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北京留学記:北京家族旅行

これ、よく考えたら夫も読んでるんですよね。面と向かって感想言われたんですけど、照れちゃうので大変に困ります。

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新学期を一週間後に控えた八月下旬に、父と母、弟の家族三人が北京に遊びに来ることになった。家族にとっては初めての北京である。弟にとっては初めての海外旅行でもあった。

夏休みに北京に旅行に来る予定だということは五月ごろには聞いていた。ツアーを利用して観光するつもりなので決められた行動しかとることはできないが、自由行動の日には会うことができるだろうと言う。それならばと観光ツアーでは行かないような場所を探してみることにした。少しは北京で生活している人間らしいもてなしができるのではないかと思い、ルームメイトのユミコさんに聞いてみたりインターネットで調べてみたりと下調べをした。

夏休みを目前にしたある日、旅行のことをインターネットのチャットを通して母に尋ねた。具体的に日程は決まったのか、どんなところを見てみたいかなど聞くことができれば、わたしも動きやすい。すると母親はオプションをつけることができるがどうするか、と尋ねてきた。母が言うには、そのツアーには京劇を見たり中国の下町にある胡(フー)同(トン)を人力車に乗って散策したりといったオプションを別料金で付けることができるのだそうだ。そうしたオプションはきっと自由行動の日に行くのだろう。下調べが無駄になってしまうな、という考えが頭をよぎったが、オプションツアーに参加したほうが観光らしい観光にはなる。お金を払って中国らしいものが見られるのならば、思い出深くはなるだろう。家族の好きなようにしたらいいと返事をした。

「じゃああんたはどれ行きたい?」

耳を疑った。いや目を疑ったというほうが正しいか。意見を求めたということは、わたしの参加を見込んでいるということだ。もしかしたらオプションツアーに参加させるつもりなのか。いやオプションツアーだけ参加するというのは難しいだろう。ということはひょっとしたら家族は北京でわたしと合流し、そのまま一家四人の家族旅行に繰り出すつもりなのではないか……。

予想は当たった。そればかりか最初からそのつもりでいたらしい。

「えー……行きたくない」

躊躇しながら不満をもらした。

「北京にいるのにどうして北京観光をしなくちゃいけないの。お母さんたちだけで行ってくればいいじゃない」

文字にありったけの反抗をこめてキーボードを叩いた。しかし、

「一緒に旅行に行きたいよ」

「お父さんも楽しみにしてるんだよ」

「一緒に京劇見ようよ」

などの誘いのことばが返ってくるだけである。埒が明かない。わたしは頭を抱えた。

正直なところを言うと、北京観光をするのは嫌だった。どうして北京にいるのにわざわざ北京観光をしなくてはいけないのだろうか。確かに中国での留学を始めてから観光地らしい観光地に行ったことは少ない。だが、天安門は見たことがあったし、人民大会堂の中にも入ったことがあった。北京ダックも食べたことがある。加えて、今回のツアーでは万里の長城にも登るという。わたしはもう万里の長城には登ったことがあった。五月の長期休暇のときに、いくつかある長城の中でも最もメジャーな八達嶺長城へ中国人の学生と登りに行ったのだ。快晴に伴う日差しと観光客の殺人的多さに二度と万里の長城は登るものかと固く心に誓ったのだった。

それに、家族と出かけるということも嫌だった。家族と旅行に行くと、わたしと家族とでは大抵ペースがずれる。わたしがさっさと通過してしまいたいところを家族はじっくり見たがる。家族に言わせると、わたしが自分勝手なふるまいしているらしいのだが、見たいものがあわないのだから仕方がない。だから家族と旅行に行くこと自体、あまり進んでしたいものではない。

特に今回の場合は中国旅行である。中国に対して何かマイナスのことを言われるのが嫌だった。家族はたとえば「バスで並ばない」「ところかまわずつばを吐く」という中国のマナーの悪さを発見してはきっとわたしに言うだろう。「中国だから」という理由で片付けられる言われ方は事前に立てられた方程式のように思う。その方程式に則って言われることは、たとえ家族でも馬鹿にされているようで嫌だった。もちろんマナーが悪いのは事実であるし、そうした事実があることはわかっている。だが他の誰かに言われるのは我慢がならなかった。半年暮らした北京という街が、何も知らない人間にそんなつまらないことで馬鹿にされるのは不条理なのではないか。もちろん家族には悪気などなく、旅行先での感想をそのまま言っているにすぎないことはよくわかる。だがそれでも、できれば言ってほしくない。言ってほしくないと伝えることは可能だが、伝えたところで率直な感想が漏れてくるのを止めることはできまい。そしてわたしは嫌な気持ちになるのだろう。想像できる範囲のことを考えてもやはり旅行には参加したくなかった。

「勉強しなきゃいけないから」「中国語が話せる人間がいるといろいろめんどくさいと思うよ」と理由を並べた。しかし母の頭には「子どもの不参加」という選択肢が存在しないかのように「一緒に旅行に行きたい」「みんな楽しみにしている」と誘う。

よく考えればいつものやりとりである。いつもどおり母が誘い、いつもどおりわたしが拒否する。母の執拗な誘いにわたしが折れる形で不本意ながら承諾するのもいつもどおりだ。しかしこれはあくまで一種の型のようなものなのだろう。本当に嫌なら最後まで拒否し続けるだろう。もちろんそういうときもあるが、最終的に誘いを承諾する場合でもまず拒否をする。最初にしつこく拒否をしないと落ち着かない。何回も誘いを断って、それでも誘ってほしいのだろう。わたしはさんざんごねた後に再び誘ってもらい「そんなに来て欲しいなら行くよ」としぶしぶ言いたいに違いない。「絶対に母はしつこく誘ってくれる」という確信があるから、わたしは安心して拒否をし続けるのかもしれない。

反面、自分の考えを意地でも通そうとする姿勢に若干反感を覚えはする。子どもが嫌だと言っているのをどうして尊重してくれないのだろうか。しかしわたしが折れない限りこのやりとりは終わらない。平行線をたどっていくだけの議論を続けるほうが苦痛に思えてくるから、誘いに乗ってやり取りを終了させる。親の誘いを歓迎しているのか、それとも避けたいのか、どちらなのかよくわからない。

今回も結局そのやり取りを繰り返した。最終的に折れたのはやはりわたしだった。家族はわざわざ中国まで来るのである。家族は決して頻繁に旅行に行くひとたちではなかったから、オリンピック前の中国がどんな様子だか見てみたいとか、中国で珍しいものを見たいとか、そういうのはむしろ口実で、わたしに会うほうが主な目的なのだろう。家族、特に両親としては外国で一人過ごしている娘が元気でやっているかどうか見ることのほうが大事なのだろう。娘が中国に留学をしていなかったら、そして北京に留学してなかったら、きっとこの家族は北京に来ないだろう。今回もさんざんわがままを言った後、これは留学というわがままを聞いてもらったわたしにできる唯一の親孝行だと言い聞かせ、仕方なく北京家族旅行に行くことを受け入れた。

八月二十一日(初日)

この日の午前中、家族が北京にやってきた。わたしは夕食に合流することになっていたので、ガイドの馬さんと電話で打ち合わせをして集合場所に向かった。夕方になって待ち合わせ場所に着くと家族はすでに夕食を食べ始めていた。半年ぶりの家族である。たった半年見ないだけであったが、みなそれぞれ少し違って見えた。

弟は少し大きくなっていた。わたしが留学を始めたのと同時期に高校を卒業し、大学に入ってちょうど新しい環境に慣れ始めたころだった。わたしたち姉弟は日本にいたときは大して話もせず、お世辞にも仲がいいとは言えなかった。しかし、わたしが中国に来てからインターネットを通じて話をするようになり、少し仲良くなった。お互い同時に新しい環境に入り、戸惑いを感じながら生活していたからかもしれない。

父と母は少し老いたように見えた。実際に老いたとしても半年分だけのはずなのだが、それ以上の老いを感じた。毎日顔を合わせていると気付かないが、半年ぶりに顔を合わせたことで半年分の老いを一気に目の当たりにしたからなのだろう。

彼らには半年ぶりに会う姉、娘がどう見えたのだろうか。わたしはわたしなりにそれなりの変化を経験したつもりであった。この半年で生まれて初めて眼鏡を作った。歩くときに周りが判別しづらくなり不便になったからだ。日本にいるときは視力が悪い方でなかった娘が眼鏡をかけて現れた。きっと驚いたに違いない。またこの半年で人生初の一人暮らしを経験した。学校の寮に半年近く住み、その後一緒に住むことにしたユミコさんと部屋を探して外に部屋を借りた。不動産がらみの面倒なトラブルは、友人の力を借りながら二人で解決した。自炊もするし、ユミコさんの無言のプレッシャーを感じながらではあるが掃除だってする。日本にいたときは母に迷惑を掛けてばかりの娘だった。そんな人間が半年ぶりにどんな風に見えただろうか。

