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北京留学記:安徽省実習

夏休み後の留学生活と、安徽省に出かけていった実習(と言う名の小旅行)の話です。(写真は杭州なので何の関係もないです)

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北京は九月になっても暑さが引かず、厳しい日差しが絶えることはなかった。雨もなかなか降らず、乾燥した日が続いていた。夜になると暑さの中にも少しずつ涼しさを感じるようになり、秋になったと思えなくはなかった。だが、東京では、九月に台風がやってきたり、秋の長雨が降ったりすることを考えれば、その涼しさは微々たるものだろう。

中秋節のパーティをするから、クミコさんもぜひ来ませんか、と北語のちかくにある大学の日本語科の学生に誘われたのは九月の末のことだった。中秋節とは要するにお月見のことで、旧暦の八月十五日にいつもよりひときわ明るく輝く月を眺める。〝お月見〟といえば、日本にいたときにもなじみはあったが、そういえば今日はお月見らしいね、と友だちと会話を始めるときのきっかけ程度にしかならず、実際に満月を眺めてみようなどという気は起こらなかった。そもそもいつが旧暦の八月十五日なのか、当日の天気予報で聞いて初めて知る程度だった。しかし北京では、もうすぐ中秋節が来るらしいということを以前から頭のすみに置いておくことができた。留学生のあいだでは、中国の伝統的な祭日に開かれる留学生のためのイベントの話をすることが多く、そのために前々から知ることができたのだ。だが、それ以外にも、日本にいる時より旧暦に注意が向くことが多かった。中国では携帯電話に内蔵されているカレンダーでは日本と同じく太陽暦を用いているが、生活は旧暦を中心にしているようだった。日本で暮らしていたときは、ほとんど太陽暦だけに頼って生活をしていたから、部屋に貼ってある日本から持ってきたカレンダーや、携帯電話に内蔵されているカレンダーを見ると、旧暦はやはりどことなく違和感を感じてしまう。だが、意識が向くのは旧暦の変わり目だったせいか、季節の移り変わりを捉える感覚が研ぎ澄まされていくように感じられた。

夕方、学校の授業が終わった教室に入ると、蛍光灯がこうこうとしている殺風景な教室に久しぶりに会う教員と学生たちが笑顔で迎えてくれた。中国は日本と違って九月に学年があがるため、学生たちは二年生になったばかりだった。

「中秋節は、家族みんなで集まって月を眺めて月(ユェ)餅(ビン)を食べるんですけど。みんな上京して家族と離れているから、せめてクラスのみんなで集まろうと思って」

なぜお月見にみんなで集まってパーティを開くのか腑に落ちないという顔でもしていたのだろうか、学生のひとりがパーティをすると決めた理由をそんな風に説明したので、中秋節という日がもつ意味が、わたしの思っているのと大きく違っていることに驚かされた。

教員が買ってきたという日本酒を紙コップにそそぎ、クラスの学生が分担して用意したのであろうお菓子と月餅を食べた。月餅というのは満月をかたどった円く平たい焼き菓子で、小豆あんやクルミ、松の実が入っていたりと中身はさまざまである。

わたしは学生たちと中国語でしゃべったり日本語でしゃべったりしていたが、しばらくして、余興として歌に自信のある学生が数人、日本語や中国語の歌を披露することになった。知らない歌ばかりであったが、照れることなく歌う学生は堂々としたもので、歌い終わると拍手喝さいとなり、それを照れ笑いでごまかすことなく素直に受け取っていた。

「クミコさんも一曲歌ってくださいよ」

突然、余興に参加することを要求されて戸惑うしかなかった。歌に自信などないし、即興で歌えるような歌もほとんど知らなかった。だが、学生たちが堂々と歌ったあとでかたくなに拒絶してしまうと雰囲気がさめてしまうように思えたし、そうして拒絶するのも恥ずかしいような気がした。

意を決して黒板の前に立つと、学生たちは背中を押すように拍手をしてくれた。何を歌うか一瞬迷ったが、日本語の歌よりも中国語の歌をよく聞いていて、流行っているのかどうか知らなかったが、わたしは中国語の歌を歌った。歌詞を思い出しながら歌ったために途中で歌詞をまちがえたような気もしたが、気にすることで歌をやめてしまいたくなかった。

曲を一番だけ歌うと、学生たちから再び大きな拍手が起こった。歌い終わってはじめて、普段だったら何が何でも歌うのを嫌がるのに、なぜいやな気持ちにならなかったのだろうと不思議に思った。故郷を離れて学んでいるのは学生だけでなかったが、この場所を離れたくないとなんとはなしに思った。

今まで中国に来てから経った時間を数えていたが、いつの間にか帰国までの時間を数えるようになっていたことに気づき愕然とする。北京で過ごした日が一日ずつ積み重なっていくごとに北京にいられる時間が一日、また一日と減っていく。砂時計の砂が落ちていくのを食い止めることができずただ眺めるだけで、胸を割くような痛みにじっと耐えて痛みが過ぎ去るのを待つことしかできない。故郷を離れて学ぶ学生たちは、本来家族団らんをして過ごす中秋節に、家族のことを思っているのだろうか。中秋節を過ごすことと自分の生活が結びついていないわたしには、そう感じることはできなかった。それよりも、これまで北京で過ごしてきた積み重ねと、これから北京でどれだけの時間を過ごせるのか、どんな時間を過ごせるのか、そのことで頭がいっぱいだった。

新学期になり、後期の授業が始まってすでに三週間ほどが経っていた。九月の頭には前学期と同じように教一楼の教務室のような場所で授業の登録をし、選択授業を選んだ。後期は高級下のクラスで学ぶことになっていたが、高級上のクラスがふたつ開講された前学期とは違い、高級下は一クラスしかないようだった。高級上でともに学んだアリヤやファンリェンたちは、ほとんどが七月で漢語進修学院を修了し、帰国したり大学院に進んだり仕事を探したりしていたから、わたしのいたクラスで九月からも引き続き学ぶのはわたしのほかにもうひとり、洪(ホン)美(メイ)蘭(ラン)という韓国人しかいなかった。高級上のもうひとつのクラスの様子はまるで知らなかったから、はたして何人くらいが残っているのか見当がつかなかった。

結局、高級下のクラスは全部で十三人だった。そのうち日本人が七人もいた。日本人以外のクラスメートは、韓国人のメイランと、かなりお年を召したアメリカ人の婦人がひとり、ロシア人の若い男性と女性がひとりずつ、オーストラリア人の大学生がひとり、それと高級上でも同じクラスだったが、あまり授業に出ていなかったブルガリア出身の小(シァオ)保(バオ)という大学生の六人だけだった。日本人がクラスの半分を占めるというのは非常に多いと思わざるを得なかったが、高級下のクラスのレベルまで中国語を勉強するのには漢字の読み書きができることが必要になるため、日本語の中で漢字に慣れ親しんでいるというのがおそろしいほど有利に働いているということなのだろう。逆に、中国語の文字である漢字を勉強するために、日本語で育ってきた人に比べて莫大な労力を費やさなければならなかった他の学生は、どれだけ大変な思いをして中国語を学んできたのだろうか。

前期も同じクラスだったメイランは、留学生といってもわたしより十歳近く年上で、すでに結婚しており、旦那さんを韓国に残して中国に来たという。前学期にはあまり話すこともなかったが、今学期も同じクラスになったのがわたしとメイランだけだったので親近感が湧いた。話してみると前学期の印象とは異なり、案外かわいらしい一面を持っていることに気づいた。

