北京留学記:難忘北京

二〇〇八年八月八日、北京オリンピックの開幕式をわたしはテレビで見ていた。つい半年前まで暮らしていた場所は、念願のオリンピック開催に活気付いていることだろう。あるいは、外国人に見せてしまうと現代化した町の面子が失われてしまうような部分がきれいさっぱり覆い隠されてしまい、無機質な町に変わってしまっているのかもしれない。

わたしは、ほんとうにあの場所にいたのだろうか。気づいたら、あの時間は夢か幻だったのではないかと感じてしまうことがあるのに気づく。あの時間はきっと妄想が生み出した幻で、夏の夜の夢を一年間もあったかのように記憶しているだけなのかもしれない。本当に一年間あったのかもしれないが、わたしの生活自体が目覚めることのない夢の中での暮らしだったのかもしれない。

確かにわたしは一年間北京にいたし、身の回りにもそれを示すさまざまな物はある。それにもかかわらず、日本に帰ってきてからのわたしの生活は、一年の時間を無視してしまうくらい、驚くほど変わらない。あの一年分の時間は、例えば厚いノートからページを一枚だけ破りとってしまっても大して変わらないように、また人ごみの中からわたし一人が消えてしまったとしても、人ごみは依然として存在しているように、些細なもののように感じられた。

わたしは、あの一年間を失くしてよいものにしか考えていないのだろうか。失ったところで一年間の前と後ろをつなげてしまえば何の問題も起こらないだろうとしか考えていないのだろうか。

失いたくはない。失っていいはずはないのだ。疑いなく存在していた一年間を、簡単に感覚から消し去ってしまっていいはずはない。ことばがうまく通じない世界で途方にくれ、授業ではへたな中国語を笑われるのが怖くて震えて発言していた。その一方で、中国語が好きになっていったのも事実だし、たくさんの人に出会えたのも事実なのだ。あの一年の中で、わたしは必死だった。間違いなくあの一年のあとの時間を過ごしているはずのわたしが、わたしを忘れていいはずがないのだ。

わたしは、ほとんど衝動的に、ふたたび北京に向かうことにした。何をしにいくのだろうと自問したところで、確信的な答えは見つからない。息苦しい学校生活から逃げ出して海外へ逃亡したいのだろうか。それとも、第二の故郷へ里帰りをしたいのだろうか。北京で出会った人たちに会いに行きたいのだろうか。思いっきり中国語をしゃべりに行きたいのだろうか。どれを理由にするのもみっともない気がして、情けなさを覚える。大学でしなければならない勉強はたくさんあるだろうと言われてしまったら、なにも言うことができない。不安な気持ちを抱えながらも、もどかしさから逃れるためには北京へ行ってしまうしかないのだろうとあきらめてもいた。

九月の末、五日間の予定で北京へ行くことにした。出発はあいにくの雨だった。わたしは、空港のロビーで北京へ向かう飛行機を待っている間、一年間の留学を始めたときのことを思い出していた。一年半前は、ただ不安でしかなかった。なにが必要なのかすらわからずに、荷造りすら親に手伝ってもらった。日本食や生活用品など、必要そうなものは片っ端からトランクにつめた。トランクはパンパンに膨れ、制限重量を三キロもオーバーしてしまっていた。出発の飛行機が朝早く、前日は空港近くのホテルに泊まった。母も付き添い、心配して最後まで着いてきた。出発ロビーで別れるときも、いつまでも名残惜しそうにしていた。わたしは平気そうに振舞っていたが、一年間を異国で、それもひとりきりで過ごせるかわからず、おびえながら飛行機に乗り込んだ。しかし、今回はずいぶんと気楽だった。北京は私にとって第二の故郷になっていたから、慣れているところへ帰るようなものだった。日程も一週間ほどの短いものだし、好きなように過ごせばよかった。着替えとパソコン、パスポートに飛行機のチケットだけだった。北京の空港に着いたとき、窓から見た夕陽に言いようのないもの寂しさとごまかしきれない不安を感じたときに比べれば、きっと大きな進歩である。

北京に着いたのは夜中だった。スーザンが空港まで迎えに来てくれることになっていた。夜中にタクシーを拾うのはできるだけ避けたかったから、非常に助かった。国際便の出口を出ると、スーザンがわたしに気づき、笑顔で手を振った。