再会の喜びをはっきりと顔や態度に出す母、嬉しいに違いないのだがそっけない態度をとる父と、まるで半年の空白など全く関係がないかのように食事をする手を止めない弟。たったの半年では何も変わらない。家族の顔を見て涙をこぼしそうになるという経験をわたしは初めてした。

夕食は「中国家庭料理」のレストランだと言われていた。しかし実際に座ってみると、テーブルの上に並んでいたのは丁寧に整えられた美しい料理であった。普段大学の食堂で食べるような食事ではない。ぶっきらぼうに器に盛られたつるつるの水餃子や、あちこち欠けてはいるものの長年学生に使われ続けて妙に愛着の沸くお碗に必要以上に固めて盛られた白飯とは大違いだった。レストランでそんなものを出すわけにはいかないのだが、ぶっきらぼうな水餃子やぺったりと固められた白飯、油がたっぷり使われている炒め物のほうに好感を持てた。

居心地が悪かった。目の前に並んでいるレストランの食事の味が分からない。おいしいには違いないのだが、何かが違う。家族はおいしそうに食べている。おなかはすくので食べないわけには行かないが、学食の水餃子が恋しかった。家族にもこんな料理より水餃子を食べてほしかった。

夕食を食べ終わり、わたしたちはバンに乗り込んだ。左ハンドルの運転手席には、寡黙そうな四十代のおじさんが座っていた。

「你好」

と挨拶すると、おじさんは少し驚いたようだったが無言のままだった。バンの助手席には馬さんが座り、三列ある後部座席の一番前には父が、二列目には母と弟が座った。わたしは一番後ろに座った。

ツアーに参加したのがわたしたち家族だけだったため、バンは貸し切りとなった。バンは徐々に暗くなっていく北京の街を走り、目的地である梨園劇場へと向かった。わたしたちはそこで京劇を見ることになっていた。それが初日の観光を締めくくるイベントだった。

バンの中で家族は午前中に観光した天壇公園のことを話した。わたしはそれを聞き流しながら流れていく景色へと目をやった。バンの窓から見える簡体字の看板が少しだけよそよそしい。簡体字は見慣れているはずなのに、家族が近くにいるだけでこんなに違和感が湧くのか。

家族は中国語がわからない。母は勉強しているが、それでも中国で生活できるほどではない。簡単な挨拶や買い物が辛うじてできる程度だろう。自転車屋や食堂の看板も、信号機の横にある地名も、隣に止まった市営バスが示す行き先も、家族には奇妙な文字としてしか映らない。日本語のなかにある漢字だけれども、簡略化しているせいで見慣れない。しかしわたしにはそれらの漢字がどのような音を持つのか、つながりあってどんな意味を示すことばになるのかわかる。わたしはこの半年間でこの国で生活できるようになった。

自分の生まれた土地以外の土地への愛着。それはわたしが半年間で掴んだものだったのかもしれない。だが、簡体字の看板から感じた奇妙さのせいで、自分が異国に紛れ込んでいるのに過ぎないということを思い出す。おまえのいるべき場所はここではないよ、早くいるべき場所へお帰り、と言われているようでなんだか落ち着かなくなった。わたしは目を閉じた。やはり北京旅行に参加するのではなかった。少しだけ後悔した。

梨園劇場は目もくらむほどの鮮やかな中国色の世界だった。三ツ星ホテルである前門建国飯店のなかにあるこの劇場は、ホテル一階の片隅が入り口となっている。外国の観光客向けの公演なのだろう。劇場に集まっている客はほとんどが西洋人だった。もちろん東洋人もいるようなのだが、聞こえてくることばは日本語だった。中国人客はほとんどいないようだった。

ロビーに入ってまず目に入ったのは、京劇役者がそこでメイクをしていることだった。机の上に化粧道具と鏡を並べ、歌舞伎の隈取に似た鮮やかな化粧を白い顔に丁寧に施していく。客は開演までその様子を好きなだけ眺めることができる。しかし、鏡を覗き込んでは丁寧に赤を目の周りに置き漆黒の線を引いていく手さばきからは、じろじろと見られているという意識は全く見られなかった。あるいはいつものことなので役者は慣れてしまっているのかもしれない。しかしわたしはあまり興味深く見ることができなかった。じろじろ嘗め回すように見るのははなはだ失礼であるようにも思えたからだ。

舞台に立つことは相当に力の必要なことであると思う。それはア

フロントでは日本語の音声ガイドを借りることができた。京劇の場面の進行に合わせて、今どのような場面が展開されているか日本語で解説をしてくれるものだ。一つ四十元(六百八十円)であったので、借りることにした。

ロビーから劇場に入ると、そこにはホテルの一角にあるとは思えないほどの大きな空間が広がっていた。舞台の横の壁には電光掲示板が設置され、字幕が出るのだろうとすぐに見当がついた。座席を見渡すと、客席の最前列には四角いテーブルがいくつも並んでいるのが見えた。テーブルの中央には桃が積まれ、他にも何種類かの茶菓子が並べられていた。一等席では茶をすすり菓子をつまみながら京劇を楽しむことができるのだろう。なんとゆったりとした贅沢であることか。

馬さんから渡されたチケットには「三区」と記されていた。三区はというと、客席一階の最後部に位置していた。菓子や茶はなく、ただの椅子席である。少しがっかりした。

ところが、馬さんの案内について行き、通されたのは「一区」、つまりテーブル席だった。しかし、チケットには三区と記されている。

「いいんですか」

規則は何があっても守るもの、たとえ車が通ってなくても横断歩道は青になってから渡るものという教えを頑なに守り、日本では信号無視なんか一度もしたことがないような小心者のわたしが馬さんにたずねると、馬さんはさもたいしたことではないように、

「大丈夫ですよ。空いているそうですから」

とあっさり答えた。空席か否かの問題だろうかとも思ったが、この際あまり気にしないことにした。日本ではルールを馬鹿正直に守るが、問題なければいいだろうという考え方もいつの間にか身につけていた。

こうしてわたしたちは半ばもぐりこむようにして京劇の舞台を目の前で楽しむことができた。家族にとって京劇は初めての体験だったが、実はわたしにとっても初めてだった。初めて見る京劇は思わず息が止まりそうになるほど美しかった。きらびやかな衣装に艶やかな化粧を施した役者の、高く歌い上げるようなセリフや独特の節まわしにわたしはすっかり魅了された。

セリフは現代中国語とは異なっていたし、何よりうねうねとした節回しに翻弄されて少しも聞き取ることができなかった。しかしヘッドフォンから流れてくるあじけない解説を聞くよりも、少しくらい意味がわからなくても役者の美しい声を聞き表情やしぐさから内容を感じるほうがずっと心地よかった。

机の上に用意されていたお菓子に手を出すのも忘れ、舞台上の役者の一挙手一投足から目を離せなかった。役者が力をこめる呼吸がはっきり耳に届き、四連続バック転をあざやかに決める。着地した後の肩がわずかながら上下しているのが見える。しとやかな女性役である「青衣」役の指先が上品にさまざまな動作を描いていくのは、さすがにプロの役者だと思った。うしろのほうの席ではこうはいくまい。

中国っぽいものは避けるべし、と考えていたのはなんて愚かだったのだろう。

公演が終わり、手をつけそこねたお菓子をこっそり口に放ってから、わたしは家族と共にロビーへと出た。馬さんは劇場のスタッフとおぼしき人と雑談をしていた。仕事で何回も来ていると顔見知りになるのだろうか。それともただ暇そうな相手を捕まえて雑談しているだけなのかもしれない。

馬さんはわたしたちに気付くと、開口一番「どうでしたか」と聞いてきた。わたしが

「思っていたよりずっとよかったです。すこしあなどっていました」

と答えると、

「そうですか」

と嬉しそうな笑顔を浮かべた。

旅行中に泊まったホテルは、その劇場からほど近いところにあるにぎやかな商店街のなかのホテルだった。道を挟んだ反対側には果物屋や煙草屋、安食堂が並んでいた。歩いて五分もしないところにはこぢんまりとした個人商店やムスリム食堂、一般の中国人が暮らす長屋があり、中国人の生活の匂いに満ちていた。

チェックインを手伝ってくれた馬さんとはフロントで別れた。家が近くにあるのだという。わたしたちは、それぞれ部屋に入っていった。

家族四人に割り当てられた部屋は二部屋だった。わたしは鍵のひとつを両親に押し付け、もう一つを弟と使うことにした。もう子どもではない。母と同じ部屋にはなりたくなかった。母と同じ部屋になれば、留学生活についてあれこれ聞かれるだろう。半年の生活について何も聞かれたくなかった。半年間で感じたことを母に理解してもらえるように説明できる自信もなかったし、わかってもらおうとも思わなかった。だったら弟と同じ部屋になってしまったほうが気は楽だった。