前学期の最後に、王先生の発案で今後もずっと交流が続けられるようにと文集を作成した。ほとんどがまもなく帰国してしまうし、また一年間ともに学んできたからか、「みんなと出会えてよかった」「みんなのことは決して忘れない」「機会があったら自分の国に遊びに来てほしい」などという別れを惜しむことばや、授業やそれ以外の時間での思い出がつづられていた。その中でメイランだけは、夏休みはわたしも家に帰れるからうれしい、四ヶ月経ったけれどまだ家族が恋しいと書いていて、ほかの人の文集に比べてずいぶん味気なく感じられた。メイランにとって中国で過ごしたこの四ヶ月はいったいなんだったのだろうと疑問に思ってみても、日本に一時帰国するよりは中国で夏休みを過ごしたほうが楽しいだろうと思っていたわたしにははっきりと理解できず、この四ヶ月でわたしが見たり感じたりしたものとはまるで違ったことを感じていたのだろうと推測するしかなかった。メイランにとってはそれが偽らざる本心だったのだろうし、それをただ率直に書いたに過ぎなかったのだろう。

前学期のある日、朝いつものように教室に入っていくと、教壇のところでメイランが王先生になにか話していたことがあった。メイランが王先生の話を聞きながらうつむいて目の辺りをぬぐったり力なくうなずいたりしていたのを見て、なぜそこまで悲しそうにしているのか不思議だった。しかし、その場でメイラン本人に直接わけを尋ねるのもやじうま根性のようだったので、気にはなったがそれきり忘れてしまうことにした。後ほどクラスの晩会のときに思い出し、隣に座っていた王先生に聞いたとき、王先生は残念そうな顔をして、メイランが旅行会社にだまされかけ、その相談に来たのだと教えてくれた。厳密にはどのような経緯だったのかわからないが、メイランがこの一件でいやな思いをしてしまったのは確かだろう。年上とはいえ、外国で一人暮らしをしている人間にとって、その国の人間からいやな気持ちにさせられることで感じてしまう心細さは変わらないのだろう。わたしの場合は、幸いなことにそこまでいやな気持ちになったことはなかったが、そんなことがあれば夏休みに帰国して親しい人たちに会うのを心待ちにしていたとしてもわからないことではなかった。

メイランは中国語のほかに日本語も上手だった。大学で第二外国語として学んでいただけだというが、「語学は留学しなければ身につかない」と思い込んでいたわたしにとっては、信じられないほどの衝撃だった。わたしは大学の副専攻として韓国語を勉強していたから韓国語と日本語は文法や語順、助詞などがよく似ていて学びやすいといわれるとことは知っていたが、それでも二年間韓国語を勉強してもほとんど話すことができなかったわたしとは大違いだと思った。外国語を学ぶということに対する姿勢が根本的に違うのかもしれなかった。

ある日、ほかのクラスメートと一緒に学校から帰っているときにメイランが中国語で、

「ジウメイは、韓国語勉強してるんだよね」

と話しかけてきた。〝ジウメイ〟とわたしを呼ぶのは、高級下の担任になった、背がちいさくどことなく丸みのある印象を与える李(リー)小(シァオ)麗(リー)先生がはじめたことだった。小さいころからあだ名で呼ばれることよりも、苗字で呼ばれることが多かったので、初めてその名前を聞いたときには誰のことを言っているのかわからなかった。しかし名前の日本語の音とも、名字の中国語読みとも違う、そして名前の漢字三文字を続けて〝ジウメイズ〟と呼ぶのとは異なる音で呼ばれるのは新鮮に感じられた。最後の「ズ」の音はしっかりと低く抑えて発音されるため重たい感じがしてしまう。それに前期のクラスメートに名前が「子」で終わる日本人の女性が多数いて、わたしもその一人であるにもかかわらず、出席を取るたびに「ヨウチィズ」「ジェンヨウズ」とみな「ズ」で終わってしまうのがおかしかった。おもりのような音がひとつなくなっただけでかわいらしいあだ名のように聞こえることが新鮮だった。

メイランはわたしに韓国語を教えるかわりに、自分の日本語の勉強を手伝ってほしいといった。以前メイランに、韓国語はなかなか単語が覚えられず難しいと話をしたことがあったから、それを覚えていたのだろう。メイランが日本語で書かれた特許に関する法律か条文のような本を音読し、わからない単語の意味やアクセントを説明する代わりに、わたしが大学で使っていた教科書の復習を手伝ってくれるということになった。とは言っても、勉強はあくまでも口実で、メイランと話す機会が増えるのが嬉しかった。法律特有の回りくどい表現や条文の解釈、法律で使われる単語の意味など、法律を専門に学んでいるわけではないわたしに理解できるはずもなかったし、メイランはわたしが法律を専門に学んでいるわけではないということを知っていたはずだったが、それでも互いに教えあおうと言ったのだった。

「久美子さんと勉強ができて嬉しいです」

わたしにとっても韓国語がうまくなるのに越した事はなかったが、日本語でそう話したメイランの手伝いができるかもしれないことのほうがずっと嬉しかった。

もしかしたら、そうやって日本語を学ぶ人の手伝いができるというのは田田のときに感じたのと同じだったのかもしれない。だがあの時と決定的に違うのは、手段と目的が逆転していない気がすることだ。田田のときは、中国語の練習をするために彼女と仲良くしようとして、何かを共有することができなかった。しかし中国語の練習はしたいから、できる限り出かけて付き合おうと思ったし、将来は日本語教師になりたいともおもっているから、できるだけ田田の日本語を助けてあげたいとも思った。だが、語学のために仲良くするのは、わたしにはなにか無理があるような気がした。語学のためだと思ってしまったから、田田のことを日本語の勉強がしたい中国人としてしか受け止められなかった。それは田田のほんの一面を捉えたに過ぎなかったのだろう。またわたしも、中国語を勉強している日本人としてしか田田に接しようとしなかったから、田田に対して接しづらいと感じてしまったのかもしれない。しかし、メイランからはなんとなく近くにいていいような感じをうけた。異国の地で中国語を学ぶという同じ立場におり、その学校のクラスメートという意識にわたしはほっとすることができたのだろう。

お互いに日本語と韓国語の〝語伴〟として、午前中の早い時間に授業が終わる金曜日を利用して三十分ずつ教え合いをすることになった。金曜日の授業は二時間で終わりだったから、一時間勉強すれば、ほかのクラスより一時間早く終わることになり、食堂が混雑する前にお昼ご飯を食べることができた。お互いにお互いの勉強を手伝ったあと、早めの昼食を食べに行くのが金曜日の約束のようになった。

ある日、いつものように金曜日の授業が終わったあと、メイランが今日はわたしの部屋に来ませんかと誘った。いつもはその時間に部屋で寝ているルームメイトが、その日は出かけていていないのだという。彼女のルームメイトは、同じ国の留学生たちと夜通し遊んでばかりで、朝早く帰ってきて、午前中にぐっすり眠り、夕方に起きだして夜にまた出かけていくのだそうだ。明け方帰ってくるときも寝ているメイランに対して申し訳なさそうにそろそろと部屋に入ってくるのではなく、バタバタと帰ってきてシャワーを浴びるから、メイランはあまりよく眠れていないのだとも話してくれた。

ルームメイトとの相性が悪くて苦しむ学生は多く、部屋の交換や他の寮への引越しを申し出る学生もいるという話は聞いたことがあった。しかし、寮はどこも常に部屋が不足している状態で、部屋をうつるのはなかなか難しいのだという。だからクラスメート同士で情報を交換するなど常に情報網を張り巡らせておく必要があるのだという。

メイランの寮に行ってみると、一階にはカウンターがあり、作業着のような制服に身を包んだ女性の服務員が暇そうにしていた。以前わたしの住んでいた十七楼とだいたい同じ光景だったが、十七楼のカウンターに服務員が二、三人いたのに比べると、メイランの寮のカウンターは少し狭いようだった。

メイランの部屋は二人部屋で、机とベッドがひとつずつあった。ドア側がメイランの机で、窓に面した奥側はルームメイトの机だった。部屋は机とベッドを二つずつ置いてもあまり息苦しさを感じないほどの大きさだった。壁は茶色で、机やベッドもこげ茶色をしていて全体的に落ち着けるような色だった。十七楼の部屋は壁も床も白く、机やベッドは明るめの茶色だったから、どことなく落ち着かなかったのだった。