「ジウメイズ!」

そう呼ばれ、すぐに駆け寄りたかったが、空港の柵が邪魔をする。柵の出口へと走り、再開を果たした。スーザンとともに旦那さんも来てくれていた。寡黙な人だが、不動産会社へ乗り込むときにも付いてきてくれた。スーザンとは、北京にいた最後の日に別れて以来だから、会うのは半年ぶりだった。帰国後、大学の教育実習で日本語を教えに上海へ行ったときに電話をしたから、話をするのは四カ月ぶりだった。ずいぶん長いこと会っていなかったような気がするが、たったの半年にすぎないのだった。

スーザンと旦那さんのあとについて、オリンピックはどうだったとか、最近何をしていたとか、お互いの半年を埋めるような話をしながら空港の駐車場へ向かった。スーザンが車を持っていたとは知らなかった。どうやら最近買ったばかりだということだった。車の中では自然と日本の自動車の話になったが、自動車のことはほとんどわからないため、曖昧な返事しかできなかった。

車の中から眺める街は、本当に北京なのだろうか。暗闇に包まれた高速道路の景色は、半年前に帰国したときと何一つ変わらないように見えたし、半年前の記憶が今に繋がる気がしたが、一方で、土地を移動したという感覚が湧いてこない。数時間前まで日本にいて、北京にやってきたはずだった。わたしは本当に北京に来たのだろうか。日本での感覚と北京での感覚が、わたしの中で一体化しているらしい。

その思いは五道口に近づくにつれ、強まっていった。最後の日に行った喫茶店、あまり品揃えのよくないコンビニエンスストア、しばしばユミコさんと朝食のパンを買った韓国資本のパン屋、ファストフード店。半年前と何も変わっていない。五道口の町並みは半年という時間を感じさせないほど身体になじんだ。昨日も五道口にいて、その延長上にある変わらぬ今日を過ごしているように感じられた。まるで、ぽっかりと空いたパズルの最後の一ピースがぴったりはまる音を聞いた気がした。五道口の景色は、半年前に別れたときと全く変わらずわたしを迎えてくれた。半年間、わたしはこの景色を求めていたのだ。

しかし一方で、そのように感じることへの疑問も感じずにはいられなかった。わたしはもはや留学生ではない。留学していたときの仲間はもうほとんど北京にいない。足りない感覚を求めているのは、ただ昔を懐かしく思っているだけなのではないか。留学生活をやり直すことはできないのだし、あの一年弱を再現しようとしても無駄である。それはわかっているはずなのに、この景色に何があるというのだろう。一体何がわたしをひきつけるのだろう。

わたしは何のために北京へ来たのだろう。

翌日、わたしは派出所へと向かった。ユミコさんと部屋を借りたばかりのころ、派出所への登録を二十四時間以内に済ませなければならないことを知らなかったときのことを思い出したからだ。あの時は始末書一枚で済んだが、再度同じことをすれば高額な罰金を取られかねない。スーザンは、

「臨時登録なんてしなくても大丈夫よ。オリンピックでだいぶゆるくなったから」

と言うが、それでも不安なのには変わりがない。まさか再び面倒なことにはなるまいと思いつつ、派出所を訪れた。

あの時と同じおじさんに話しかけたが、自分の住んでいる場所の住所がわからずに突き返されてしまった。調べたとしても、やはり大家がいなければ登録することはできないという。予想が的中したことに内心落ち込みはしたが、仕方がないから、スーザンのところへ向かうことにした。

わたしの話を聞くと、スーザンは派出所に電話をかけた。

「劉さん? さっきジウメイズっていう女の子がそっちに行かなかった? これから行く子はわたしのところに住んでるから、登録しておいてね」

そう言って電話を切ると、これで大丈夫とばかりに派出所へ行くよう促した。半信半疑で再び派出所を訪れると、何事もなかったかのようにあっさりと登録してもらうことができた。一年前は、外国人が部屋を借りて住んだため、契約書とパスポート、それに大家の付き添いが必要だったが、今回はそうではなく、友人の家に住むという扱いになったらしい。友人の家に住むときはパスポートを提示すれば登録してもらえるようだった。