案の定、弟はシャワーを浴びると疲れが出たようだった。わたしが浴室から出たときには、弟はすでに心地よい寝息を立てていた。くだらない話をしたかったので少し残念だったが、初めての海外で疲れたのだろう。わたしはテレビをつけて中国語のニュースを流した。内容はやはり字幕を見ないと分からない。だが中国語の音に触れていると少しだけ気がまぎれた。

翌日からは観光の本番である。早く出かけると約束していたので電気を落としてわたしもすぐにベッドに潜った。しかし目を閉じてもなかなか眠れない。落ち着かない。疲れているはずなのに眠りに落ちない。仕方なくベッドで寝ることを諦め、窓際に置いてあるソファで寝ることにした。

カーテンを開くと、そこにはホテルよりはるかに背の低い長屋の屋根が並んでいた。月の灯りに照らされてぼんやりとだが浮かんで見える。

わたしはなぜこんなホテルにいるのだろう。ふと小さな疑問が頭をよぎった。それほど高級なホテルでなくてもホテルであることに変わりはない。観光旅行をしているからか。旅行にはグレードの高いホテルでの宿泊が必要不可欠だからか。そうではないだろう。なぜならわたしは観光をしている街に住んでいるのだ。わたしにとって北京は観光地になりえない。それなのになぜだろうか。

ホテルを抜け出して、タクシーで自宅まで帰ろうかとも考えた。半年間の経験から考えると一時間もかからず家に帰ることができるだろう。しかし、そうすれば両親や馬さんに迷惑がかかる。タクシー代だって馬鹿にならないし、移動する時間を確保するとなると睡眠時間が削られてしまう。そうなると、このホテルにとどまらざるを得なかった。

なぜこんなところにいるのだろう。疑問は消えるどころか大きくなる一方だった。半年間、北京で自分なりの生活を積み上げてきたのではなかったか。それなのになぜ観光客の顔をしなくてはいけないのか。観光客に混ざらなくてはいけないのか。

一方で、もうひとつの疑問が浮かんできた。観光客の顔をすることは、そんなにいけないことなのか。生活している場所を観光することは不可能なことなのか。北京のすべてを知っているとはいえない。せいぜい学校の周りとかかりつけにしている病院の周辺だけだ。それでも知っているなんてえらそうなことを言えるほどではない。わたしはなぜここにいるのだろう。

わたしは窓の外を凝視した。わたしの住むアパートはどちら側にあるのだろうか。北語はどちら側にあるのだろうか。見えるはずなどないのに、探さずにはいられなかった。同じ北京にいるはずなのに随分遠いところにいる気がした。北京は大きい。急に心細くなり、夜遅くまで寝付けなかった。

八月二十二日(二日目)

翌朝は朝早かった。寝不足気味であったがしかたない。移動しているときに眠ればよい、と身支度を適当に済ませ、一階へ降りて行った。

前日、ホテルにやってきたときには気付かなかったが、入り口付近には食堂があった。そこでバイキング形式の食事を取ることになっていた。わたしたちが近づいていくと、朝食にやってくる客の応対をする従業員が挨拶をした。

「おはよう」

その無愛想さに度肝をぬかれた。従業員が客にそんな不躾な挨拶をするなんて、無礼極まりない。日本語ではホテルの従業員は客に対しては「おはようございます」と言うべきで「おはよう」と言うのはふさわしくない。そのために私も含めた家族は多かれ少なかれ嫌な気持ちになってしまった。しかし同時にそう思ってしまった自分が恥ずかしくなった。中国人従業員は精一杯日本語を覚え、客に喜んでもらおうとしたのだろう。それがホテル側の指示に従ったものであったとしても、客のためを思っていることには変わらない。「おはようございます」という挨拶は長くて覚え切れないために、短く「おはよう」とだけ覚えていたのだろう。

なぜ嫌な気持ちになってしまったのだろう。日本人扱いされているのが嫌なのだろうか。わたしはまぎれもなく日本人なのだから、嫌な気持ちになる必要なんかこれっぽっちもないはずだ。それとも、日本人だからといって安易に日本語で話しかけられたのが嫌なのか。

朝食は食パンにロールパン、スクランブルエッグにソーセージなど洋食であった。食堂を見渡すと西洋人のビジネスマンが比較的多かったので、彼らに気を配った食事だったのかもしれない。しかし、無理やり洋食にしているようで、お世辞にもおいしい朝食とはいえなかった。

食事を済ませ、昨日と同じ運転手の運転する同じバンに乗りこみ、二日目の観光に出発した。まずは万里の長城である。わたしはゴールデンウィークに一度行ったことがあった。長城を人が埋め尽くしている光景を目の当たりにし、おしくら饅頭をしながら登ったので二度といくものか、と思っていた。しかしツアーの一部に組み込まれており、わたしだけ行かないということはできなかった。だからしぶしぶついていった。

万里の長城とは言っても、全ての長城がつながっているわけではないし、まして全ての長城に登れるわけでもない。三百年以上も昔に作られたものだから、劣化がひどいところもあるのだろう。だから観光地として一般客に開放されているのも、長城全体から見たら極めて限られたごく一部のようである。

ツアーが向かったのは、最も有名と思われる八達嶺長城である。長城というのは要するに防壁で、異民族の侵略を防ぐために作られたものである。そのために、自国の領土に面する側の壁は平らなのに対し、異民族の領土に面する側の壁には矢を射るための四角い穴がそこかしこに空いている。敵を迎撃するためにその穴から顔をのぞかせ、勇敢に弓を握っていた兵士たちのことが偲ばれる。

防壁にはさまれた通路は階段になっており、その階段を登っていくことが「長城を登る」ということになる。実際に下から上まで登ったことはないから分からないが、長城の一番下から一番上まで登ると、どんなに登る人が少なくても四時間はかかるのではないか。所々急になっている場所もあり、よほどの元気と体力がなければ登りきれないように思われた。一番下から見上げると、そう思うだけの雄大さを充分感じ取ることができる。何かの雑誌で長城を「龍が陸に身体を横たえて休んでいるようだ」とたとえたのを見たことがあったが、それはまさしくその通りで、そうであるならば長城を登っていく人間はさながらうろこ一枚くらいにしかすぎないのだろう。

前回は万里の長城の一番下から上り途中で下山した。今回はロープウェーを利用して途中から登り始め、万里の長城の一番上まで行くという計画であった。

万里の長城、さすがは中国随一の名所である。長城のてっぺんは観光客でごった返していた。外国人観光客だけではなく、中国人の団体客も多かった。話し声を聞いていても何語を話しているのか分からない。中国の地方から観光に来た人たちなのだろう。

ロープウェーを降りてから十分ほど歩くと頂上についた。少しずるい気もしたが、家族の誰にも長城に全力でぶつかっていこうという気などなかったし、そもそも目的は「長城を登る」というよりは「長城のてっぺんに行く」ことであったからそれで構わなかった。

長城のてっぺんにあったのは、なんてことのない行き止まりの壁だった。なんてことはないのだが、「長城のてっぺん」というだけで、その壁は充分価値があるものになる。頂上まで辿りついた人々は次々に壁に触り、記念写真を撮っていく。

ただの岩壁に過ぎなかったが、わたしたちもその壁を背景に記念写真を撮ることにした。十人ぐらいの中年の団体客が写真を撮り終わり、わたしたちの番になった。わたしと母親と弟が壁の前に並び、父親は数段階段を下りてカメラを構える。しかし、前の団体がなかなかどこうとしない。わたしたちに気がつかないのか、いつまでも壁の前で楽しげにしゃべっている。短気な父はいらだちを隠せず、しかしことばが通じないので、いらいらしながら身振り手振りで気付いてもらおうとした。が、そもそも中年たちは周りを見ていないのだから気付きようもない。炎天下のなか、いつどくか分からない団体がどくのを大人しく待っているのは酷だ。わたしも中国語で「すいません、どいてください」と言ってみたものの、周りが騒がしくその声は届かない。私はもっと大声を出すべきかどうしようかと考えていたが、その前に父の我慢が限界に達した。

「すいません、写真撮るんでどいてください!!」

父は日本語で叫んだ。するとたむろしていた連中は驚いたのか、一斉に父親のほうを見た。そして何かを理解したらしくあっさりとどいた。日本語で叫ぶなんて恥ずかしいことこの上なかった。しかしことばはわからなくても何か通じるものがあるのか、と妙に感心してしまった。

なんとか無事に写真を撮り終え、長城の中ほどまで私たちは下っていった。そこには商魂たくましくお土産屋が並んでいた。

わたしはルームメイトのユミコさんにお土産を頼まれていたことを思い出した。家を出る前に「我登上了長城(長城に登りました)」と書かれたTシャツを買ってきてくれと頼まれていたのだ。観光名所にいかにもありそうなお土産である。なぜそんなものがほしいのか、と聞くと彼女は、