メイランはパソコンを起動して、いろいろな写真を見せてくれた。メイランと旦那さん、メイランの妹さんとその旦那さんと四人でハイキングに出かけたときの写真や、両親と一緒に海外に出かけたときの写真、それにメイランの結婚式の写真だった。ハイキングの写真では、山の風景を背にしてポーズを決めたり、はしゃいでいたりして楽しそうにしている写真が何枚もあった。時々デジカメで撮影したビデオもあり、何を話しているのかはまったくわからなかったが、四人が楽しそうな時間をすごしていることだけはわかった。結婚式の写真はスタジオでの写真撮影の様子から収められていた。

「最近では、結婚のときにアルバムを作るんですよ」

そうやって思い出にするとメイランが言うとおり、かなり厚く化粧をしてポーズを何度も変えながら写真をとる様子が映っていた。それだけではなく、白いドレスや青いドレス、それに韓国の伝統的な民族衣装である〝韓服〟を着て装飾品をつけた写真まであった。一生に一度のこととはいえ、ほとんど一日がかりで思い出を残すのはなんとも大変な作業だろうと思った。スタジオでの撮影が終わると、今度は結婚式の場面だった。暖かい色の照明が照らす部屋の中で、メイランは韓服を着て旦那さんと並んで床に座ってたり、礼をしたりしている写真もあった。韓国の伝統的な儀式なのだという。儀式に臨むメイランの顔は少し緊張して見えた。

「そういえば、ジウメイは写真とったりしないの」

一通り写真を見せてくれたメイランは、今度はわたしにそう尋ねた。わたしはその質問にすぐに答えることができなかった。わたしのパソコンには、日本にいるときにデジカメでとった写真など一枚も入っていなかったからだ。

「うん、とらないんだよね……」

申し訳なくそう言うと、メイランは不思議そうな顔をした。

「そう。なんで?」

メイランはそう言ったが、それ以上とくに気にするような様子ではななかった。

なぜわたしは写真をあまりとらないのだろう。デジカメを持ち歩く習慣はないし、日本にいるときも携帯電話のカメラをあまり使うことはなかった。

小さいころ家族でどこかへ出かけるときは、たいてい父がカメラを持って写真をとってくれた。しかし、そうして他人がとってくれるのに慣れていたせいか、わたしがカメラを持って何かをとることは少ないように思えた。たとえば高校の修学旅行では、ほかの人がクラスメート数人で写真をとろうとするのに便乗するくらいで、自分からクラスメートに声をかけることは少なかったように思う。大学に入って、クラスメート同士で自発的に出かけて遊びに行くことのほうが多くなると、金銭的な問題や時間の余裕などの問題があり、連れ立って遊びに行くことはなかったから、ますます写真をとることは少なくなった。どこかへ誰かとでかけることを好んだなら、カメラを持ち歩いて誰かに見せるために写真を撮ろうと思うようになるのだろうか。いや、どこかへ出かけて写真をとるとしても、とるのはその土地の自然や心引かれた風景しかなかった。素人同然の腕では、心ひかれた風景もカメラにうつすことで印象はやはり少し弱くなってしまう。その風景の中に、訪れた人間がいる写真をとってしまうと、その土地を訪れた人間がその土地でいかに楽しい時間を過ごしたとしても、写真の焦点がその人物たちへと移ってしまう。風景や旅先の人たちは、遊びに行った人物たちが思い出話を語るときの背景になる。風景は人間を通してしか語られないのかもしれないが、それはなんだか奇妙な感じがした。

高級下の学生には、話しやすい学生が多かった。例えば、オーストラリアの学生はメアリーという名前で、年はわたしよりひとつ下だった。背は高く、体格はふっくらしていてとても包容力があり、非常に快活な女性であった。新しいクラスになって間もないのにその快活さをすでに遺憾なく発揮し、高級下の班長を決めるときにはみんなメアリーを推薦した。メアリーはそれを卑屈に断るのでもなく、みんながそういうなら仕方ないといったように受け取っていたようだった。

中国語に「太平洋警察――管的寛」という歇(シェ)後(ホウ)語(ユィ)がある。歇後語というのは要するに掛詞のシャレのようなもので、前半部分と後半部分が何らかのかたちで掛けられている。前半部分しか言わないことが多いようだが、前半部分を言えばそれに何が続くか、共通の理解があるからなのであろう。「太平洋警察」というところから、広大な太平洋を隅々まで巡回する警察を想像することができる。それをある人が手広くものごとに関わっているさまを表すのに使うのである。言われてみれば確かにそうだ、と納得することができる。しかし、ある日、このことわざを授業で学んだとき、メアリーは意外そうな顔をして驚いた。会話の先生が、

「どうしたの?そんなに驚くことがあった?」

と尋ねると、メアリーは笑って、

「太平洋警察って、オーストラリアのことかと思ったんです」

といった。確かに、オーストラリアは広大な太平洋の真ん中に国土をどっしりと構えた国のように見える。だからメアリーがそう考えるのも無理はないのだろう。しかし、わたしはメアリーの話を聞いたとき、この歇後語はオーストラリアという国よりは、メアリーのイメージによくよく合うような気がすると思った。

オーストラリアの学生がクラスメートにいるということに、すこしだけ懐かしさのような親しみのようなものを覚えた。オーストラリアには一度、学校が企画した語学研究に参加して、高校のときに行ったことがあったのだ。そのときは日本から七時間かけて飛行機に乗り、オーストラリア東部のクイーンズランド州の州都であるブリスベンで降りた。わたしたちはブリスベンから南西へ四十キロほどいったところにあるイプスウィッチという町で、三週間ほどオーストラリア人の家に滞在しながら現地の中学校で英語の授業を受けたのだった。

オーストラリアに行ったことがあるという話をメアリーにすると、

「オーストラリアのどこに行ったの」

と聞かれた。イプスウィッチという町がどれほど有名なのか知らなかったが、

「イプスウィッチ」

と言ってみた。すると、メアリーは、

「イプスウィッチ!」

と叫ぶと、顔をほころばせた。

「わたしの家、イプスウィッチから三十キロくらいのところにあるんだ!」

まさかイプスウィッチを知っている日本人がいるなんて、と半ば興奮したように話すメアリーを見て、今度はわたしが驚く番だった。イプスウィッチでの三週間は、初めての外国ということもあり、慣れないこともあったがそれなりに楽しく過ごすことができた。だが、ホストファミリーとしてわたしを迎えてくれた家族とも、現地の中学校でわたしを助けてくれた生徒たちとも英語で話していたはずなのだが、台本を丸暗記して話をしていた気がする。中国語でクラスメートと話しているのとは違い、自分の感じたことを自分のことばで話せていなかったように思う。英語を話さなければならないというプレッシャーが強かったのだろうか。

オーストラリアといえば、高校二年のときに高校へとやってきた留学生のことも思い出す。わたしの高校では毎年海外から交換留学生を迎えていた。交換留学生とはいっても、高校から誰かが海外へと留学していったという話は聞かなかったから、どのようなしくみになっていたのかはわからない。

四月に学年がひとつあがって、始業式の日に新しいクラスの教室に入ったとき、教室には見慣れない人がいた。中学からほとんどの生徒が附属の高校へあがり、高校から新しく入学してくる人もいなかったから、名前は知らなくても同級生のほとんどの顔はわかっていた。そんな中、まったく見知らぬ人が教室にいるのだからひどく驚いた。ましてそのひとは鮮やかな金髪をしていて、いかにも外国人らしい外見であるということに、わたしを始め他のクラスメートも一様に驚いていた。留学生といえば、毎年始業式のときに壇上にのぼらされ、校長先生に紹介されてたどたどしく日本語であいさつをするという印象しかなかった。ときどき廊下や体育館で見かけるようなことはあっても、それ以外にはまったく交流がなく、十二月になると来たときと同じように遠い壇上からすこしあいさつをして帰っていったのだ。だから始業式の前に、教室に留学生らしい人が座っていることは、あまりにも唐突で驚くほかになかったのだ。

