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福島を題材にした作品作りpart1

今日は来年3月に行う演劇公演の企画に至るまでの経緯を話していきます。
僕たちは現在、東日本大震災後の福島県や原発を取り扱った作品を制作しています。福島を題材に活動してきてはや2年が経とうとしています。
活動を続けてる中で「どうして福島?」「なぜ今?」という疑問を多く投げかけられることがあります。最初からこれといって明確な理由があったわけではないので、時系列を追って説明できたらと思います。
また、長くなるので今回はpart1として2019年の2月から2019年の7月くらいまでを話していけたらと思います。日記感覚で書いていくのでお時間ある方ぜひ読んでみてください。

作品作りの種を探す

2019年2月の旗揚げ公演が終わり次回作を何にしようかと考えた時に、各々の核となる部分を探ることにしました。「自分の琴線に触れたもの・こと」というテーマで各々200題材を集めてみたのです。
なぜ200という数字だったのかというと、100個ぐらいまでは普通の人でも興味のあることを出せると思うのですが、100個超えたあたりから偏りが出たり頑張って絞り出さないと出てこなかったりして、よりその個人の感性が表出されると思ったからです。そして映画や舞台のフライヤー、子供のとき見た景色の写真、本の中のワンフレーズなど様々なものが集まりました。
次に二人で集めた400の項目を分類分けすることにしました。
例えば、これは「環境というテーマでくくれるね!」とか「これは今の劇場をどう捉えるかを考えてるんだね!」とかです。そして、吉次と大橋の二人が共通して持ってきた素材がありました。

それは【記憶】というテーマでした。

そこから二人で記憶について掘り下げてみたところ、共通の話題として盛り上がったのが【2011年の3.11の日何していた?】という話題でした。吉次は当時実家の店番をしていて、大橋は学校の部活中でした。震災からかなりの時間が経つのにあの日の記憶は行動の隅々まで覚えていました。そして、それだけ僕らの原風景として衝撃だった当時の場所に僕らは一度も訪れた事はなく、まだ瓦礫があるのか? など現場が今どうなってるかもわかりませんでした。何も知らずに8年間過ごしてきたことに後ろめたさを感じながら現地にすごく興味が湧きました。

そうです。最初は作品を作るためではなく、純粋に被災地の今への興味で現地に行くことにしたのです。

いざ現地へ

2019年の6月に初めて被災地に行ったのですが、最初は情報もなく当時Googleマップで調べても写真は2013年とか2015年の画像や地図が出てくるだけでした。原発の事故の影響により常磐線も運行しておらずネット情報だと国道6号線ですら通れるのかどうか危うい状況でした。そこで僕らは夜行バスで仙台へ行き仙台から行ける範囲で原発の近くまで南下する作戦で被災地へ向かいました。
最初に降り立った町は南相馬の原ノ町という場所です。思っていたより普通の町で震災で崩れている建物もほとんど見当たりませんでした。それから僕らはタクシーを捕まえ小高の沿岸部を目指しました。

沿岸部は白い二重堤防が建てられていて、自分たちのイメージする復興工事が行われていました。
外から来た自分たちは津波で流されてしまった野原を見て心を痛めた反面、でき上がっている堤防を見て復興への歩みを微かに感じ取りました。

被災地の外見と内面

原ノ町や小高の海岸を見て思ったより復興は進んでいると僕らは感じてきたのですが、やはり現状はそんなに甘くありませんでした。海岸を後にし小高の中心部を散策している時に現地の方とお話しすることができ、僕らは復興の厳しさを知ることになりました。現地の方に海岸を見てきたことを話すと

「あそこもな〜俺は昔あの海岸で遊んでたんだけど、震災で避難してやっと最近ここへ帰ってきたらあんな風景になっちまった。沿岸線も知らない道が勝手に新しい道ができて、自分の愛着のある風景がどんどん取り壊されてなくなっていくんだ。」

というお話を聞かせていただきました。
外から来てこの土地に何も愛着のない自分たちにとっては町がきれいになっていく事は安心する事でした。なぜなら自分たちの傷は、あの日まだ子供だった僕らが見たテレビの中の悲惨な光景だけだったからです。そのテレビの中の景色の記憶が実際現地に来てみて回復した景色(もちろんいまだに人も入れない場所もありますが)で塗り替えられる事は少し安心する事でした。でもそれは外の人間の自分たちの勝手なエゴなようにも思えたのです。現地で育った人は震災で変わってしまった景色を見るのは辛い事ですが、震災後復興で変わった景色を見ることも同じくらい辛い事なのです。外の自分たちは復興について前向きになれるが、まだ心が追いついていない人もいることを感じました。
またその時、その現地の方にお世話になることができ自家用車でよりひどい被災の現場や役場などを案内していただくことになりました。僕が衝撃を受けた事は南相馬市博物館の職員さんにお話を聞いた時です。

「ここは小高ほど津波の影響は無く、わりかし他の地域より崩壊した建物も少なかったので町はきれいに見えるのですが、この町には病院や医者が足りていません。大きな病気や急病で倒れたら最低でも仙台か、いわきまで行かないと手術を受けられない。また私の家は祖父母もいるので老人ホームなどもほぼ無いし、何かあった時にどうしようも無いので私だけこちらで働き、家族は内陸の会津へ残してきています。町はきれいでもインフラが整ってなかったり、そこに住む人たちが暮らしやすいコミュニティがまだ整ってないから、復興とは言えないんですよ」

被災地を見てまた人に触れて、外から見た景色とそこで生活する人の心にこんなにもギャップがあることに衝撃を受けました。僕らが見た普通にきれいな町の景色や沿岸の堤防はまだ全然復興しているというレベルのものではなかったのです。この事は現地に直接足を運んでみたり興味を持って現地へアクセスしないとなかなか感じられません。


僕はこの現地と外の人とのギャップを少しでも埋める事はできないか? と思いました。

このことが福島の作品を作っていこうと決めた序章になりました。本日はここまでですが、今後この続きのpart2の更新や、もっと細かい現地の方とのエピソードを書いていこうと思いますので、お楽しみにしていてください。

QoiQoi 吉次匠生

QoiQoiプロフィール
2018年2月9日に大橋悠太と吉次匠生によって結成されたアートユニット。 当初はano(アノ)として活動していたが、2020年10月1日より団体名を改めQoiQoi(コイコイ)として新たな活動を始めている。

また、「想像力を創造する」をモットーに演劇、映像、インスタレーションなどさざまな分野を飛び越え作品制作を行う。団体名のQoiQoiもquality of imaginationが由来である。 また、社会問題から個人の体験まで幅広い事象を可視化し、常に観客に「当事者性」を提示する作品作りが特徴である。

このnoteでは作品制作のことを中心に、被災地のことや原発のこと、その他考えたことなど、読んでくれている方へなるべく為になるような記事を書いていくことを目指しています。
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