「前に行ったときに買い損ねたから」

と答えた。観光地で買い損ねたものを土産として頼むのは、少し奇妙な気もしたが、欲しいのならそれを邪魔する気はない。

売店に向かうと、売り子のおばちゃんは暑い中億劫そうに働いていた。風が心地よいとはいえ、真夏の日差しが厳しかった。そんな環境で一日中観光客の相手をしているのはさすがに大変だろう。私はおばちゃんに近づき、Tシャツを指して値段を尋ねた。

「いくらですか?」

おばちゃんは指で三と五を示した。

「……おいくらでしょう?」

おばちゃんは再び右手で三を、左手で五を示した。わたしは一瞬躊躇した。いくらおばちゃんに差し出すべきか。普通に考えれば三十五元(五百九十五円)として受け取るのが素直なのだが、しかしまさか観光地でお土産がそんなに安いわけがあるまい。本当はその十倍である三百五十元(五千九百五十円)なのではないか。いやしかしそこで素直に三百五十元出したら、三十五元で売っていたとしてもそのまま全額持っていかれそうな気もした。だから安易にお金を出すのではなく、まず金額をはっきりさせる必要がある。だから用心深く再度おばちゃんに値段を聞いた。するとおばちゃんはわずらわしいものを追い払うように、

「三十五元」

とはっきり言った、面倒な客になってしまったことを恥じ、そそくさと三十五元払ってお礼をいい売り場を離れた。

そのTシャツは長城の風景が描かれ、さらには「我登上了长城」という中国語、そしてI climbed the Great Wall.と英語までが書かれたものだった。一目で土産用のものであると分かる。そんなTシャツ一枚に三十五元も払うのは馬鹿らしい気もしたが、頼まれものだったので我慢した。それに明らかに疲れきっている様子のおばちゃんと値段交渉をする気は起きなかった。

待っていた家族とガイドのところに戻り買ったTシャツを見せると、父がそれをいたく気に入った。

「それどこで売ってた?」

あっちだよ、と方向を指差すと父は母と連れ立ってその土産屋に向かっていった。観光地の土産物のどこに気に入るだけの要素があるのかとも思ったが、欲しいというのならとめる気はない。わたしは馬さんとおしゃべりしながら両親が帰ってくるのを待った。

しばらくして、両親が嬉しそうに帰ってきた。特に母は何かを成し遂げたかのような顔をしていた。Tシャツ一枚買う程度で何をそんなに喜ぶことがあるのか、と思ったが、母はわたしと違って中国語があまり上手ではないことを思い出した。母はわたしに触発されてか、中国語の勉強を始めていたのだ。ネイティブに習っているとはいえ、実際のやり取りには慣れていないはずだ。とすればこの買い物が母の中国語の初陣だったのだ。

しかしそれでも異常なほどに嬉しそうである。「どうしたの」と尋ねるより早く、母は事の顛末を話してくれた。

母が習いたての中国語で値段を聞くと、売り子のおばちゃんは百元(千七百円)だと言ったのだという。明らかにわたしのときとは値段が違う。それを聞いて、わたしのときの三十五元というのはいわゆる中国人価格であったということに気がついた。わたしは中国語をそれなりに話す黄色人種だったので、売り子のおばちゃんはわたしを日本人だと思わず、気にせず中国人価格で売ったのだろう。つまりわたしは日本人には見られなかったというわけだ。中国語が下手ではこうは行かないだろう。知らないうちに下手な中国語も少しは進歩するものだ。騙されかけた母には悪いが内心嬉しく感じた。

騙されかけた母はというと、幸いにもそれが本来は三十五元で売っているものだということをわたしから聞いて知っていた。そのため三十元まで値切った。おばちゃんは相当しぶったというがそれも当然である。カモにできるはずの外国人、しかも日本人観光客にどうして「適正価格」で売らなくてはいけないのか。それでも母は値切り倒した。そうして値切り倒せたことが嬉しかったらしかった。値切り倒すなんてわたしにはできない芸当である。中国語もさほどできるわけではないのにすばらしい根性である。

それにしても、未だに外国人料金なんてものが存在しているとは思わなかった。昔は観光地の入場料に中国人・外国人料金の違いがあったという話を聞いたことがあった。今ではそんなものはなくなっていたから、てっきり全てが同じになったのだとばかり思った。しかし土産屋にはまだ存在していた。一体その差額はどこに消えるのだろう。おばちゃんのポケットに入るのかもしれない。

わたしたちは万里の長城を下り、ふもとで待っていたバンに乗り込んだ。わたしはすでに途方もない疲労を感じていた。朝早いのが堪えてもいたし、また他の人に合わせて行動するということが久しぶりでもあった。それが家族ならなおさらである。気心が知れていて何も遠慮することがないとお互いに思い込んでしまっているならば、余計につらい。これがあと数日続くのかと思うと、バンの中では寝てしまうのがいちばん賢明のように思えた。バンの最後部座席で、前に座る家族から逃れるように目をつぶった。

ツアーはその後、明代の皇帝や后妃の墓がある明十三陵を観光し、この日の観光予定を終えた。しかし、まだ時間があったので、三日目に観光する予定だった瑠(リウ)璃(リー)廠(チャン)を先に見学することにした。瑠璃廠は骨董品や文房四宝の店が軒を並べる通りで、その建物は清代の町並みを復元しているという。とはいっても店先に並んでいるのはどこかで見たことがあるような安っぽいチャイナドレスやパンダの人形である。単なる土産物屋と化しているところも少なくないようだった。

単なる土産物をただ眺めるのは好きなので、あっちを見たりこっちを見たりしながら歩いていると、小さな直方体の石をたくさん並べた店を見つけた。店先ではポロシャツにジーンズという格好のお兄さんがハンコを彫っていた。するとそれに気がついた母が、

「あ、ハンコいいなあ、欲しいなあ」

と言い出した。それに反応するようにハンコを彫っていたお兄さんが顔を挙げてこちらに笑いかけた。これはまずい。わたしがやりとりを取り持たなくてはならない状況である。値切ったり間を取り持ったりするのは好きではない。

「你好、あの、ハンコがほしいのですけど」

としかたなく話しかけるとお兄さんは並べてあった小さな石の印材を取り出してあれこれ勧めだした。石には高いものもある。そのためあまり高くないものを選んで欲しいと頼んだ。お兄さんがいくつか選んだのはだいたい百元(千七百円)ほどのものだった。その中から母が好みのものを選ぶ。そのやりとりをわたしが取り持ったが、値切る手伝いはしなかった。値切るのは好きではないと思ってしまうわたしは、値切る文化に育っていないことを痛感する。いくら観光客相手だからと言ってもすこしは安くしてくれるだろうが、それすら聞かずに母親に百元を払わせた。馬さんは値切らないわたしにすこし驚いているようだった。お兄さんがその場で名前を彫ってくれて母の名前が刻まれた印章が完成した。母は上機嫌だったが、わたしは複雑な気持ちだった。

この日の晩御飯は北京ダックだった。老舗というその店は、確かに名前は何度も聞いたことがあるところだった。北京ダックをおなかに納めた後、わたしたち家族は再びバンに乗り移動した。満腹になったこともあり、すぐにでもホテルに帰ってベッドに飛び込みたかった。一日の疲れが身体に重くのしかかってきたためにわたしは気付かないうちに眠ってしまっていた。気がつくとバンは派手派手しい電飾が輝く建物の前に止まっていた。このマッサージ屋で足裏マッサージを受けるのがツアー二日目最後の行程だった。

マッサージ屋やレストランの屋根に飾られたオレンジ色のネオンが夜の闇を派手に照らしているのを見ると、中国ならではだと思う。北京の夜をタクシーで走るたびに、オレンジ色に浮かび上がった漢字を目にすることはあるのだが、何度見ても慣れることはない。いたって普通のマッサージ屋でも怪しく見えてしまう。

馬さんの先導に付き従い、マッサージ屋に入っていった。通された部屋は間接照明なのか、暖かいゆったりとした雰囲気の部屋だった。その部屋の中に背もたれが少し傾斜になっている真っ白いベッドが四つ、横一列に並べられていた。奥から母、父、わたし、弟の順に並び、ベッドにもたれかかった。

しばらくすると、半袖のポロシャツにズボンといういでたちの人が四人部屋に入ってきた。マッサージ師たちである。マッサージ師たちは挨拶もせず、無言で黙々と準備を進めていく。彼らにとってわたしたちはあくまでも日本人観光客であり、中国語が分からなくて当然なのである。だから挨拶も必要ないのだろう。わたしたちもわたしたちでマッサージ師など存在しないかのように日本語でたわいもないおしゃべりをする。わたしたちとマッサージ師たちの間は完全に断絶されていた。マッサージ師たちは黙ってマッサージオイルを足に塗りつけていく。観光客と話す話題もないし、ましてや共通の言語もない。