彼女は、窓際の一番後ろの席に座っていた。大きい身体を少しだけ狭そうにしながら、机の上に広げたノートに何かを書いていた。わたしは、まだあまりなじみのない同級生たちと一緒に遠巻きに彼女をみつめながら、話しかけるかどうか迷っていた。日本語ができるはずがないし、かといってわたしたちに英語で外国人とコミュニケーションをとる力などあるわけがない。英語研究会に入っていた生徒が話しかけにいこうとしないから、他の生徒もなんとなく話しかけづらそうにしていた。

しかし、日本に来て間もないだろう高校生が、見知らぬ「外国人」の中で話しかけることも話しかけられることもできずにいるのは、きっとつらいことだろう。最初どちらかが恥ずかしがって話そうとしなければ、そのあとはお互いに打ち解けあうことはできないだろう。英語で話しかけて会話が成り立つとは思えなかったが、わたしの下手な英語でも、ひょっとしたら少しくらいは話ができるかもしれないと思って、わたしは彼女に話しかけた。何を話したかはもう覚えていない。たぶん自己紹介をしたのだろう。名前はなんというのか、どこから来たのか、年はいくつか、そんなことを聞くのが精いっぱいだったはずだ。だが、そうして話しかけてくれたことがうれしかったと、まもなくオーストラリアへ帰るという十二月に、彼女はわたしに言ってくれた。当時はそんなものかと受け止めていたが、今ならもう少しそのときの彼女の気持ちがわかる気がする。

高級下の学生にとって一番の楽しみといえるのは、中国国内の都市を訪れて行う「実習」だった。〝実習〟という中国語を辞書で引くと「インターン」という単語が出てくるが、企業を訪問して仕事体験をするわけではない。担任の李先生が言うには、ある都市の名勝地を訪ね歩いてガイドさんの説明をきいたり地元の企業を見学して企業の人に質問したりして、実際に外に出て中国語をつかって中国の文化を理解するらしい。とはいっても、「卒業」を前に学校が手配してくれた旅行に参加してクラスメートと共に数日間をすごし、名産品を食べたりいろいろと話をしたりするというのは、まるで修学旅行のようでさえあった。

実習に出かける前のオリエンテーションに参加するために、わたしたちは授業がおわったあと教一楼のある教室に集められた。教室に入ってみると、高級下の学生のほかに、十数名ほどの留学生が椅子に座っていた。実習に参加するためのオリエンテーションに出るのだから、彼らも実習に参加するのだろう。しかし、彼らはいったいどこで勉強をしているひとたちなのだろうか。高級下はわたしたちのクラスだけだったし、彼らが高級上の学生だとしたら、前学期にわたしたちも実習に参加しているはずだ。よくみると、選択でとっている授業で見たことがある学生が数人いたが、それでも彼らがどのような学生なのかは見当がつかなかった。実習の日程や内容、実習の注意点などの説明を受けた後に、引率の先生について説明があった。実習を引率してくれるのは、わたしたちの担任である李先生と、全体の主任らしき先生、それと専科生の担任の先生だということだった。そこで初めて、十数名の学生は〝専科生〟と呼ばれる学生であることを知った。専科は、二年間かけて専門的な中国語を学ぶコースだということだった。漢語進修学院は一年間のコースで、修了しても学歴としては認められないのに対し、専科は修了すれば日本でいう短大のように学歴として認められるようだった。専科生は二年間の課程のうち一年目は基礎中国語を学び、二年目にそれぞれの専門に沿った内容を履修するが、二年目の専門として〝ビジネス〟〝社会科〟〝観光〟〝秘書〟の四つのコースがあり、それぞれのコースに関係した授業を選択するらしかった。専科生のなかには授業で見たことがある人がいたのは、選択授業が漢語進修学院と共通のものが多かったからなのだろう。彼らの今回の実習での目的は文化に関する内容を学ぶというよりは、実際の企業を見学することに重点があるようだった

実習の行き先は毎学期変わるらしく、今回は安徽省へ実習旅行をするようだった。安徽省は中国華東の北東部に位置し、省南部には揚子江が、北部には淮河が流れている。省の南部には、世界文化遺産である黄山がどっしりと構えている文化背景の豊かな土地だそうだ。古くから、安徽省製の紙と墨は〝宣紙〟〝徽墨〟として、浙江省湖州製の筆や広東省端州製の硯とともに〝文房四宝〟と呼ばれ、上等なものと捉えられていたという。安徽省といえば、歴史の授業で清代に安徽の〝新安商人〟が塩の商売で活躍した、というような事柄を習ったような気がしたが、そのような教科書越しに文字だけで知っていただけの場所へ実際に向かうのだと考えると、なんだか奇妙な感じがした。

今回の実習は七日間だったが、初日と最終日は移動に費やされるようで、実質は五日間だった。安徽省に到着したその日は黄山市内の観光地である徽(ホェイ)州(ジョウ)古(グー)城(チャン)や花(ホァ)山(シャン)迷(ミー)窟(クー)、宋城老街を巡り、三日目には黄山市内の黟(イー)县(シェン)に移動して世界遺産として名高いという西(シー)逓(ディー)、宏(ホン)村(ツン)を散策する。四日目には翡翠谷という谷と安徽省にある「開発区」と縫製工場を見学し、五日目は隣の宣城市で書道の紙を作る工房を見学したあと、そのまま省都の合(ホォ)肥(フェイ)市へ向かい、タイヤを作る工場を見学する。その日は合肥に泊まり、翌日安徽名人館などを見学して、夜中に合肥駅から汽車に乗って北京へ帰るという。どうやら今回の実習では有名な文化的観光地を中心に見学するようだった。それに加えて開発区やタイヤ工場を見学するのは、専科生にとって中国の経済や企業についての理解を深めることが実習の目的だからだという。

十月十五日(初日)

安徽省に向けて出発する日、九時半に大学に集合して、北京駅へと向かうバスに乗り込んだ。荷物は七日間分必要だったが、毎日着替える必要はなさそうだったし、リュックサックにはそれほど多くの荷物を入れることはできなかったので、数日分の衣服とメモ帳、デジタルカメラを詰め込み、初日分の昼食と夕食としてカップラーメンをふたつ押し込んだ。バスに乗る際、専科の先生が学生たちにりんごやバナナをビニール袋にいれて渡してくれた。りんごを丸ごと渡されたが、ナイフを持っていないので、皮をむかずに食べることになると思ったが、あまり気にしてはいけないのだろうと思った。

初日は汽車に乗って安徽省へ移動するだけのようだった。目的地の安徽省・黄山駅まではおよそ千五百三十三キロ、二十時間もかかる長旅である。今まで東京から京都までの三時間程度しか汽車に乗ったことがなかったため、そんなに長い時間長距離列車に乗ることができるか不安だった。

長距離列車の駅である北京駅は非常に大きく、広々とした駅前広場は特に多くの人で混雑していた。よく見てみると、日焼けをしてぱんぱんに膨れたビニール製の大きな袋を持っているひとたちがあちらこちらにいることに気づいた。農村出身なのだろうということはすぐに見て取れたが、地元から北京へ出てきたばかりなのだろうか、それとも地元へと帰る汽車を待っているのか。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。このとき初めて、北京にいて、農村出身だろうと思う人と行きかうことはあっても、農村のことなどまったく知らず、知ろうともしていないことに気づいたのだった。

入り口で荷物のチェックを受けて駅の中に入ると、安徽省へ向かう汽車に乗るホームまで向かうことになった。改札を通り駅のホームに下りると、すでに汽車が止まっていた。駅のホームには臨時の売店が設置されており、カップラーメン、ペットボトルの水、ひまわりの種やピスタチオ、さきイカなどのおつまみ、果物などが売られていた。何も考えずにカップラーメンを持参していたが、よく考えると、汽車の中に給湯設備がついているのか疑問だった。しかし、こうして売店でカップラーメンが売られているのをみると、どうやら給湯設備があるらしかった。

