見ている。そしてわたしに向かって

「你呢?」

と聞く。「あなたは?」と聞き返してくれた。わたしの質問に答えてくれただけでなく、わたしのことを質問してくれた。わたしはどきどきしながら口を開く。

「我是日本人(わたしは日本人です)」

わたしは答えた。その簡単なやりとりに不思議と心が温かくなった。相手がにこにこしているせいか、それとも中国語でのやり取りが成立したせいか。わたしは嬉しくなった。もっと話したい。確かにそう思った。だからわたしは続けた。

「你叫什么名字?(あなたの名前はなんですか?)」

相手はやはりにこにこしながら何か言う。聞き取れなかった。名前を教えてくれたのだろうが、聞き取れなかった。もう一度聞き返すが、それでも聞き取れない。しかたがないので名簿で調べておくことにした。

「你呢?」

相手はわたしにも聞く。

「我叫守屋久美子(わたしは守屋久美子です)」

わたしは答える。だが、そこから話すことがないことに気付く。相手はそれに気付いたのか、屈託のない笑顔で何か話しかけてくる。話す速度が速い。知らない単語を使っている。何を言っているのかわからない。わたしはとたんに怖くなった。どうしよう。「わたしはあなたの言っていることがわからない」と伝えようか。しかしせっかく話しかけてくれているのにそう言ってしまっては相手をがっかりさせはしないだろうか。曖昧な態度をとりなんとかやりすごしているとチャイムがなった。授業が始まるのでわたしたちの会話は打ち切られた。わたしは一抹の申し訳なさを感じながら席に戻った。席に戻ってほっとした。ほっとしたことに気付き悲しくなった。

ことばが不自由だと人格まで変わる気がする。わたしはもっと話したかった。だが言っていることがわからずそれができない。もっと話したいということすら伝えられなかった。わたしはことばに支配されているのだと痛感した。日本にいたときは言いたいことを言い相手の言っていることを受け取り生活していた。それが当たり前だと思っていた。しかし中国語ではそれが思い通りに行かない。自分を思ったように表現することもできないし、相手の言いたいことを受け取ることもできない。当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなったとき、これほど脆くショックを受けてしまうのか。

授業が終わり部屋に帰ってから、もらったばかりのクラス名簿で彼女の出身を調べた。名簿にはクラスメートの名前と国籍、メールアドレスと電話番号が記載されていたため、まずは国名を手がかりにして探した。名簿にはわたしが今までに学んだことのない国名がいくつか掲載されており、それらを調べる作業から始めることにした。電子辞書で調べ、該当しなそうな国名を除いた結果、あの少女はカザフスタン出身だということがわかった。

「……カザフスタンって、どこだろう」

わたしは思わずつぶやいた。日本語で地名がわかったからと言って具体的な場所がわかったことにはならない。あわてて机の上のパソコンを起動してインターネットでカザフスタンの位置を調べ、中国の西、ロシアの南に位置する国だということを理解した。

こんなことなら高校のときに地理を一生懸命勉強しておくのだった。世界の国の場所を知らないことに恥ずかしさを覚えた。

カザフスタン出身の彼女はアリヤと言った。中国語で書かれた名簿からは彼女の姓はわからない。中国語名をつけるときにファーストネームのみを翻訳したらしかった。しかしこれで彼女に呼びかけることができる。今度授業で会ったときには名前を読んでみようと決心した。

アリヤが何を話しているかわからなかったとき、わたしは何と言えばよかったのだろうか。わたしは中国語が下手だからあなたの言っている中国語が分からないと言ったら、アリヤはわたしのことを馬鹿にしただろうか。にこにこ笑いながらわたしの話を聞いてくれたのなら、そんなことはなかったのではないだろうか。

その夜、わたしは上手く話せるところを想像してみた。想像の中のわたしは、ほかのクラスメートと中国語で冗談を交わしている。とても楽しげだ。もし想像の中のわたしのように楽しく話すことができたらどんなに素敵だろうか。想像の中のわたしに現実のわたしは励まされた。想像の中のわたしのようになりたかった。そのためには少しずつでも進まなくてはならないこともわかっていた。少しずつ進むことができれば、きっとなんとかなるのだろう。留学生活は一年しかないから、どこまでできるかわからなかったが、やるしかなかった。