登録が済み、北語へ向かおうと五道口を歩いていると、駅前の様子が大きく変わっているのに気がついた。駅前にあった売店が跡形もなく撤去され、代わりに今まで雑然としていたバス乗り場が整備されていた。歩道と一体になっていたために、バスが来るときには混雑していたが、それを解消するためか車道寄りの場所にバス乗り場専用の場所ができていた。以前は有人窓口だった電車の切符販売所は、近未来的な自動券売機へと様変わりしていた。スロットマシーンかと見間違うかのような銀色の券売機にどことなく居心地の悪さを感じてしまった。高架駅である駅の真下を通る長距離列車や貨車のための踏み切りは、以前は常駐していた駅員が主導で動かしていたもので、木造の古ぼけた遮断機であったが、白く塗られた柵が横にスライドして開閉するものに変わっていた。何よりも変わったのは、華清嘉園の北側にある歩道に常にずらっと並んでいた小攤が見る影もなくなっていたことだった。確かに、北京に来たばかりのころに比べれば、半年前に見た小攤の数は決して多くなかった。しかし今度は、道が驚くほどがらんとしており、小攤がかつて店を開いていたことすら微塵も感じさせず、道幅は以前の倍以上の広さに感じられた。今までは人々が法律などさして気にもせずに商売をすることができたのだろうが、北京五輪の開催に合わせて取り締まりが強化されたのだろう。街の秩序を守り、景観を損なわないようにするという思惑はもっともであるとは言え、影響は思いがけなく大きいということを思い知らされた。

半年ぶりに訪れる北語は、ほとんど変わっていないように見えた。だが、それでも「オリンピック・パラリンピック選手乗車口」と書かれた看板がいたるところに見られた。選手の宿舎が近くに作られたのか、それとも北語でなにか競技が行われたのかは知らなかったが、半年前には当然ながら見られないものだった。北京にいたときは北語とオリンピックとは何も関係がないと思っていたから、Beijing2008と書かれた看板が北語の構内にあることに違和感を覚えた。

変化が見られた北語を後にして華清嘉園へと帰ろうと思い、北語を出ようとしたが、すれ違った人たちから韓国語訛りの中国語が聞こえてきた。聞きなれたその音で、韓国人留学生であることがすぐわかった。五道口は韓国人が多く住んでおり、ハングルで書かれた中国語学校の広告を見ることも少なくなかった。北語にも韓国人留学生は多くいたから、独特のイントネーションがついた中国語はずいぶん聞きなれたものだった。だが、クラスメートらしいその留学生たちの様子を見て、わたしはもう北語の留学生の中にはいないということを思い知った。半年前のわたしと、今のわたしは違うのだ。日本に帰ってから大学に復帰し、以前働いていたアルバイトにも復帰し、もとの暮らしがそっくりそのまま始まってしまっていた。北京にやってきても、留学生として暮らしていたときに見ていた景色とは違うものが見えるだけだった。

華清嘉園に戻り、かつてユミコさんやダンダンたちと住んでいた建物の下まで歩いた。もし鍵を持ってきたら部屋に入ることができたのかもしれないが、それは不法侵入になってしまう。ましてや新しく人が住んでいたら、錠前は新しいものに変えられているだろう。

ペットボトルの水を買おうと思い、近くの小さな売店に立ち寄ったが、売店のおばさんはわたしの顔を見るなり、

「しばらく見なかったわね。引越しでもしたの?」

と言った。わたしは耳を疑った。

たしかに、八月にユミコさんの部屋へ転がり込んでから一月末に帰国するまで、果物や干し柿を買ったり水を買ったりとこの売店をよく利用した。ものを買うときに二言三言交わすことはあったが、さほど親しく話した記憶はなかった。しかし、思いがけずわたしのことを覚えていてくれたのだった。

「いや、引越しではなくて、国に帰ったんですよ」

そう返事をして店を出たが、ひとりの客に過ぎないはずのわたしのことを覚えている人がいることに驚かずにはいられなかった。

さらに驚いたのは、中国語を話すときにかつて感じていたはずの恥ずかしさや耐えられなさが跡形もなく消えていたことだった。厳密に比べることなどできないが、聞き取りも留学していたときに比べたら難なく行えているのではないかと思えた。留学を終えてから中国語を話す機会が格段に減ってしまったものの、「外国語を話している」という感覚がなくなっていることを改めて実感した。