今回、わたしたちは〝硬(イン)卧(ウォ)〟に乗ることになっていた。中国の長距離列車はイス席(座(ズォ))、寝台車(卧)に分かれており、それぞれに「硬」、「軟(ルァン)」があるが、乗車券は硬座が一番安く、軟卧が一番高い。私たちが乗った硬卧はつまり寝台車のうち安いほうということになる。軟卧は開放式の寝台で、一つのコンパートメントに三段のベッドが二つ備え付けられていて、それぞれ下から〝下鋪〟、〝中鋪〟、〝上鋪〟(下段、中段、上段)と呼ばれる。下段のほうが移動に便利だし、ベッドに腰掛けて地面に足をつけることができるため、値段は上段より十元ほど高い。硬卧は、「硬」といってもわりと快適で、ベッドには枕やシーツ、毛布が備え付けられていた。

十二時近くになろうかというころに汽車は北京駅を出発した。安徽省につくのは翌日朝なので、到着するまで退屈しないだろうか少し不安だった。列車の中を見渡すと、北語の人間以外はほとんどが中年の男女ばかりで、それも北京語を話している人はほとんどいないようだった。ヒマワリの種を食べては殻を床にそのまま捨てたり、備え付けの魔法瓶から自分の水筒にお湯を入れてお茶を飲んでいたりする。まるで自分の家にいるかのようにくつろぐ姿に反感を覚えずにはいられなかったが、うらやましくもあった。

昼の時間になると、あちらこちらでカップラーメンを食べる人が見かけられた。わたしも魔法瓶からお湯をもらって食べることにした。お弁当やお菓子、果物を売っているカートが、二人は同時にとおることができそうもない通路を行ったり来たりしている。わたしはメイランと通路の窓際に設置されているイスに並んで腰掛けて、通路の人々の様子を眺めながらラーメンを食べた。

めんはひとしきり食べたが、スープは脂っぽくてあまり好きではない。スープを流してからごみを捨てようと思ったが、ゴミ箱付近にはスープを捨てるところがなかった。洗面台かトイレに流した方がよいかとも思ったものの、もし詰まらせてしまった場合、わたしだけではなくほかの乗客にも迷惑がかかってしまう。

「あの、すみません、カップラーメンのスープはどこに捨てればいいんですか」

ゴミ箱の近くで退屈そうに立っていた服務員にたずねると、黒いゴミ袋を指さして、

「いっしょにその中に捨てて」

と面倒くさそうに答えた。その袋にバナナの皮やヒマワリの殻を捨てている人がいたのは見ていたから、燃えるゴミ用なのだと思っていた。カップラーメンの容器は紙でできているからよいものの、これから多くの人がわたしと同じようにそのまま容器を捨てるとなると、おそろしいことにならないだろうか。わたしは思い切って容器ごと袋の中に投げ捨てて、そのゴミ袋のことはもう考えないことにした。

列車の窓の向こうには、ほとんど木も緑も見えず、一面に乾燥した風景が広がっていた。時々ビルや派手な看板が見えたが、それもごく一瞬のことで、すぐに潰れかけた掘っ立て小屋や枯れた木が点々とするような荒れた土地だけが広がる光景に変わる。延々と続くその光景にも見飽きて、ベッドに横たわると案外疲れていたのかすぐに眠りについてしまった。目を覚ますと窓の外は暗くなっていて、案外長い間眠ってしまっていたことに気づいた。午後十一時ごろ、列車は徐州という駅に停まった。列車はすでに十二時間近く走り続けていたから、北京からかなり遠く離れた土地であるということだけはわかったが、徐州という土地がどのような土地であるか、わたしはわからなかった。だが、新鮮な空気を吸うためにほとんど暗闇のホームに降りた時、長いこと列車に乗って遠いところまで来たことに心が躍っているのを感じた。

十月十六日(二日目)

まぶしさに目を覚ますと、あわただしく身支度をする人々が行き来しているのが見えた。まもなく安徽省・黄山駅に到着するのだろうということは容易に察せられた。わたしも身支度を済ませ、列車が駅に到着するのを待った。黄山駅で下車する客は多く、わたしたちもほかの客と同様に汽車から降りた。

黄山駅は安徽省の真ん中に位置する省都・合肥市から南東へ二六〇キロメートル程度のところにある。駅前から学校が手配してくれたバスに乗り、朝食を食べるホテルに向かった。バイキングで朝食を食べ、再びバスに乗ろうとすると、五人くらいの中年の女性が一斉にわたしたちのほうへやってきた。女性たちは手に白い軍手や地図のようなものを持っており、乗ってきたらしい自転車の前かごにも軍手や地図が積まれていた。一目で観光客を狙った物売りだとわかった。しかし、興味を示さない人間には特に押し付ける様子ではなかったので、わたしは特に気にせずバスに乗り込んだ。しかし、クラスメートの中には買おうか買うまいか迷っている人や、地図を買っている人がおり、わたしは面食らった。地図を片手に持ちバスに乗り込んできた学生になぜそんな地図を買ったのか聞くと、

「今回は黄山に行かないでしょ。せっかくだから地図くらい買ったら行った気になるでしょ」

と地図を広げながら答えた。黄山は黄山駅から北西に四〇キロメートル程度の場所に位置する世界遺産である。美しい峰と雲が織りなす絶景は、安徽省に行くからには是が非でも眺めておく必要があるという。北語の実習でもいくどか黄山に登ったことがあるらしいが、数年前黄山の頂上で北語の教師が心臓発作を起こして亡くなってしまったのだという。そのため、今回の実習では黄山に登ることはせず、他の名勝地を見学するのだそうだ。その地図には黄山の峰の名前や見所について事細かに書かれており、押し売りをうまく利用した楽しみ方もあるのか、と納得した。

この中年の女性たちは自転車に乗りながら、観光バスや外国人らしき人を探しては、こうして地図や手袋を売るのだろう。わたしたちのクラスメートがほとんどバスに乗り込んでしまうと、中年の女性たちは集まって何がどれだけ売れたか互いに話し、自転車に乗って去っていった。

バスに乗ると、わたしたちの一団に付き添って安徽省を案内してくれるというガイドがやってきて自己紹介をした。そのガイドは強(チァン)さんといって、四〇代前半くらいの年齢だろうと推測された。「強」という苗字は初めて聞いたが、中国でも余り多くない苗字だという。ガイドであるからには安徽省出身の人なのだろう、強さんの挨拶は普通話だったが、ところどころ中国の南方の人だとすぐに解るような発音だった。強さんの挨拶は丁寧で、中国語を勉強している留学生たちにもわかりやすいようにと配慮をしていることがよくわかった。しかし、朝食を食べ、少しだけ眠くなったため、あまり挨拶も聞かずに寝ることにした。

最初に訪れたのは黄山市の東に位置する歙(シャア)县(シェン)にある、黄山駅から北東へ二〇キロメートルのところに位置する徽州古城というところだった。安徽省の古い町並みを保存しており、明代の大学士だった許国という人物の美徳をたたえるために作られた許国石坊と呼ばれる石の門があったり教育者の陶(タオ)行(シン)知(ジー)という人物の記念館があったりするなど、安徽省の文化を垣間見ることができる場所のようだった。この陶行知は、毛沢東に偉大な人民教育家と称され、政治家であり文学家でもある郭(かく)沫(まつ)若(じゃく)に「二千年前孔仲尼、二千年後陶行知」と言われるほどの教育者であったらしい。日中戦争のときには、学生や民衆による抗日運動のなかで、民族革命のための教育に励んだようであった。「偉大な人物」と「抗日」が並べられていることに違和感を感じたが、偉大な人物とは、国のためにつくした人物のことを指すこともあるのだろう。