北京に来て二週目の木曜日。高級上の必修授業はなかったが、選択クラスとして選んだ「中国習俗」の授業があった。「中国習俗」の授業では中国の食や住居、婚礼などの文化について学ぶことができるようだった。授業は午後からだったので昼過ぎに起き出し、歩いて教室に向かった。

授業が始まる五分前には教室につくという癖が身についているため、授業開始時間より早めに教室についた。しかし教室の中はほとんど学生がいなかった。割と遅刻してくるのだろうか。それともこの授業を選択している学生自体あまりいないのだろうか。

その中に見たことがある顔があった。おそらく同じクラスである黒髪の女性だった。彼女もわたしに気付いたようだった。わたしは彼女の前の席に後ろ向きになって座り声をかけた。

「你好」

すると彼女はわたしに向かってにこっと笑い、中国語で返事をした。

「你好,你是不是日本人?(日本人ですか?)」

まさか日本人であるかどうか聞かれるとは予想していなかったが、特に驚かずに、

「对,你呢?(そうですけど、あなたは?)」と聞き返した。

彼女は、

「わたしも日本人だよ。確か高級上にいたよね」

と日本語で返事をした。

それを聞いてわたしは緊張が少し解けるのを感じた。相手が日本人だと分かったからだけではない。もちろんそれも少しはあるのだろうが、日本語を使って話ができることに安心したのだ。ことばの不安が少し取り除かれるということがコミュニケーションを図る上でどれだけ大事なことか感じた。

わたしたちはお互いに自己紹介をした。彼女は西村さんという社会人の女性であることがわかった。会社を辞めて中国語を勉強しに中国までやってきたのだという。一対一で話をすることができるというのもあり、わたしはここぞとばかりに質問した。

「どうして高級上は、みんなあんなに仲がいいんですか。新学期が始まったばかりなのに」

西村さんは、それを聞いて、特に驚きもしない様子で言った。

「もともとわたしたちはだいたい中級下のときに同じクラスだったんだ。それですごく仲良かったんだけど、今学期普通にクラス登録するとクラスがバラバラになっちゃうと思ってさ。それで今学期授業選択のときにみんな一緒に申し込みに行って、同じクラスになるようにしたんだ」

それなら仲の良かった様子も理解できる。しかし、どうやったら同じクラスになるように調整できるのだろうか。わたしは授業を選択したときのことを思い出した。あの時「準高」と書かれた通知と一緒に何も書かれていない時間割表を手渡され、そして少し大きい部屋に誘導されそこで授業を選択するように言われた。そこではそれぞれのクラスで選択可能な授業一覧が表になって貼られており、授業題目と一緒に番号が書かれていた。どうやら時間割表にとりたい授業題目と番号を一緒に書き入れて提出する必要があるらしい。貼られてある授業一覧の中に必修であるはずの「高級中国語(上)」に二通り番号が書いてあった。どちらかの番号を選んだからと言って何か違いが出るのだろうか。わたしはその時適当に二つの番号のうち上に並んでいたほうを書き入れたのだが、今思えばあの番号の違いはクラスの違いとして反映されるのだろう。とすれば、同じクラスになりたければみんなで同じ番号を時間割表に書き入れればよいということになる。西村さんたちはそうして同じクラスになったのだろう。

謎が一つ解け、わたしはため息をついた。ため息をつくついでに常に抱えている悩みをぶつけた。

「それにしても、みんな中国語うまいですよね。自信なくしてしまいましたよ」

西村さんは少し眼を丸くしたが、すぐに、

「そうかな。守屋さんだってうまいと思うけど」

と答えた。わたしは納得した答えが得られなかったかのようにさらにため息をついた。

それを見て西村さんは笑顔を浮かべ、いかにも問題ないように言う。

「大丈夫だよ。焦っちゃダメだよ」

そんなものだろうか。しかし現在わたしが授業中に発言することができないのは紛れもない事実であるし、どうしても焦ってしまうのは仕方がないのではないか。西村さんがわたしを励ましてくれているのはわかるが、焦ってはダメと言われて焦らずにいられるのならどんなに楽だろうか。