そのとき、ふと「話しかけてみよう」という気になった。話しかけたらきっとわたしを担当しているこの青年は喜んでくれるのではないか。わたしの話す中国語はわかりづらいかもしれないし、そもそも仕事に集中するあまり話そうとすらしてくれないかもしれない。しかし、この異様に断絶された空気よりははるかに居心地がいいはずだった。無言のまま奉仕されているのには耐えられない。

「こんにちは、何年生まれですか」

青年は驚いたようだった。わたしの質問が、あたかも異世界からやってきた人間からの接触と捉えたかのようだった。まさか中国語を話すと思わなかったのだろう。彼は質問に質問で答えてきた。

「中国語を勉強しているのですか」

「そうです」

北京にどれくらいいて、中国語をどれくらい勉強していて、というやり取りが一通り終わるころには、わたしと青年の間の壁に少し穴が空いたようだった。

彼は一九八八年生まれだった。弟と同じ年である。出身は四川で、高校を卒業した後に家を出て上京したらしい。十八歳ですでに親元を離れ自分で仕事をしているのだった。中国では日本ほど大学進学する人は多くない。それに「上京」と言っても日本とは比べものにならない。中国はやはり広大なのだ。四川から北京ではあまりにも遠すぎる。親元からそこまで離れたところで一人きりで生活するというのは弟はもちろんわたしにも無理だろう。

「あんたと同い年だって。このお兄ちゃん」

わたしは隣のベッドでマッサージを受けている弟に話しかけた。

「え、まじ?」

「まじ。あんたよりしっかりしてるね」

弟は、わたしには言われたくないという顔で苦笑した。青年は日本語が分からず、わたしと弟のやりとりをぽかんとした顔で見ていた、わたしは青年に、弟と同い年だということを伝えた。同時に弟にも青年にそう伝えたと伝えた。弟と青年は同時にお互いを見ると、少し笑いあったようだった。わたしはそれを見て少しだけ嬉しい気持ちになった。

他のマッサージ師が無言で黙々と機械的に仕事をこなしていくのをよそに、青年はマッサージをしながらさまざまなことを話してくれた。彼は北京で今はマッサージ師をやっているが、そのうち上海に行ってみたいそうだ。マッサージができればとりあえず職を探すのには困らない。青年は自分ができることと自分のやりたいことをしっかりと把握し、どのように叶えようかまで計画しているようだった。

四川にいたときはバスケットボールをするのが好きだったが、マッサージ師は夜の仕事なので昼間はする時間がないことを嘆いていた。だから一年に一回故郷に帰るときはすきなだけバスケットボールをするのだそうだ。そうやって同年代の外国人に自分の話をする青年の顔は嬉しそうで生き生きしていた。

弟と比べて、そして自分自身と比べて随分しっかりした若者であった。わたしは北京で留学生活を送るまで親元を離れたことがなかったし、青年のように仕事をした経験もなかった。アルバイトはしたことがあったが、それはあくまでも小遣い稼ぎでしかなかった。青年のように仕事だけをして過ごす生活を送るなど考えたことがない。

わたしは甘えている。親に甘え、恵まれた環境に甘えている。なおかつそれに気付いていなかった。甘えていることに気付かず、自分の置かれている環境が恵まれているということに気付かない。

将来自分ひとりで生活をしていくことができるのだろうか。生活費を稼ぐこと、家の中の仕事をすること、そのうえでやりたいことをやること。とても難易度の高い問題に思えた。仕事を始めたら、社会の中に放り出されてしまうのだろう。その時には今までの環境のありがたさを痛感するに違いない。自分の甘えに気付いて愕然とすることだろう。そうして初めて親や社会に一人前と認めてもらえるのか。本当にそんな日は来るのだろうか。

青年は相変わらず天真爛漫な表情で好きな芸能人の話をしていた。年齢は私より年下でも青年は立派に仕事をしている。その顔から北京で過ごす毎日が充実していることはよくわかった。自分のはるか先をしっかりと歩いている青年を尊敬せずにはいられなかった。

他のマッサージ師は最後まで機械的にマッサージを終え、マッサージの結果を何も告げずに次々と部屋を出て行った。青年はしゃべることに熱中しすぎたのか最後にマッサージを終えた。そしわたしにひとこと「目が疲れているみたいだから、菊花茶を飲んだほうがいいよ」とアドバイスすると、部屋を出て行った。マッサージと青年とのたわいもないおしゃべりのおかげで足の裏だけでなく全身がとても楽になった。

身体が軽くなったのを実感しつつバンに乗った。あたりはすっかり真っ暗である。すると窓を閉め切ったバンになにやら楽しげな音楽が流れ込んできた。まるで日本の盆踊りのような太鼓の音と金属の小さい音がする。

窓の外を探してみると、歩道上で何人かのおばさんが広げた扇子を持ちながら踊っているのが見えた。街灯に照らされたおばさんたちは整然と並び右手に持った扇子をひらひら動かしながら軽快にステップを踏む。

「あれはなんですか」

「秧(ヤン)歌(ガー)ですよ」

窓に食いついて興味深げに眺めているわたしに、馬さんはバンの補助席から声を掛けた。名前は聞いたことがあったが、初めて見た。秧歌とは「田植え踊り」と訳すことができる。カラフルな扇子を持ちながら踊るこのダンスを、わたしは映画の中でしか見たことがなかった。公園で行うのかと思っていたが、路上でも踊るとは思わなかった。

わたしたちはホテルへ帰ってきて、前日と同様に、翌日の打ち合わせをした。その時馬さんが、

「よかったら明日の朝、太極拳を見に行きませんか」

と提案した。馬さんによると、ホテルの近くに朝太極拳をやっている公園があるという。きっと秧歌を興味深く眺めていたわたしを見ての提案だろう。本来観光コースにはなかったが、馬さんはわたしたちのために提案してくれたのだ。中国では朝早くに公園や団地の空き地に出かけると、太極拳やダンスの練習をしている人たちをよく見かける。北語にもそういう人は当然のごとくおり、寮に住んでいた頃には、登校するときに練習に精を出している年配の方々を毎朝見かけた。どうやらそれは自由に参加してよい活動のようなのだが、余りにも朝早くから始まっているものだから、授業に間に合うように起きるので精一杯だったわたしは参加しなかった。そのためじっくりと太極拳や踊りの練習をしている人々を見たことはなかった。

「見に行きたいです、わたし」

馬さんの好意に甘え、見に行くことにした。面白そうなイベントが大好きな父も馬さんのイレギュラーな提案に惹かれたのか見に行くことに決めたらしい。母と弟は二日間の観光の疲れがたまっていたためホテルで寝ているという。おそらくわたしと父が撮ってきた写真を見ればいいと考えてのことだろう。観光名所らしくない中国を見せられると思ったのに少し残念だった。

翌日ロビーで待ち合わせすることにして馬さんと別れた。わたしたちは部屋に戻り、早めに休むことにした。前日同様、弟はシャワーを浴びてベッドに潜ると早々に眠りに落ちた。今日もくだらない話ができずがっかりしたが、朝早く起きて慣れない海外で観光していることを考えるとやはり疲れているのだろう。ましてや何を話しているのかわからず考え方や行動のルールすらわからない土地にやってきているのだ。弟は中国のマナーの悪さを頭ごなしに批判するのではなく、なぜそうなのかを理解しようとしていた。疲れは相当なものだろう。わたしはすでに慣れてしまっているため疲れを感じることはなかった。家族とずっと一緒にいることのほうに疲労を覚えた。この日はたくさん歩いたためかすんなり眠りにつくことができた。

八月二十三日(三日目)

翌日は朝六時に起きた。着替えて父と共に一階のロビーへ向かう。馬さんはすでに来ており、わたしたちの姿を見つけると、深々とお辞儀をした。朝のしっとりした空気の中、馬さんの後ろについて太極拳をやっているという公園へ歩いていった。

公園といってもこぢんまりとした小さな公園ではなく、入場料を払って入るような整備の行き届いた大きな公園であった。わたしが馬さんの分の入場料を払おうとすると、馬さんは

「年間パスを持っています。家が近いですからね」

と言って首から下げているパスをわたしに見せた。

あとで思い返してみると、馬さんは毎朝この公園に通っていたのではないか。家は近くだと言っていたし、まさかガイドをする客をこの公園に案内するためだけに年間パスを持っているわけもないだろう。とすれば、馬さんは朝の練習時間を削ってまで案内してくれたのだろう。その時に思いつかなかったことが申し訳ない。