その後、闘山街という、「路地」という言い方が適当であるくらいの幅の道を歩いた。ここには明清代の金持ちや高級官僚の家が残っており、歩きながら安徽省の建築を眺めた。安徽省の建築は美しい彫刻が施されているのが特徴だと事前学習のときに調べたが、道の両端に並ぶ建物のどのあたりにその特徴が見て取れるのかよくわからなかった。おそらく闘山街を案内してくれたガイドが説明してくれたのだろうが、ガイドの説明に耳を傾けるより、路地の両側に延々と続く安徽建築の家を眺めながら、道に面している幼稚園の子どもたちに手を振ったり、「大衆理髪店」と手書きで書かれたベニヤ板の看板や「五好家庭」「共産党戸」というブリキの小さな表札を眺めたりして、生活を垣間見るほうがおもしろかった。ほとんど完璧な普通話でガイドをしているガイドさんが、道端でおばさんや他のガイドと二言三言交わすあいさつが全く聞き取れない安徽語であったことに驚いてみたり、家の窓ぎわに干してある小さな靴の写真を撮ってみたりするほうが、率直に楽しむことができる気がした。

花山迷窟という洞窟を見学しおわったときには、すでに夕方になっていた。夕食を食べたあと、宋代の街に似せて作ったという宋城老街を散策した。市の中心部に位置するこの商店街は全長八〇〇メートル、幅は八メートル程度で、道の両側に二階建ての建物が並んでいる。建物の一階部分には硯や筆などの文房四宝、木彫りの手工芸品、外国人向けなのか漢字が書かれたTシャツなどが売られていた。店の奥や二階は住居になっているらしく、高そうな硯を売っている店の奥に三輪車が置いてあったり、子どもが風船で遊んでいたりして、生活を垣間見ることができるのにほっとすることができた。

ここで一時間ほど自由行動の時間が与えられたので、高級下の七人はマッサージへと行くことにした。土産物屋や安徽省の町並みはさんざん見たし、二十時間も汽車に乗ったうえに一日中歩き回ってくたくただったので、疲れをとるのが一番だという考えになったのだ。

適当なマッサージ屋に行くと、七人という団体だったからか、マッサージ用のいすが十五脚も並べられ、テレビが備え付けられたかなり広い部屋に通され、マッサージを受けることになった。しかし、部屋にやってきたマッサージ師は六人で、一人はまだ他のところにかかっているようだった。メアリーが「わたしは後でいいよ。みんなを待たせることになると思うけど、先にやってもらいなよ」と仕方なさそうに言ったので、ほかの六人はそのことばに甘えて先にマッサージをしてもらうことにした。

まず、ふかふかしたマッサージ用のイスに座らされ、足を小さな浴槽に入れてそこに温かいお湯と漢方のオイルのようなものを入れてしばらく足をひたす。なんの漢方なのか、あるいは漢方ではないのかよくわからなかったが、一日の疲れがゆっくりと溶け出していくようで心地よい。マッサージ師はみな若く、わたしと同じか、それよりも若いようだった。いつもの通り、中国語を勉強している外国人として振る舞い、中国語でお決まりの会話をした。

しばらくすると、メアリーの担当となるマッサージ師が来た。メアリーの足を湯にひたしながら、その青年は、

〝Where are you from?(どこか来たんですか)〟

と尋ねた。メアリーはそれを聞いて、

〝我们是从北京来的(わたしたちは北京から来ました)。〟

と中国語で答えた。少しだけあきれているようにも見えた。

青年は大学で英語を勉強しているのか、しきりに英語で話したがっているようだった。その青年は、きっとメアリーに〝I am from Australia.(オーストラリアから来ました)〟とでも答えてほしかったのだろうが、メアリーは英語をあえて話そうとせず、中国語で会話をつづけようとした。そのやりとりを見て、わたしが勉強したことばを話してみたくなるように、青年も勉強した英語を使ってみたくなったのだろうということは察せられた。だが、わたしはメアリーの気持ちのほうがわかるような気がした。

マッサージが終わり、メアリーは待たされた分をしっかり値切って、わたしたちはホテルへと歩いて戻った。体はマッサージのおかげでずいぶんと軽くなったように感じられたが、さきほどのメアリーと青年のやり取りのせいで気はあまり晴れなかった。

「中国語を勉強していて、中国語がわかるのに、どうして英語で話しかけられなければならないんだろう」

ホテルの部屋に戻って、メアリーはそう言った。

「西洋人がみんな英語できるわけじゃないのに、どうして英語なのだろう」

メアリーが感じていることは、わたしにも思い当たる節があった。日本人だからと言ってなぜ日本語で話しかけられなくてはいけないのだろう。ただ、わたしとメアリーのあいだには、大きな違いがあることも間違いなかった。わたしは黒髪で濃茶の瞳をし、鼻も低くてはっきりとした顔ではないから、中国人とほとんど変わりはない。むしろ中国にいて「日本人か?」と聞かれたことはほぼ皆無に等しい。それに対してメアリーは肌が白く、褐色の髪をしていたから、一目見ただけで西洋人だと思われて、英語で話しかけられてしまう。人を見た目で判断してはいけないと言うが、気づかないうちに見た目で判断してしまうことがある。彼女は、見た目で「外国人」扱いされてしまうことが嫌だったのだろう。だが、一目見ただけで「この人は外国人である」という判断は、見た目だけで行われてしまうことがしばしばある。

メアリーの話を聞いて、わたし自身が体験したことを思い出した。五月のある日、中国人の学生と道を歩いていると、向こうから背の高い男の人がやってきた。金髪だか茶髪だかよくわからなかったが、非常に明るい髪の色をしている。瞳の色素も薄く、顔の彫りは深く、いかにも白色人種であった。彼がわたしたちの横を通り過ぎると、わたしたちはいっしょに彼のほうを振り返り、颯爽と歩き去っていく彼の背中を見送った。中国人の学生は、彼を見て、わたしのほうに向きなおると、「外国人だったね」と口にした。わたしは驚いた。なぜなら、日本人であるわたしも彼女にとっては外国人であり、そのことばを外国人であるわたしに向かって言うのは何か奇妙な感じがしたからだ。

よく考えてみると、その学生は見た目から判断して「外国人」と言ったのであって、国籍の違いから判断したのではなかった。わたしは海外に出て「外国人」になったつもりだったが、「外国人」ということばは、単純に国籍を指すのではないのだろう。見た目が違うということは、目に見えている分、時としてこれ以上ない違いになりかねないのだ。

メアリーはさらに、「中国人に中国語を話したときに返ってくる反応が好きじゃない」と言った。メアリーによると、中国人に中国語を話したときの返答の仕方が二パターンあり、その一つ目はまったくわからないというそぶりをされるのだという。これはわたしにも経験があった。ルームメイトのユミコさんと出かけたとき、途中で目的地が見つからずに迷子になったので道の脇にあったこじんまりとした商店で道を聞くことにした。ところが、それまでわたしと日本語で話していたユミコさんが一言中国語を話しただけで、わからないと逃げるようにあしらわれてしまった。それも、わたしたちの言う場所がどこなのかわからないのではなく、わたしたちが言うことばがわからないというあしらい方なのである。確かに中国語で生活している彼らに比べたら、わたしたちの中国語はお世辞にも上手いとは言えない。だが、彼らの態度はまるで宇宙人にでも遭遇したかのようで、気味の悪いものを追い払うかのようだった。あまりに腹が立ったので、ユミコさんは、