「你好!」

そのとき、わたしと西村さんに声を掛けてくる人がいた。振り返ると同じクラスの学生がいた。初日にアリヤとおしゃべりをしていた二人のうちの一人だった。小柄で眼鏡をかけ、肩程度の長さの黒い髪を二つに結んでいる。西村さんは眼鏡の彼女に向かって手を振りながら挨拶した。眼鏡の彼女も笑顔で手を振り返した。

「你是……(あなたは……)」

わたしは思わず眼鏡の彼女に声を掛けた。挨拶せずに無視をする気になれなかったからだ。

「你是不是高级上的学生?(あなたは高級上の学生ですよね?)」

眼鏡の彼女は西村さんに向けたはにかんだ笑顔のまま、「对!(そうですよ!)」と答えた。

彼女はファンリェンと名乗った。ベトナム出身で、大学を卒業した後に中国へ来たらしい。

「大学では中国語を勉強していたけど、もうすこし中国語を勉強したかったから」

わたしは彼女の中国語を聞いて再び不安が押し寄せてくるのを感じた。大学ですでに四年勉強していたこともあり、自分の考えをスムーズに話せているように見えた。わたしとの違いをまざまざと見せ付けられた気がした。

授業が始まって一ヶ月たつころには、クラスの中の日本人学生とは中国語で話せるようになっていた。もしわからないことがあれば日本語を使うことができるという安心感がなによりわたしを勇気付けた。だが一方では、他の国から来た学生と話すことができないでいたことにもどかしさも感じていた。アリヤやファンリェンの中国語は恐ろしく速くて、とても自信にあふれているように見えた。それに、ロシア語やベトナム語、あるいは英語やタイ語の音色が強く中国語ににじみ出ていて聞き取るのが難しかった。今までわたしが慣れていた中国語は教師が話すいわゆる「普通話」だったり、日本人学生が話す日本語風中国語だったりしたからなのだが、音色の種類がさまざまに増えたため、なかなか慣れることができなかった。

少しずつでもよい、彼女たちと話がしてみたかった。そう思ったのは、クラスを満たしている、明るくておおらかな仲のよさがうらやましくて仲間に入りたかったからなのかもしれない。そうであるなら、なんとか話しかけてみなくてはならないだろう。

月曜日と水曜日、金曜日は必修の授業があり、わたしは朝八時十分ごろに寮を出ることにしていた。中国の大学は構内に食堂や学生寮、教授たちのための住居やアパート、病院に銀行にスーパーにジムと、生活に必要なものはたいていなんでも揃っている。北語も例外ではなく、留学生が住む寮もそのなかにあった。わたしが住んでいた十七楼は十三階建ての一番新しい寮で、北語の敷地の外、西のはずれにあった。キャンパスといわれる場所の内側と外側を区切る門の外側にあったのだ。他の寮と比べて部屋も広く内装もきれいだという話を聞いていたから、十七楼に住んでいることをうらやましがられることもあった。さらに一人部屋ということもあり住みやすいといえば住みやすかったが、なんだか特別扱いにあぐらをかいているような気がして居心地が悪かったのも事実だ。十七楼は外国人留学生の数が増えたことを受けて建てられたのだろうが、もはや門の中に建てる場所がなくなっていたのだろう。

漢語進修学院の教室がある教一楼という建物は東門の正面にあり、わたしは毎朝西から東へとキャンパスを横断して登校しなくてはならなかった。早足で歩いても教室まではだいたい十五分はかかる。盗まれてしまうかもと脅されたため新品の自転車を買う勇気もなく、またどこに行ったら中古の自転車が買えるのか知らなかったから、歩いて登校していた。自転車ですいすいと登校していく学生たちを見てうらやましく思ったけれども、日本にいたときは電車を何本も乗り継がなくてはいけなかったから歩くくらいなんでもなかった。