公園に入ると、そこにはものすごく多くの老人がいた。それぞれ自分の興味のある活動に勤しんでいる。一グループ大体十人から多くて五十人くらいであった。老人はみな毎朝来ているのだろう、みな通り過ぎる人と挨拶を交わしている。近所づきあいの深さがなせる技である。顔を合わせては「你好」と笑いあい、お互いの体調を気遣いあっている。何を話しているのか知りたくて彼らのことばに耳を傾けたが、北京訛りの巻き舌がひどくて聞き取れない。

太極拳をしていたグループはあちらこちらに見られた。大体横に四列に並び、音楽に合わせてゆったりと動作を行っていく。太極拳は非常に落ち着いた激しさのない動きであるように見えるが、その実結構いい運動になる。体の動きを止めることなく流れるように次の動作に移っていくため、激しいだけの運動よりよっぽどきつい。そんな太極拳がこれだけ受け入れられているのだから中国人の老人たちが健康で元気があるわけが何となく分かった気がする。

また一方では社交ダンスをしているひとたちもいた。男女関係なくとりあえず組み、ステップを繰り返している。音楽を流しているようなのだが、辺りが騒々しいのでよく聞こえない。どのペアも胸を張りながら華麗なステップを披露する。まだあまり慣れていない人たちは先生ペアを横目で見ながら踊っている。よく見ると参加しているのは老人だけではないことに気付く。白髪で背中の少し曲がった人は一目見て老人と言ってもいいのかもしれないが、髪の毛も黒く体格もいい人は老人とは言えない。参加している年齢層は広いのだろうか。健康に気を使い朝早く起きられる人なら誰でも参加できるのだろう。

公園の中に入っていくと、行われている内容が少し変わってくる。真剣な面持ちで地面に相対している人たちを見かけた。見つめるタイルの地面は水で濡れている。何をしているのか近くによって見てみると書をしたためていた。水の入ったペットボトルのふたの部分にスポンジを取り付け、万年筆の要領で漢字を書いていく。地面に水で書いたものだからしばらくすると乾燥して消えてしまう。それでもつかの間の作品を多くの人が眺めていく。何と書いてあるかはわからなかったが、そのまま紙に写せば充分に作品になるだろう。タイルの上の文字は立派な書であった。

バドミントンをしている人たちもいた。老人だけではなく、若い夫婦や学生らしき人もいた。ラケットを振る鋭さはまるでプロのようで、シャトルが鋭い軌道を描きながら的確に相手のところへ飛んでいく。中国はバドミントンがとても強い国だということを思い出し、一般人と対戦してもおそらく勝てないだろうなと思い至った。

広い公園の中を一回するのに一時間かかった。印象的だったのはどの顔も非常に活き活きとしていたことだ。友人たちと好きなことに取り組めるというのはどこの国でも楽しいものらしい。特に老人の世代は中華人民共和国建国や文化大革命などの厳しい時代を体感してきた世代でもある。怒涛の時代を生き抜くことができたのは、きっと根底に力強さがあったからなのではないか。それともそんな怒涛の時代を生き抜いてきたからこそ力強さが身についたのか。

父は元気な老人たちを見て何を感じただろうか。わたしよりは彼らに年が近い。わたしが歴史上でしか知らないさまざまな出来事を体験している。高度経済成長期、東京オリンピック、バブル経済、わたしが生きていない時代を父は確実に生きている。長い時間を生きていくことが年をとっていくということなのか。その中で大人になるということを知っていくのだろうか。長く生きれば大人になれるのか。決してそうではないはずだ。父は、どのような道を経て大人になったのだろうか。

北京旅行三日目となるこの日は北京の真ん中に位置する天安門広場と故宮博物院を観光することになっていた。午前十時頃、いつものバンで天安門広場に向かった。天安門広場の東西には国立博物館と人民大会堂がそびえている。国立博物館には中国の歴史や文化に関する展示がなされていると観光ガイドには書いてあるのだが、あいにく工事中であった。二〇一〇年には完成するそうだ。そのかわりというわけではないが、国立博物館の壁には街のいたるところで見られる北京オリンピックまでのカウントダウンの看板が立てられていた。北京オリンピックの開幕式が行われる二〇〇八年八月八日まであと三五一日。

人民大会堂では毎年三月ごろに全国人民代表大会が行われる。地面からはるか高いところには中華人民共和国の国章が掲げられている。天安門広場には、毛沢東の遺体を安置してあるという毛沢東紀念堂や、毎朝日の出の時間とともに掲揚され日没と共に降ろされる国旗掲揚台もある。青空にはためいている真っ赤な中国の国旗は誇り高く見えた。

北京の中心ということは、中国の中心でもある。天安門広場の大きさにわたしはただ圧倒されるしかない。

天安門広場の北側には天安門がある。門の中央部には初代主席・毛沢東の肖像画が掲げられ、その肖像画をはさんで「中华人民共和国万岁(中華人民共和国万歳)」「世界人民大团结万岁(世界人民の大団結万歳)」と書かれた赤地に白抜きの文字のスローガンが飾られている。赤地に白抜き、というとどことなく「革命」というイメージが思い出される。街のいたるところで見るその風景にわたしはすっかり慣れてしまっていたが、もしかしたら両親は奇妙だと思ったかもしれない。

天安門広場から道路を挟んで天安門を眺める。道路沿いには柵が張り巡らされており、あらゆるところが写真をとる観光客で埋め尽くされている。ふと隣に写真を撮る男性がやってきた。年老いた小柄の男性が同じく白髪で小柄の女性の肩を抱いて写真におさまっていた。男性の肌に刻まれた苦労や抱えていた荷物の多さから一目で北京の人ではないとわかる。背広を着た男性が構えるカメラに対して照れた様子を見せながらも、何気なく妻とおぼしきひとの肩を抱き寄せる男性の姿はいかにも自然であった。

故宮の中に入ると、そこには清代の建築が並んでいた。赤と青を基調にした建物と金色で書かれた漢字の看板と漢字の横に少し小さく記された満州文字が中国最後の王朝が満州族という「異民族」によるものだったことを思い出させる。所謂チャイナドレスと呼ばれている服はもともと騎馬民族だった満州族の民族衣装だったという。今の中国を構成しているものが決して漢族だけではないことを痛感せずにはいられない。

オリンピックが近いからだろうか、故宮でも例に漏れず工事をしていた。清代の美しい建物が緑色の工事用ネットで覆われているのが非常に残念であった。しかし、それでも故宮自体とても広くまた見るべきものも非常に多いように思えた。

馬さんは家族に対して日本語であれこれ故宮についてガイドをしていた。家族は故宮の大きさや歴史的な背景についての説明を聞いて感嘆していたが、馬さんはそんな家族を横目に、中国語でこっそりわたしに、

「もししっかり見ようと思ったら三日あったって足りませんよ。ましてや午前中だけで見ようなんて足らなすぎます」

と教えてくれた。わたしは苦笑するしかなかった。

故宮博物院をぐるりと一周しそろそろ故宮を後にしようかという時、父が馬さんのほうへ歩み寄った。そして、

「家族四人の写真を撮ってもらえませんか」

と言う。なぜ写真を撮る必要があるのだろう。わたしたちがいる場所には大した観光名所はない。あるのは出口に向かう道とセミの声がうるさい日陰だけである。

わたしの疑問を受け取ったかのように父は続けて説明をする。

「毎年家族写真を撮っているんです。今年は娘が中国にいるから無理かなと思ったんですけど」

そうだった。父の一言を聞くまでは毎年恒例の家族行事のことなどすっかり忘れていた。

両親は結婚式を挙げたホテルで毎年家族写真を撮り続けてきた。一枚目はたしか結婚したばかりの頃、写真にはまだ初々しい夫婦としての二人が映っている。二枚目になると母のお腹には彼らの娘がすでにおり、それとなく家族写真に参加している。そうしてたった二人からスタートした家族にわたしが加わり、弟が加わり、四人になった。幼稚園の制服を着た小さな少女は数年後には赤いランドセルを背負い、そしてさらに数年後には真新しい中学校の制服を着て写真に納まっている。弟はというとわたしとは色の違うランドセルを背負って写真に映っていた。野球部のユニフォームで映っている写真もある。子どもは一年ずつ大きく変化し、それを見守る二人は緩やかに変わっていく。毎年撮るこの写真は家族四人の写真であり、夫婦二人の写真である。わたしにとっての両親が両親でさえなかった頃からの家族としての記録だ。

一年ごとにどのような変化をしてきたのか確認するために、そして四人で家族だということを確認するために彼らは毎年写真を撮り続けてきたのだろうか。家族であることは一年ごとに確認しなくてはいけないのだろうか。家族として出発した二人がわたしの目に映っているようになじむまでには、きっと子どものわたしが想像してもしきれないほど気の遠くなるような作業が必要だったのだろう。緩やかに変わっているように見える二人だが、子どもが知らないところで目に見えない大きな変化があったのかもしれない。