「中国語を話してるんですけれどね。あなた中国人なのにそんなこともわからないの?」

と吐き捨てて出てきてしまった。「外国人が中国語を話すわけがない」とでも思われたのかもしれないが、そばで聞いていたわたしもまったく同感だった。

もう一つのパターンは、「中国語がうまい」とほめるのだという。たしかに、一生懸命勉強している中国語をほめてもらうことはうれしいことであり、とくに問題はないかのように思える。しかし、中国人が中国人に向かって「あなたの中国語は上手ね」というだろうか。文学的表現に長けているとか理路整然とした中国語を使えるというのではなく、少し挨拶をし、どうして中国にいるのかを説明しただけで「上手だね」というだろうか。一つ目のパターンとおなじように「外国人なのだから中国語が話せるわけがない」という考えがないとは否定できないだろう。もちろん純粋に努力をほめてくれる人もいるし、悪気があっていっているのではないということもわかっている。だが、自分がうまく中国語を操れずもどかしさを感じていることも、自分自身よくわかっている。当の本人がそんな心持ちでいるのに、「上手だね」とほめられたところで、まぐれをほめられているような気がして非常に気持ちが悪い。だから、そう言われた場合には「ありがとう」と笑顔で返して流すことにした。「そんなことないですよ」と謙遜することが日本人の美徳である、相手のお世辞を真に受けてお礼を言うのは謙虚ではないと言われたこともあったが、〝日本人の美徳〟という伝家の宝刀ですべてを片付けられてしまうのはなんだかずるい気がした。

十月十七日(三日目)

三日目はバスに乗り、西逓という小さな村へと向かった。ここは二〇〇〇年に世界文化遺産に指定された、一〇〇軒強もの明清の建築が完全に残っている集落である。昔、唐の王室の末裔が変乱から逃れ、この地に移り住んだというが、その際に〝胡〟と名字を変えたらしい。西逓に住むのはすべて胡さんなのだという。ここもやはり石の彫刻やレンガ彫刻、木工彫刻が施された典型的な安徽省建築だとガイドは教えてくれた。だが、西逓では何軒か実際に家屋の中に入れるようになっており、彫刻が部屋のあちこちにも施されていることに気づいた。家の屋根には穴が空いていて、光を取り込むのに使うという。電灯はともっておらず、屋根に開いている四角形の穴から差し込む外の明かりが明清時代の木造建築の落ち着いた色合いになじんている。西逓という親戚たちだけが集まって暮らしている村は、白い外壁に黒い瓦屋根という家々が路地の脇に並んでいて、世界遺産に登録された価値はここに流れるゆっくりとした時間にあるのかもしれないと考えてしまうほどだった。

西逓を散策した後、西逓と同時に世界文化遺産に登録された宏村に向かった。村の中を川が静かに流れているのは西逓と似ていたが、宏村ではなかに立ち入るために橋を渡っていかなくてはいけなかった。宏村から川を挟んだ反対側の岸は、多くの美術学校の学生が宏村と川にゆらめく像を写生していた。静かに流れる川に映る宏村の外塀が美しく、思わずデジタルカメラで写してしまった。撮れた画像をすぐに確認したが、眼の前に広がる静かな風景とは違い、なんだかぎこちなく見えた。宏村の中央には「月沼」と呼ばれる半月型の小さな湖があり、その湖の周りでも多くのが区政が写生をしていた。わたしたちはその月沼を背景にして、記念写真を撮ることにした。専科の先生はカバンの中から北語の緑色の旗を取り出して広げ、前の列に並んだ学生たちに持たせた。大学の旗などあるとは知らなかったし、日本にいた時も大学の旗を広げて写真を撮るようなことはなかったが、自然と誇らしく思うことができた。

夕食を食べた後、誰からともなく西逓へ散歩に行こうという話になった。何かあっては危ないというのか、強さんが連れていってくれた。街灯がまったくない夜道を、星を眺めながら歩いた。その星空は空気がきれいとは言えない北京ではほとんど見たことがないものだった。西逓では、観光スポットとなっている村の内部は閉まっていたが、まだ営業している店があり、そこを覗いていくことにした。その店は土産屋にありがちな中国らしいTシャツや小物を扱っていた。店員は、夜中に大勢の外国人がやってきたので驚いたようであったが、専科の韓国人の学生に「いらっしゃいませ」と「こんにちは」は韓国語で何というのか尋ねていた。専科の学生はそれに応じて、ガラスのショーケースに寄り掛かりながら紙に書きながら説明していた。店員は新しい事柄を知るのが楽しいのか、専科の学生の中国語を聞きながら、メモを取っているようだった。その表情からは、今後店に来るだろう観光客に対して使って金儲けに役立とうと思っているだけではないのだろうという気がした。

十月十八日(四日目)

四日目は、翡翠谷という渓谷を散策し、エメラルドグリーンに輝く水を楽しんだあと、バスに乗って「開発区」というところに連れて行かれた。バスの窓から見える開発区の様子は、先ほどまでの青々とした緑の谷とは違って、殺風景な風景だった。恰幅の良い男性が笑顔で出迎えてくれ、わたしたちは会議室のような場所に通された。会議室には、すでに数人の人間がおり、開発区についてわたしたちに対してあれこれと説明した。留学生だということに対して的確な配慮がなされていなかったためか、あまりよくわからない説明だったが、開発区とは要するに改革開放の一環として、一九八四年に指定された対外経済開発区のことらしい。安徽省の経済を支える中心なのだろうと推測した。

「国に帰って偉くなったら、ぜひうちに工場を作ってくださいね」

説明を終えた男性は、留学生であるわたしたちに対してそう言った。わたしにはあまりピンと来なかったが、中国とのビジネスを行うために専科でビジネス中国語を学んでいる学生も当然いるのだろう。留学生の見学を受け入れた開発区側にも、この開発区を留学生が投資先として選んでくれるように宣伝をするという意図があったのかもしれない。

その後、再びバスに乗り、工場の前で降ろされた。開発区自体とても広いため、この工場が開発区の中にあるのか、それともそうではないのか見当がつかなかった。案内されたのは洋服工場だった。工場の中に入り、まず目についたのは小さな体育館ほどの大きさはあろうかという部屋に整然と並べられていたおびただしい数のミシンだった。そのミシンはひとりに一台与えられ、どの従業員も何も言わず黙々とミシンを動かしていた。外国人の群れであるわたしたちがその間を通ろうと、ミシンの周りに散らかっている端切れを拾ってみようと、作業している手元をじっと見つめようと、われ関せずとばかりに作業に集中していた。作業中に愛想を振りまくことを不真面目だと思っているわけではなく、何も考えず機械のように作業に没頭することを優先させているようだった。工場ができたことで働き口が見つかり、生活が助かっている人がほとんどなのかもしれない。しかし、一心不乱にミシンを使う女性たちの表情に北京で見かけた若者の死んだような顔つきを思い出した。

彼女たちが一心不乱に作っているのはまさにイメージ上の「メイド・イン・チャイナ」の服だった。生地を手に取ってみると非常に頼りなく、伸ばしてみるとすぐにくたっとしてしまうようなものだった。縫い方もあまり正確ではなく、縫い終わった後の糸の処理も適当であった。おそらく、北京の街の違法市場で安く売られている大量の服はこのようなところで作られているのだろう。なんともいえない恐ろしい空間であるような気がした。

十月十九日(五日目)

五日目はバスに乗り、宣城市へと向かった。バスではわたしの隣が空いていて、そこに最後にバスに乗りこんだ強さんが乗ってきた。数日前から、強さんはガイド席に座らずに学生の隣に座っては、学生とあれこれ話をしているようだった。強さんはわたしと目をあわせると、

「お名前はなんですか」

と質問した。安徽省の方言の影響を受けた発音を聞き取れるか不安を抱いていたが、強さんはできるだけ標準に話そうとしてくれているようで、問題なく聞き取ることができた。名を名乗ると、名前から日本出身だということがわかったらしく、「日本の車は優秀ですね!」と嬉しそうに語りかけてきた。世界の中で日本の車は一番性能が良く、昔だったら収入が良ければ迷わず日本の車を買っていたと話してくれた。そして日本の電化製品も同様に素晴らしいと強さんは主張した。おそらく半分以上は本心からそういっているのだろうが、日本人であるわたしに対して、ある程度話題になりそうなことを挙げてくれたのだと思う。