この日もいつもと同じように西のはずれにある十七楼から東はじの教室を目指して歩いた。キャンパス内のグラウンドではいつもと同じように太極拳の練習に勤しむひとたちの姿が見られる。大きなごみ回収の箱を荷台につんだ自転車をのんびりと並んでこぎながら楽しそうな速さで話しているおじさんたちをよけながら、四月がすぐ間近だというのに風が吹くなかを上着のポケットに両手をつっこんですたすたと歩いていく学生たち。乾いたつめたい空気にときどき身を縮こまらせて、まだ眠い目をこすり歩きながら眺める朝の風景にも少しずつ慣れ始めてきたころだった。

「大家好!」

教室にはいるなりそうあいさつをしたわたしのほうを、おしゃべりをしていたらしいアリヤやファンリェンが振り返る。目で笑いながら手をひらひらと振ってあいさつにこたえてくれた。わたしは改めて彼女たちの目を見て「早上好!」と朝のあいさつをした。すると何人かわたしのほうを見ている視線を感じた。その視線をたどっていくと、視線の主が目を合わせようとして待ち構えていた。顔はわかるが名前は知らない、初日の会話の授業で同じグループになった南米出身らしい男の人だ。彼は陽気さをにじませた笑顔を顔いっぱいに浮かべて、右手を上げると「你好!」の一言をわたしに投げかけた。彼のことはほとんど知らなかったが、おなじように返してみたかったから笑ってみせ「你好」と返した。彼はなんという名前なのだろうか。あまり授業に来る学生ではなかったから、教師が彼の名前を呼ぶ機会も少ない。直接聞いてしまえばいいのだろうが、陽気さに気おされてなんとなく聞きづらい。出身はどこだっただろうか。「モーシーグー」という中国語名をもつ国だったはずなのだが、なぜ今まで調べなかったのだろう。

いつもの席につくと、ファンリェンがななめ前の席からやってきて、不思議そうなかおでこちらを見ていた。

「眼鏡、もってたの?」

その日は普段かけない眼鏡をかけて登校していた。視力はもともといいほうではなかったが、中国に来てから、机に向かう姿勢が悪いからなのか、なんだか遠いところが見えにくくなっていた。そのため学校内にある眼鏡屋でひとつつくったばかりだった。眼鏡の相場などわからないし、できるだけ安くと思ってつくった眼鏡だったから、フレームはあまりがんじょうではなかった。しかし眼鏡をかけたとき、あまりに遠くの看板まではっきりと見えたので世界が開ける思いだった。それ以来、道を歩くときは眼鏡をかけないとなんとなく落ち着かなくなることが多かった。

目の前でわたしをこころもち見上げているファンリェンにそう説明して、このままなにか話をすることができないかと瞬間的に思った。

「ファンリェンは眼鏡かけてるけど、目悪いの?」

彼女は黒いフレームで縁取られた眼鏡の向こうで控えめに笑って見せると、

「それもあるんだけど。けど、眼鏡かけると……うーん、ほら、頭の中に知識がたくさん入っているように見えるでしょ」

頭の中に知識がある、とは賢いということだろうか。彼女に確認を取ると、あわてて賢いといいなおした。そうそう、賢く見えると思わない?

始業のチャイムがなり、わたしたちはそれぞれの席に着いた。教師が出席をとる声を聞きながら、頭の中ではさきほどのやりとりを繰り返していた。ファンリェンが聞いたことばを利用して言い直したということは、さっき話すときには「賢い」という単語が思いつかなかったのだろう。「頭の中に知識がたくさん入っている」と言われたところで言いたいことを理解できないということは決してない。わかったからこそ「賢い」と言いたいのかと確認することができた。だが、ファンリェンは言いたいことを一言で伝える単語を思い出すことができなかった。もしそうだとするならば、彼女は決してすべて思い通りに中国語を話せているわけでなく、もどかしい思いをしながら言いたいことを言える単語や表現を用いて言っているのだろう。思い通りにできていると見えていたのは、彼女が話しているのをわたしが勝手に思い通りだと思い込んでいたのに過ぎなかったのだ。