写真を撮ることを快く了承してくれた馬さんにデジタルカメラを渡してわたしたちはどことなく整列した。カメラはホテルにあるような立派なものではないし、カメラマンも決してプロではない。背景がセットされているわけでもなければ服装だって整っているわけではなかった。それでも家族はまた一枚分の家族としての歴史の証を重ねた。

わたしが中国に留学することは、もしかしたら両親にとっては恐ろしいことだったのかもしれない。わたしがいなければ家族としての記録は成り立たない。もしわたしがいない家族写真を撮ったとしたら父も母も何かが足りないような気持ちになっただろう。わたしもそんな写真を認めることができない。わたしは知らないうちに深く強烈にこの家族に組み込まれている。考えてみれば不思議なことだと思う。

わたしはこの家族に組み込まれたくて組み込まれたわけではない。気がついたらこの家族の一員だった。幸か不幸かそのチームは乱れることなく今までやってくることができた。わたしにとって両親は両親でしかない。だが両親自身にとってはわたしが彼らの間に入り込む前から、いや彼ら二人が出会う前からずっと父としてではなく、母としてではなく生きていた。生きていく過程の中で他人と知り合ったり勉強をして新しいことを知り、好きなことをしたりしてさまざまな経験を重ねてきた。わたしは彼らがどんな経験をしてきたかほとんど知らない。しかし、彼らの間に生まれ育ててもらったことはまぎれもない事実である。彼らが育てる過程でわたしに与えてきた考え方には、彼らの考え方が大きく反映されているのだろう。とすれば、わたしは彼らの子どもであることを引き受けて生きていかなければならない。その意味ではわたしはどこまで行っても父と母の子どもなのだろう。

八月二十四日(四日目)

四日目は自由行動だった。両親の、主に母の希望により午後は旅行社のオプションをつけていた。人力車に乗りながら昔ながらの北京である胡同をめぐるのである。だから完全に自由に行動できる時間は午前中に限られていた。さて、どこに行こうか。馬さんはいない。となればガイド役は必然的にわたしが務めることになる。

「明日はどこに連れてってくれるの」

と両親は前日から楽しみにしていたようだ。しかしわたしは観光らしい観光を北京でしたことがないし、あまり興味もない。そのため家族をどこへ連れて行っていいのかわからない。そもそも故宮や天安門、北京動物園はすでにまわってしまったし、北京ダックや火鍋はもう食べてしまった。そうなると、わたしにできることは少なくなってくる。

しかたがないので北京の中心地・王府井に連れて行き買い物をしてもらうことにした。北京の繁華街の様子を眺めるのだって決してつまらないことではない。北京の土産を買うこともできる。王府井に連れて行けば何かしら買い物ができるだろうと思った。わたしはというと、観光の買い物にはさっぱり興味がない。だから王府井書店に行くことにした。地下一階から五階まで全て本屋であるこの本屋は家の近くにはない。観光の買い物につきあうより本屋でぶらぶら本を眺めていたほうがよっぽど楽しい。

お土産が買えそうなところへ家族を連れて行くと、

「本屋行ってくるから適当に買い物して」

そう言って家族から離れた。

本来なら買い物の際にもあれこれ通訳をしてあげるべきかもしれない。しかしそれは嫌だった。わたしだったら決してしないような質問を家族はするかもしれなかった。買い物の際に値段を聞いたり商品の素材をたずねたりするのはまだいいが、売り手の人にいぶかしがられるような質問や売り手の人を不快にさせるような質問をしかねなかった。そんなことをされたら私は恥ずかしくなってしまう。

一時間ほど本屋で買いもしない本を眺めてから待ち合わせ場所に行くと、家族は嬉しそうな顔をしていた。オリンピックグッズを買ったのだという。翌年に控えたオリンピックに向けて、北京各地にオリンピックグッズを売る店ができていた。しっかりした店舗を構え公認のぬいぐるみやキーホルダーや記念硬貨などを売っている。露天商が売っているものとは違って合法であるし、つくりもしっかりしている。それなりに喜んでもらえたようで、ひとまずはほっとした。

その後王府井からバスに乗り、南へ少し下ることにした。天壇公園の近くに有名なジャージャー麺屋があるのだ。その日のお昼ご飯をそこで食べたいというのはわたしの希望だった。

バスで天壇公園付近まで到着し、少し歩くと目的の店に着いた。店に入ると昼時であるため、がやがやとしていて非常に混んでいた。

入り口付近でしばらく待っていると、席が一つ空いた。ちょうど四人席だったのでそこに座ろうとしたが、後からやってきたおじさん四人組にあっさりと取られてしまった。おじさんたちは楽しげに雑談しながら席に座りメニューを受け取っていた。席は基本的に早いもの勝ちである。ここで相手の卑怯さを指摘してわめいたところでどうにもならないのは重々承知である。おそらく面食らっているに違いない家族を尻目に、わたしは次にどの席が空くかを虎視眈々と探していた。運よく近くの席が空いたので、店員が食器を片付けるのも構わず席を取った。家族はたくましく席を獲得したわたしを呆れながら見つめていたかもしれない。

席に着くとメニューを差し出される。ジャージャー麺専門店であるから、四人分ジャージャー麺を注文すればいいだろうと店員を呼び止めた。ところが店員は、

「それだけじゃ足りないでしょう。何か他に頼んだらどうでしょうか」

と勧めてくる。わたしは焦った。日本のレストランで食事をするときと同じ感覚ではいけないということを即座に思い出した。中国では複数人で食事をする場合、人数と同じかそれ以上の種類の食事を頼む。それを大勢で取り囲んで取り分けるのだ。一人一品というわけにはいかない。食堂で食べるものはいつも決まっているため注文する際に焦ることはない。また食事は大抵一人だから、量を頼むこともしない。わたしは店員から渡された卒業アルバムほどの厚みはあろうかというメニューの中から、適当な料理を素早く探し出せるほど動作は機敏ではない。かといって混雑のピークまっただなかにいる店内で悠長にひとつひとつを丁寧に探せるほど肝も据わっていない。また店員に勧められておいて、ほかに何も注文しないという度胸もなかった。仕方がないので店員にオススメを聞いた。

「何かオススメありますか?」

店員は黙ってメニューを取り上げてページをめくった。店員が示したページにあったのは見たこともない名前の料理だった。材料も調理法もまるで見当がつかない。おまけにあまりに高すぎる。中国でオススメを聞くと十中八九値段がやたら高いものを提示されることを思い出して尋ねたことを後悔した。もちろん値段が高ければそれだけよい材料を使っていたりめったに食べられないものだったりするのだろうが、金銭感覚の許容範囲をはるかに超えている。

「すいません、それはいりません……」

無礼にも店員のオススメを断り、慌てて目に飛び込んできた手ごろな値段の料理を二、三注文した。それだけですっかり焦ってしまったわたしは家族に飲み物の注文を聞くことも忘れてしまった。

ジャージャー麺はおいしかった。しかしやはり注文した料理が多すぎたのか、少し残すはめになった。そもそもジャージャー麺だけで量は十分であった。多く頼み食べられなかった分を残すという中国式の食事には、小さいころから残さず食べましょうと教育を受けてきた日本人の家族一同にはなじめそうもないものだった。

昼食を終えて、一度ホテルに帰ることにした。午後からはオプションコースとして人力車で胡同をめぐるというツアーがあったので、一度馬さんと落ち合う必要があったのだ。しかし昼食を食べた店からどのようにすればホテルに帰れるのかわからない。朝出発する前に、馬さんが気を配って旅館の前を通るバスの路線を書いたメモを渡してくれていたのだが、肝心の路線が見つからない。タクシーを拾えばあっという間に帰れるのだが、運転手にどのように場所を説明すればいいのかもわからない。ホテルの名前も覚えていない。ホテルの近くに目印になるものがあるかどうかも分からない、もしくは通りの名前すらわからない状況ではタクシーで帰ることはできない。

わたしは地図を広げた。今いる場所とホテルは大して離れていないように見えた。

「だいじょうぶ、歩けばすぐだよ」

そう言って天壇公園沿いに歩き出した。歩いているうちにバスの路線が見つかるかもしれない。見つからないとしても歩いてすぐなのだから問題はないだろう。とにかくホテルに帰らなくてはいけない。地図を頼りに八月の炎天下の中ひたすら歩いた。

ホテルに着いたときには家族全員疲れ果てていた。それもそのはずで、結局二時間も歩き続けたのだった。わたしや弟のような若者はともかく、両親を炎天下の中歩かせるというのは鬼か悪魔のすることだと我ながらぞっとした。