強さんは三十六歳で、子どもは一人っ子政策のためにひとりだけしかいないという。

「強さんのご両親の代の人たちは、日本のことをどう思っていますか」

返事に怯えながらそんな質問をすると、強さんは少しだけ声のトーンを落として、

「好きではありませんね。もちろんすべての人がそうだとは思いませんが」

と言った。いくらかの配慮をしながら率直に質問に答えようとする態度は好ましく感じられた。

強さんは、ガイドとして非常にまじめに仕事に取り組んでいるように見えた。バスの中でマイクを用いて全体に向けて話をするときは意識的にゆっくりと話し、発言ごとに学生の顔を見渡して、学生がわからなそうにしているときには単語や表現をわかりやすく変えながら言い直した。外国人だから中国語がわかるはずがないとたかをくくるのではなく、客が安徽省の旅行をすこしでも楽しめるように配慮をしているのだとわかった。

書道の紙をつくる工房を見学したあと、バスにゆられて合肥へと向かった。バスのまわりがまぶしい信号機やチェーン店の看板に彩られるようになったあたりで急にバスが止まり、若い女性が一人乗り込んできた。その女性は強さんからマイクを受け取ると、

「みなさんこんにちは。わたしは合肥市内のガイドです。合肥はわたしが案内します」

と言った。合肥市内のガイドとはどういうことか一瞬理解できなかったが、今まで西逓や宏村で案内をしてくれたガイドがそれぞれいたのと同じことなのだろうと納得した。

バスは合肥市内を走り、そのまま到着したのはタイヤの工場だった。まず、長机が整然と並び、壁にスクリーンが掛けられている大きめの会議室のような部屋に通された。机にはペットボトルの水と資料が置かれていた。そのように準備が周到になされていたのは開発区を見学したときにもないことだったから面食らわずにはいられなかった。その企業で働く社員らしき人が工場と企業についてパワーポイントを用いて普通話で説明してくれた。しかし、北京の大学を出たというその社員の丁寧な説明にも関わらず、わからない単語が多くて説明を理解することはできなかった。質疑応答の時間に数人の専科生とメアリーが少し質問をしたあと、工場のほうへと案内された。担任の李先生は他の先生方と「発音はあまり標準ではなかったですね」という話をしていた。教師という職業柄、学生にできるだけ正確な発音を聞かせたいと思うからなのか、それとも李先生は北京出身で、そのような人間にとって安徽省の地元のことばの訛りがまじった普通話がどうしても気になってしまうからなのか判断しかねた。

社員に連れて行かれて先程までいた建物から少し歩いたところにあった工場に入ると、いくつもの大きな機械が作動している轟音とゴムの強烈な臭気が一瞬にして感覚を覆った。みな顔をしかめながら工場の様子を見学するために内部へと歩を進めていった。騒音には徐々に慣れていったが、呼吸をするたびに身体のなかに臭気の粒が入ってくるように感じられるほど、衛生環境は良くなさそうだった。工員たちはマスクをしていなかったから、身体に害はないのかもしれないが、それでもあまりの異臭にできるだけ呼吸をしないようにしようと思わずにはいられなかった。

その日の夕食は合肥市内のホテルでとることになっていたらしく、とりとめもない会話をしながらバスがホテルへ到着するのを待っていた。しかし、バスは一向に目的地へ到着する気配を見せない。時計を見ると工場を出発してからすでに一時間以上たっていた。運転席の近くで若いガイドが慌てた様子で運転手となにか話をしているのが席から見えた。李先生や専科の先生はうしろからガイドに何か文句を言っているようだった。その状況にほかの学生たちも気付き始め、身を乗り出してあたりの学生と話をしだしている。どうやら道に迷ってしまったようだった。すっかり暗くなってしまった町をバスは右に左に曲がっていたが、ただやみくもに走っているようにしか感じられなかった。若いガイドは不満そうな表情を浮かべており、それを見てクラスメートや先生は空腹のためかすこしずつ気が短くなっているようだったが、しまいには不満を漏らす元気すらなくなっていったようだった。

そのとき、バスが急に止まり、誰かが外へ飛び出していった。バスの前に立ち、携帯電話で誰かと話しだしたのは、強さんだった。強さんは電話を終えるとタクシーを拾ってそのまま走り出した。ホテルまで先導するつもりなのだろう。バスはタクシーのあとを追って走り出した。学生たちは急に元気を取り戻し、きっと大丈夫だろうという確信を持った。強さんという導きが先を走るだけで、あてもなくさまようだけだったバスが急に導きを得て走り出したように感じられた。

十分ほど走ると、バスは目的のホテルについたようだった。わたしたちはタクシーを降りてホテルの電灯に照らされ暗闇にぼんやりと見える強さんに拍手と歓声を送った。無事に食事の席に着き、大分遅くなってしまった夕食を始める前に若いガイドが道に迷ってしまったことを謝罪しに来た。しかしその表情はどことなく不服そうに見えた。もしかしたら、道に迷ってしまい仕事を全うすることができずに他人に迷惑をかけてしまったことを気にしているが、かといって犯したミスを自分で認めることができなかったがゆえの表情だったのかもしれない。しかし、強さんがなりふり構わずになんとかしようと行動した姿を目の当たりにした後では、不満げな面持ちで客の前に立ってしまう若いガイドの謝罪を寛容に受け取ることはためらわれた。

十月二十日(六日目)

翌日は、安徽省実習の最終日だった。この日は、中国で非常に有名な北宋時代の名臣で政治家である包(バオ)拯(ジョン)を祀った包公祠、安徽省由来の書籍や文物を展示した安徽名人館を見学した。包公祠は包河公園という公園のなかにあり、少しだけ自由時間をもらうことができた。公園のなかには大きな湖があり、メアリーや専科生、日本人学生の数人はボートに乗ってはしゃいでいた。

わたしはメイランと公園を散歩することにした。すると、木陰に座りながら電話をしている強さんに出会った。強さんは電話を終えるとわたしたちに気づいたようで、こちらへと歩み寄った。

「昨日はほんとうにありがとうございました。とてもかっこよかったです」

とわたしが言うと、強さんは照れたようなそぶりを見せたが、

「いやあ、わたしはガイドですから」

とはっきり言った。ガイドという仕事をしているひとにとって、中国語が通じにくい外国人学習者であっても客であることには変わらないのだろう。強さんにとって、いらついた素振りひとつ見せずに躊躇なくバスから飛び出したあの行動は、ガイドとしての仕事をしたにすぎないのだろう。あのとき不服そうな顔を見せた若いガイドとの違いを挙げるとするならば、ガイドとしての経験をどれだけ積んでいるかということ、そしてガイドとしてどれだけの仕事ができるかということになるのだろう。強さんが若いガイドについて「まだまだ若いですから」とだけ言ったときに、親のように優しげな表情を浮かべたのは、ガイドとしての親心であるように見えた。

強さんが財布から何かを取り出してわたしたちのほうへ差し出した。

「また安徽省に来るようなことがあれば、ぜひ連絡してください」

それを受け取って見てみるとそれは名刺だった。名刺には会社名と強さんの名前が書いてあった。強さんと呼んでいたガイドが〝強光生〟という名前であることを今まで知らなかったことに初めて気がついた。もちろん、またうちの会社をごひいきに、という意味も込められているのだろうが、わたしには安徽省に心強い知り合いができたように感じられた。

午後八時ごろ、合肥駅までバスで向かい、強さんと別れることになった。高級下のクラスメートも、専科の学生たちも、ガイドとして熱心に働いてくれた強さんにおしみない拍手を送った。拍手されたり歓声を送られたりすることに慣れていないのか、強さんは少し照れたそぶりを見せたが、バスのマイクを手にとり挨拶をした。やはり安徽省の発音の雰囲気が感じられる普通話だったが、この数日間ずっと聞いていたせいか、名残惜しく感じられた。挨拶を終えると、バスのなかの学生は再び惜しみなく拍手と歓声を送った。「強导,好棒!」ガイドの強さん、素晴らしい! と誰かが叫んだが、それはバスの中全員の気持ちだったに違いない。


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