わたしは日本語で話すのと同程度に中国語を思い通りにしたかったのかもしれない。少なくとも周りのクラスメートはわたしより思い通りに中国語を用いているように思えた。

だが実際はどうだろうか。彼らは本当に思い通りに中国語を用いているのだろうか。わたしの目にはそう映っても、彼らにとってそうであるとは限らない。外から見て判断できるものではないだろう。

しかし、ことばを思い通りにするということを日本語の場合で考えると、思い通りに出来ていたとは言えないだろう。言いたいことすべてを口に出し相手に理解してもらうことができていたかといえば、やはりそうではないだろう。誤解を招いたこともあったし言いたいことを思うように表現できなかったこともある。とすれば、中国語を思い通りにすることはほとんど不可能なのではないかと思う。

わたしは自分の中国語が思い通りにならないことに焦っていたのではないか。焦りすぎてクラスメートにもかつて中国語がうまく話せないときがあったことを忘れていたのではないか。わたしが上手だと思っているクラスメートも、まだ中国語が上手ではないと思っているから勉強をしているということを忘れていたのではないか。

どうして見下されるのではないかとおびえていたのだろう。どうして素直に現実を認めることができなかったのだろう。どうして他人は他人、わたしはわたしと構えることができなかったのだろう。

おそらく、わたしには妙なプライドがあったのだ。「わたしは中国語ができるに違いない」という盲目的な過信と、根拠のない驕りがあった。大学の名前があるから、成績がよかったから、ただそれだけで「中国語ができるに違いない」というおかしなプライドを持ってしまっていたのだろう。実際にどれだけ話すことができるのかを考えなかった。それはつまり、大学の名前や成績にわたし自身が騙されていたということなのだろう。ろくに話せもしないくせに成績表や大学名だけで知らず知らずのうちに「できる」という意識を持ってしまっていた。

クラスメートはみな「問題ない、ゆっくりやればいいよ」と言ってくれた。オーストラリア人の彼も、アリヤもファンリェンもみな同じように焦るわたしを励ましてくれた。あの南米の彼だって、励ますように笑いかけてくれた。だがそのときには彼らの笑顔の裏に、半年という時間があり、やはり不安な気持ちを抱えていたころがあったこと、うまくいかずに途方にくれていたことがあったことに気付くことができなかった。クラスメートは中国語ができないわたしを見下すつもりなど最初からなかったのだろう。むしろ半年前に似た境遇にあるわたしを励ます姿勢でいてくれたのだった。

たしかに、わたしはクラスメートたちよりは中国語が下手かもしれない。しかし、それでも自分なりのやり方がある。幸い教師はわたしが劣等生であることを責めなかったし、クラスメートも見下す目でわたしを見なかった。クラスメートはクラスメート自身で自分の勉強を進めながら時に励ましてくれた。わたしは自分で自分の理想を追えばよい。会話ができなければ少しずつでも話そうとすればいい。中国語が聞き取れないなら会話の教科書の録音を何度も何度も聞けばいい。何もしないよりは理想に近づくはずだ。何も難しいことはない。それだけの話だ。

自分のペースでゆっくりと中国語に慣れていこうと決めたとき、気持ちがすっと楽になった。そうすれば、中国語を聞き取れないことを嘆くのではなく、前に分からなかった単語がわかるようになったことを喜ぶことができるだろう。そうすれば少しだけ自信が持てるようになる。結局のところ中国語を話せることに恋焦がれていたのだろう。だとすれば、現実を認めた上で、やるしかなかった。

少しずつではあるが授業で話されている内容についていけるようになり、進みながら戻る、戻りながら進むことができるようになった。そんな四月末のある日の授業前、クラス長である韓国人の辛(シン)容(ロン)喆(ジャ)がクラス会を開くことを告知した。北語から徒歩十分のところにある日本料理屋でクラス会を行うので、午後六時に学校の南門に集合するようにとのことだった。