五道口へ戻りながら、何をしに再び北京にやって来たのかを考えていた。北京から日本へ帰って、半年を日本で過ごしたが、それは同時にこの半年、北京や五道口がどのように変わったかを知らないということである。わたしは半年前と同じように、ふたたび五道口で過ごすことで、その半年を埋めようとしていた。確かに五道口の街はわたしによくなじみ、半年前とさほど変わっていないように見えた。だが、それでも変わったところはあり、わたしは半年前と同じようにはいられなかった。わたしは、半年間の空白を埋めたいのではなかった。埋められるかもしれないと思っていたが、あとから埋めようとして埋まるものではなかった。そうではなく、北京に留学していたあの一年弱が確かにあったと確認したかった。今のわたしは五道口の景色を見て、違和感なく溶け込めると感じたり、あるいは変わったところに気付くことができる。中国語を話したり聞いたりすることがさして苦ではなくなっている。それは焦らずに少しずつでも構わないから中国語を使えるようになろうと思ったときから確実に変化をしていることを意味する。スーザンや旦那さんはわたしのことを覚えていてくれた。深くかかわった人だけではなく、売店のおばさんのような、生活の中ですれちがうように接するような人も覚えていてくれた。わたしも伯母さんのことを覚えていたし、スーザンや旦那さんのこと、派出所のおじさんのことも覚えていた。それは一年間北京語言大学の漢語進修学院でクラスメートと学び、五道口で暮らしたからであり、その暮らしの中でいろんなひとやいろんな出来事に出会ったからなのだろう。この一年弱は、わたしの記憶の中でおぼろげになってよいことではなかった。一年間、日本での暮らしを休んで北京で学んだということを人生のオプションのように捉えていたのかもしれない。日本での暮らしがわたしの人生のあるべき姿であり、北京での暮らしはそれを豊かにするためのおまけのように捉えていたのかもしれない。しかし、わたしにとっては、世界のどこにいても、どんな人と関わっていても、決しておまけなどということはなかった。わたしはそのことを確かめに来たのかもしれない。

四日目に、蘇先生と約束をして食事に行った。大学で起きたことを話したり、大学の先生たちの近況を話したりした。王先生に頼まれたものを奥さんから預かり、北京でやるべきことは済ませた。

六日目の早朝、飛行機に乗って日本に帰ることにした。朝早くトランクを抱えて部屋をでると、スーザンの旦那さんが車で迎えに来てくれていた。思いがけない迎えにあっけに取られた。無愛想な顔でトランクを持ってくれた旦那さんにお礼を言い、車に乗り込んだ。

まだ暗い北京の街を、北東にある北京首都国際空港へと向かって走っていくと、半年前に日本へ向かったときのことが思い出される。しかし、あの時と異なるのは、北京で学んだ一年の存在を確認することができたということだ。北京で過ごした一年は、たしかにそこにあった。来たばかりのわたしが中国語に悪戦苦闘し、クラスメートに話しかけることすらできなかったことも、田田と出会って次第に会わなくなっていったことも、紛れもない事実だった。家族が北京にやってきてあちこちを観光して回ったり、高級下のクラスメートと安徽省へ実習にでかけたりしたことも、わたしはたしかに経験した。スーザンに助けられながらユミコさんとともに不動産がらみのトラブルに立ち向かったこともたしかにあったことだ。北語や五道口のまわりですれちがった生活の景色はたしかに記憶に残っているし、感じたことも覚えている。出会ったできごとの中で悔しさや焦りを感じたり、戸惑いや申し訳なさを覚えたりしたこと、安心したり喜びを感じたりしたことも、たしかにあった。留学をして感じたことは、しっかり体に刻みつけられ、半年たっても消えることはなかった。今後、一年経っても、三年経っても、十年経ったとしても、わたしが二〇〇七年の北京で感じたことはたしかに身体に残るだろう。

しかし、年月が過ぎるにつれ、わたしはさらにいろんなことを感じるだろう。学生でなくなり、社会に出て働くことになったら、積み重なる経験はどんどんと増えていくことだろう。そうしたら、北京に留学したことなど、はっきりと思い出せなくなるかもしれない。そうなったとしても、もう掘り返して大事に眺めるものではなくなるのだろう。それでもおそらく北京で過ごした日々のことを見失うことはない。わたしの長い人生の中で、北京で暮らした一年は、積み重なっていく年月の下の方でしっかりと存在するのであろう。それを確かめただけでも、振り返らずにここから先を進む力になるような気がした。


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