わたしたちが歩いて帰ってきたと知った馬さんは、

「どうしてバスで帰ってこなかったんですか」

と驚きを顔一面に浮かべて言った。

「路線が分からなかったので……」

と罰の悪さを感じながら答えると、

「地図を持っていたのならタクシーでも帰ってこられたじゃないですか。運転手に地図を見せればすぐですよ」

と指摘された。そのとおりである。なぜそこまで頭が回らなかったのか。馬さんのせっかくの気配りを無駄にしてしまって非常に申し訳なくなった。

疲れの色が家族の表情を覆ってはいたが、引き続き前海と後海をめぐるツアーに参加した。胡同とは北京の下町に当たるところで、そこではいくつかの団体が人力車ツアーを組み観光に力を入れている。人力車と言って思い浮かぶのは、まず日本の浅草か京都かというところなので、北京にもまさか人力車ツアーがあるとは思わなかった。胡同の細い路地はまるで迷路で客を乗せた人力車の大群が次々に通るのを眺めるのはさぞかし奇妙で楽しい光景なのだろうなと想像した。

二人乗りの人力車を一人で引くというスタイルは日本とほとんど同じだった。わたしたちは他のツアー客と共に人力車の大行列に加わって胡同の姿を楽しむことになった。

胡同は決して死んだ観光地ではなかった。人力車がすれ違えるか分からないほどの幅の道の両側に掲示板がかけられているのを見た。黒板にチョークで町内の連絡が書かれていた。風にさらされているためかすれているところもあったが、それでもその跡は確かに生きていた。観光で参加したツアーではあったが、飾らないそのままの姿を見ることができて少しだけ嬉しくなった。

最終日の夕食は大きくきれいなレストランで小籠包を食べた。これもオプションとしてつけたものであった。二階建ての大きな建物であったが食事時には少し早かったこともあり、わたしたちのほかには一組しかいなかった。この一組からも日本語が聞こえてきた。店内を見渡すと明らかに必要以上の従業員が配置されており、みな暇をもてあましていた。店員の手持ち無沙汰の様子に両親やもう一家族の人々が少しだけいらだっているように見えたのがおかしかった。

あつあつの小籠包をほおばりながら家族に初めて訪れた北京の感想を聞いてみた。すると「交通ルールが守られていない」「スーパーでのレジの金額表示が客に見えなかった」「店員同士が平気でしゃべっている」などの感想が返ってきた。確かにそうした意見は非常に全うである。わたしも来たばかりのころそのように感じた。何故信号を無視するのだとか、ゴミを好き勝手捨てるなとか、どうして電車で並ばない、降りる人が降りてから乗るべきだろうとか、いちいちイライラしていたものだ。だが今となってはそうした疑問自体に反感を覚えてしまうのは何故なのだろうか。半年生活をしているせいかすっかり慣れてしまっていたのか。「郷に入っては郷に従え」を実行しなくては生活をする前にストレスがたまってしまう。もちろんルールは守るべきだろうしマナーが悪い人は批判されて然るべきだが、マナーが悪い人自体は日本だろうが中国だろうが存在する。

八月二十五日(最終日)

ツアー最終日のこの日、家族は朝早い便に乗って帰ることとなった。飛行機が朝八時の離陸のため五時にはホテルを離れなくてはならない。わたしも「家」に帰らなくてはならない。チェックアウトを済ませ荷物をまとめた家族は食事を終えホテルの前で待っていた。わたしは家族からもらった日本土産と空のペットボトルをたくさんつめたかばんを抱えて、家族のところへ駆け寄った。空のペットボトルは、家の近くの店でお金と交換してもらえるのだ。この旅行中に出た空のペットボトルをすべて家族から回収し、持って帰ることにしたのだった。

馬さんに、

「せっかくですから空港まで見送りにいってはどうですか」

と勧められた。少し迷ったが、その申し出を断った。家族は日本へ帰る。わたしは北京に残る。途中から合流した旅行は、途中で別れたほうがいい。そう判断した。それに北京に来たとき、次に空港に近づくのは帰国するときのような気がしたから、できれば空港には近づきたくなかった。

「早く家に帰って寝たいから、いいです」

そう伝えると、馬さんは少し不満げな表情を見せた。せっかく遠路はるばるやってきた家族のことを最後まで見送るのが当然であると言いたげであった。家族団らんを重んじる中国人らしい考えだといえるのだろう。しかし、わたしには空港まで付いていき泣きついて別れを惜しむか、冷たく振舞ってここで別れるかどちらかの選択肢しかなかった。前者を選ぶのは恥ずかしくて嫌だった。笑って見送りに行き何事もなく日常に戻れる自信はわたしにはなかった。

だから馬さんと五日間を共に過ごした家族にはその場で別れを告げた。母はつれない娘だと思っただろうか。父はわがままな娘だから仕方がないと思っただろうか。わたしはホテルの前でタクシーを拾い、荷物を抱えて一人でタクシーに乗り込んだ。

「じゃあ、また日本で」

どうせまた半年後には会えるのだ。ドアが閉まった後も家族のことを振り返らなかった。北東にある空港とは反対方向にある自宅に向かってタクシーを走らせた。

帰りのタクシーは快適だった。通勤ラッシュの時間帯ではなかったから車がほとんど少ない。夏の朝日がまぶしくて気持ちよかった。空気も澄んでいる。ふとこの五日間の出来事を振り返った。そういえば家族旅行なんて随分久しぶりだ。子どものころは、毎年夏休みには海へ行ったり山へ行ったりしたものだった。父が車を運転し、母が助手席に座り、わたしと弟は後部座席で眠っている。目が覚めるといつのまにか目的地へ着いていた。幼いわたしは、ほんの少し眠っただけで目的地についていることが不思議で仕方がなかった。あのころは、目を閉じるだけで楽しいところへ行けたのだ。

夏になると海にはいつ行くのかと親に聞き、その日が来るのを心待ちにしていた。しかしいつの間にか親に聞かなくなり、旅行にも行かなくなった。「今年から旅行にはいかない」と言われた記憶もない。いつの間に家族旅行に行かなくなったのだろう。毎年行っていた海の近くにある会社の保養所もいつの間にかつぶれたと聞いた。そのことに気付かないくらい自然に、気付いたら家族旅行に行かなくなっていた。家族旅行に出かけなくなったことに、わたしはいつ気がついたのだろうか。

家族旅行なんて本当に久しぶりだった。家族四人でどこかへ行くなど本当に何年ぶりだったのだろう。これから先今回のように家族四人でどこかへ出かけることはあるのだろうか。

タクシーの周りの景色は北京を囲む大道路から見慣れた五道口へと変わっていった。家に帰るまでが旅行だというから、部屋に着いたらこの家族旅行は終わる。家族四人で過ごした数日間から、父や母から離れてひとりで過ごす日々がまた始まる。三日後には夏休みが終わり、後期の留学生活が始まるのだ。そうだ、家に帰ったらたまった洗濯物を洗わなくては。ユミコさんはまだ寝ているかもしれないから、朝早く洗濯機をつかったら迷惑になってしまうかな。北京での自由な日常がまた始まると思うといささかほっとした。だがこの五日間のことは忘れてはいけないような気がした。こうして家族で旅行に行くことなんてきっともう何回もない。無理やり誘われての参加だったが、本当はわたしだってそこまで嫌がってはいなかったのかもしれない。もしわたしが旅行に参加したことで父や母が喜んでくれたのならそれでいい。できることなら、わたしから中国に来てくれと言うべきだったのだが、それはもうすこし大人にならないとできそうにない。

あと半年したらまた会える。だがそれは前と同じ家族に戻ることをおそらく意味しない。家族というものがいかに不思議でいかに奇妙な集団であるかと思ってしまうようになると、それが存在することが自然で当たり前だと思っていたときのように単純に捉えることはできなくなる。その時父は「父の役割を担ってくれている人間」として、母は「母の役割を担ってくれている人間」として捉えなおされるだろう。わたしは「父の役割を担ってくれている人間」と「母の役割を担ってくれている人間」とが今まで何を考えて生きてきたか、実は何も知らないことに気付く。彼らがわたしとおなじ一個の人間として何を感じてきたかなど考えたことがなかった。

もしかしたら、それに気付くことが大人としてやっていくための第一歩なのかもしれない。わたしは両親の子供であるという点で両親を背負って生きているが、決して両親の付属品ではないしおまけでもない。親が役割に過ぎないということに気付いたとき初めて確信を持ってそう言うことができる。もちろん、子供としてのわたしの前で彼らが立派に「父」「母」の役割を果たしてきてくれたのは感謝すべきことである。だが異なる角度から捉えなおすことで初めて自分が大人になれる可能性が開かれるような気がする。

しかし頭では分かっていても父は父のままだし母は母のままだ。これはずっと変わることはない。では当たり前だと思っていたことが当たり前ではないと気づいてしまったとき、わたしはどうすればいいのだろう。いつか当たり前ではないことを当たり前として自然に受け止めるようになるのだろうか。

北京の澄んだ青空の朝は、いままでに感じたことがないほどすがすがしかった。

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