授業が始まってから二ヶ月たって初めて計画されたクラス会は、普段なら楽しくおしゃべりをしながらご飯を食べるというのが目的だそうだが、今回のクラス会の目的は他にもあった。クラスメートのうちの一人、王(ワン)力(リー)恒(ホン)が急遽故郷に帰ることになったのだそうだ。

台湾のスターとよく似た中国名を持つ王力恒は最初の授業のあとわたしを励ましてくれた、あのオーストラリア人の彼だった。彼はどうやら国籍はオーストラリアなのだが、出身は香港で両親も香港人らしかった。わたしはその状況を理解するのに少しだけ時間がかかった。なぜなら今までに国籍と出身が異なるという状況に出合ったことがなかったからだ。彼はオーストラリアに住んで長いのだろうか。そうでなかったら自分のことをオーストラリア人と紹介するのは難しいだろう。

仲がよく付き合いの長いクラスメートたちが集まるクラス会にわたしのような新入りが参加するのは気が引けた。付き合いの長いクラスメート同士でクラス会を開いたほうが盛り上がるだろうし、新入りが仲良しの間に割って入ることほど居心地の悪いものはないからだ。しかしそれでもクラス会に参加してみたいという気持ちが不思議と沸いてきた。中国に留学して初めてのクラス会である。仲がよいクラスメートたちの間に入って少しでも話ができたらきっと楽しいに違いない。それに、彼には少しだけ世話になった。このクラスメートたちなら居心地が悪くなるということもないだろうと思い、わたしはクラス会に参加することにした。

店は割と広く、いす席が大多数を占めていた。日本料理は人気があるのか、あるいは食事時だからなのか、店内は活気を帯びていた。日本料理屋と言ってもさほど本格的なものではなく、メニューにはなぜか韓国料理も混ざっていた。中国人から見れば韓国料理も日本料理も大して変わらないということなのだろう。日本料理屋の一角にある畳の部屋を占領して高級上のクラス会が行われた。

クラス会にはクラスメートの大半が参加していた。新学期が始まってまだ二ヶ月程度しか経っていなかったが、ここまで積極的にみんなが集まろうとするのはやはり先学期からの仲のよさのためなのだろう。

わたしはできるだけ多くのクラスメートと話したかった。話したことがない人と話すことがあまり得意ではないため、語学のための会話だと言われればそうなってしまうかもしれない。しかし興味深い話ができるのではないかと期待しながら西村さんの隣に陣取った。西村さんを介してほかのクラスメートと話をすることにしたのだった。

西村さんのとなりにはベトナム人のファンリェンともう一人のベトナム人学生が座り、卓の反対側には日本人学生が一人、そしてタイの学生が二人座った。もう一人のベトナム人の女性はランシャンと名乗った。彼女は細身の女性でファンリェン同様小柄だった。話しているうちにわたしの高校時代の友人に似ていることに気付いた。違う国で、しかも出身国が異なる人間に似ているということに気付くとは不思議な感じである。高校を卒業してから一度も会っていないが彼女は今何をしているのだろう。そんなことがふと思い出された。

クラス会が始まり、運ばれてくる日本料理のような料理を囲みながら、わたしたちは中国語でおしゃべりを始めた。ファンリェンとランシャンにベトナム語のあいさつを教わり、逆に彼女たちに日本語のあいさつを教えた。もちろん知らないことばであいさつが言えるようになることは楽しいことであるが、挨拶を知ったこと自体が大切なのではなく、教えあうことを通して盛り上がりたかったのだろう。知らないことばを教えてもらって発音を真似ることで、相手のことばの存在を尊重し興味があると示して敬意をあらわしたかったのかもしれない。そうすることで、わたしはクラスメートに対して感じていた緊張を少しずつほぐしていった。

お酒を飲み楽しい気持ちになるにつれて話す口もなめらかになってきた。韓国人の申(シェン)美(メイ)英(イン)もいつの間にか近くにやってきていて、わたしたちはくだらないおしゃべりに没頭した。申美英はクラス長であり夫である辛容喆について話してくれた。彼らは夫婦で北京にやってきて中国語を勉強しているのだということがわかった。

「辛容喆はね、韓国にいるとすごくおとなしいんだよ」

わたしたちはお互いに顔を見合わせた。辛容喆は授業中よくちょっとしたダジャレや身振りで小さな笑いを取っていたため、意外に思えたのだ。

申美英は自分も戸惑いを隠せないかのように続けた。

「韓国語は敬語がとてもきびしいから、仕事場では絶対間違えてはいけないんだよ。それで丁寧に話さなくてはいけないんだけど、それがとてもストレスになっちゃうの。だからあんまりしゃべりたがらないからおとなしい人に見える」

中国に来てからわかったことだけどね、と付け加える。茶目っ気にあふれた辛容喆からは少し想像しにくかった。しかし優しい態度でクラスメートと接している彼の姿が韓国語の生活の中ではおとなしさとして現れているというのは理解できないものではない。韓国語は日本語と異なり、他の人に自分の両親を紹介するときでも、敬語を用いるという敬語体系だというから、神経を尖らせていなければいけないのだろう。ことばによって性格の表れ方が変わるのは不思議に思えた。

「でも、中国にいるとみんな間違いを気にせず話すでしょ。だから辛容喆も気にせずに話せるみたい。わたしも辛容喆がこんなに社交的な人だったなんて知らなかったよ」

と話を聞いているわたしたちの顔を見回しながら申美英は笑った。

気がつくとクラスメート以外の人間も紛れ込んでいた。おそらく王力恒の友人たちが集まってきたのだろう。みな王力恒を囲んで楽しげに会話を交わしている。そのままの楽しい雰囲気のまま送別会はお開きとなり、わたしたちは北語の西門近くで解散した。わたしを含めた数名の寮は西門の外側にあり、王力恒や辛容喆たちは北語校内にある寮に住んでいたためだ。

他のクラスメートと王力恒は最後の別れをしている。半年間同じクラスで勉強したために感慨深いのだろう。お互いに手を差し出し、堅く握り合いながら別れのことばを掛け合い、そっと離す。わたしはしかし何を話せばよいかわからなかった。どのようにこの感謝を伝えればいいのか、そもそもわたしが彼に対して伝えたいのは感謝と呼べるものなのか、感謝だとしてもどんな中国語で伝えればいいのか。

言うことが決まらないままわたしの番になった。わたしは右手を差し出した。王力恒も右手を差し出した。わたしたちは手を握った。

「祝你一路平安」

口から滑り落ちるように出てきたのは、旅立つひとへと向けることばだった。わたしの知っている中国語では相手の無事を祈ることしかできなかった。ほかにもっとことばを知っていれば気のきいたことが言えたかも知れない。言い表しがたい気持ちを確実に伝えられるような言い回しが他にあったかもしれない。しかしわたしにはこれが精一杯だった。

王力恒は握った手を軽く振り、微笑んだ。

「认识你我很高兴(あなたに会えてうれしいです)」

がっしりした体つきと、それにふさわしい高さからわたしを見つめていた黒い目は眼鏡の奥で笑っていた。英語の発音の雰囲気が残る中国語でそうやってこともなげにわたしにかけてくれたことばは、王力恒の誠実さの表れのように感じた。

王力恒はわたしを励ましてくれた。だが彼以外にも励ましてくれたひとはたくさんいた。中国語が思い通りに行かないことで愚痴をこぼすことは情けないことだと頭では理解していた。それを口に出さずにはいられなかったのはまわりの誰かがその状況を打破してくれると期待していたからだろう。やみくもにただほめるだけでは何も解決しないことを知っていたからか、そうして優しく突き放すことなく、クラスメートとして、留学生活の先輩として、共に中国語を学ぶ人間として、わたし自身がなんとかしていくほかないということを示してくれたのだった。それは励ましと言ってしまうには押し上げるような力強さが足りない気がする。「慢慢来」というたった三文字の表現だけれども、励ますでもなく導くでもなく、ただ見守ってくれていた。

王力恒に出会ったことはまるで偶然にすぎないし、彼が留学を途中でやめオーストラリアへ去るのを惜しむことができるほどわたしは彼のことを知らない。だが、他の人の能力ばかり気にしてまごつくばかりだったわたしに、焦らずに自分の歩みでゆけばいいと伝えてくれたことに対して、忘れがたい感謝を覚えたとしても何の不思議もない。感謝というには大げさで些細なことだというのなら、彼が無事に帰りこれからの生活を楽しく過ごしてほしいと祈るような、そしてできれば北京での暮らしを、出会った人間のことを覚えていてほしいと願うような、そんな気持ちだったのではないか。

王力恒の手を離したとき、今まで誰に対しても感じたことがないほど、素直にあたたかい気持ちを感じているのに気付いた。もしかしたら今まで意識したことがないだけなのかもしれなかったが、大して知っているわけでもない単なるクラスメートに対して感じるには不思議なあたたかさだった。生まれ育った場所を離れて、ほとんど何も知らない場所で出会ったからなのだろうか。異国での出会いと別れの場面に立ち会って高揚しているからなのだろうか。

あるいはわたしは、北京での留学生活の少し遅れたスタートを切るまで見守ってくれたクラスメートに少し素直になれたということを、そしてそのことを嬉しく思っているということを王力恒に伝えたかったのかもしれない。わたしは、中国語に、クラスメートに、そして外の世界に対して気付かないうちにかたくなになっていた。中国語ができないと言っては、中国語の上手なクラスメートと中国語の下手な自分との間の壁を越えようとしなかった。中国語の壁、生活の壁、世界の壁にぐるりと取り囲まれたまま途方に暮れ飛び越えてみようと思わなかった。だが本当は素直になりたいと思っているのに、どのように素直になったらよいのか分からずとまどっていたのではなかったか。

日本の中の、それも狭い世界の中で生活したことがなかったわたしにとっては、世界にはほかにもっと多くの場所があることや、わたしの知らない人たちがある場所から他の場所へ行き来するということは存在しないことだった。王力恒は北京を離れオーストラリアへ向かおうとしている。それにクラスメートたちは半年前に、あるいはそれ以前にそれぞれの場所から北京へとやってきていた。アリヤはカザフスタンから中国を横断して、ファンリェンとランシャンはベトナムから北上して、南米の彼は、地球のほとんど反対側から。その場所がなんと呼ばれているのか、そしてどんな風景に囲まれどんなことばが話されているか知らなくても、その場所は変わらず存在するし、彼らはまちがいなくそこに住んでいた。わたしが育った場所もその中の一つで、それは今いる場所から少しだけ東にある小さな島にあった。狭い場所で暮らしてきたわたしが東に西に広がっていく大きな世界に気付くことができなかったのは、学校で学んだり本で読んだりしたことを頭の中にとどめておくことしかできなかったからなのだろう。だが、クラスメートが何も言わずに教えてくれたのは、決してそうではないということだった。

自由にはならない中国語で話しかけたわたしのことを少しも煙たがらず見守ってくれたクラスメートは、きっと彼らも知らないうちに、さりげなく壁の向こう側からこちらを見ていたのだ。もしかしたら彼らもかつて飛び越えただろう壁の向こう側から、にこにこと手を差し伸べ続けていた。「慢慢来」と言っては、わたしが手を伸ばすことをせかすこともせずにただ差し伸べていた。北語に来たばかりのころはその手に気付くこともなく、高くとりかこむ壁の前でとまどうことしかできなかったが、壁の向こうに見える手がこのうえなく魅力的で美しいもののように思えた。もしかしたら、と手を伸ばすことを知らず知らずのうちに望んでいた。手をとれば振り払いもせず引きずり込むこともせずにあたたかく握りかえすだろう彼らの手を恐る恐る握りしめたとき、北京での生活に素直になれるような気がしたのだった。




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