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日本人の民度を生んだ1つの法律

「日本人は民度が低過ぎる。半分しか選挙行かない。世界から白い目で見られる。恥ずかしい」
と言うひとがいた。上の写真のひとびとが「大躍進」したのに絶望したのだ。じつは大躍進ではなく、以前はもっと議席が多かったこともあったのに、なぜかメディアがヨイショしてるのです。こんな半グレ中年団をよくまあ・・・

 「国際社会に対して恥ずかしい」なんていうことば、進歩的(という言葉自体が、今じゃ恥ずかしいが)なひとは、よくそう言いますな。

 でも、それ、すごく伝統的な「世間様に顔向けできない」的センスじゃありませんか?

 そういうひとに言いたい。

 外国の人間は私やあなたなんか見ちゃいないんですから、恥ずかしがることはありませんよ、と。

 ただし、私の言いたいことはそこでは終わらない。世間様や、観念の中での諸外国に対する私たちの面子なんかどうだっていいが、もっと大事なことがあるんだ。

 ニッポンという、この変な国、そのうちに世界のお荷物になるだろうと、思わないだろうか? 少なくともアジアでは、ちょっとど〜しよ〜もない国と言われるようになることは確実だ。いまのまま経済が低下していき、貧民に溢れ、技術開発も低下し、基礎研究をやる学者は外国に逃げるような国が、世界の一等国気どりで、いつまでもいられるわけがない。

 そこに震災が来る。愚かな高市早苗などのような連中の扇動に乗って中国と武力で衝突でもしたら、ゼッタイに勝てない。北朝鮮が原発にミサイルを撃ち込んできてみろ、平壌を叩いたって、せいぜい東アジアの放射能が増えるだけで、なんの足しにもなるまい。

 そんなこの国を見て、アジアの人たちが言うだろう。

 こないだまで威張りくさってたが、いまはどうだい、あのざまは。近代になって、他の国が英米の植民地にされて苦労してるときに、自分たちは島国だから独立を維持できただけなのに、自分たちが先天的に偉いみたいに思い込んで、周りを見下した(*)。

 対中国政策を語るときも、すぐチベットだのウィグルだの、内陸国のことばかり言ってて、台湾とか韓国、ベトナム、フィリピン、そういう地理的条件の似てる国がちゃんと中国と渡り合ってきた、中には1000年以上も頑張ってきた国もあるのが目に入らない。内陸でもラオスの例もあるじゃないか。それをニッポンてやつは・・・

この国を戦後70年間支配してきた一つの法律

 さて、ニッポン人はなぜ民度が低いのか? 外国との比較は、こういうときにするものだ。日頃、テレビなどのばかばかしい情報をもとに、いじいじと比較するのが好きなニッポン人は、こういうときに限って目を外に向けないが、諸外国では、子どもに政治教育をしている。北欧の例もあり、コスタリカのように小学校高学年から選挙事務所の手伝いをさせるなんて、決して奇異なことではないのだ。

 なぜ日本でそれができないか?

 公務員法により教員は文部省の支配下にあり、ストを打つことができないからだ。1950年に地方公務員法が改正され、公務員のストが違法とされたのが、諸悪の大元。岸信介もこのたくらみに加わっていたにちがいない。公営企業のいわゆる民営化(本当は英語のprivatizationは「私営化」と訳すべきなのに、狡猾な財界は「民」を僭称するのだ。まるで今でも士農工商の時代であるかのように)にも、公営企業労働者は太刀打ちできなかった。国鉄労働者がたんに規則通りの運行をしただけだった「順法闘争」(それだけ普段の過密ダイヤは違法の危険なものだった)も、違法のようにメディアに言われ、一般大衆はそれを信じ込んだ・・

 教員は雑務に追われて、自分自身が政治無関心・無知。歴史無関心・無知、国際問題無関心・無知、外国事情無関心・無知・・・ろくに勉強もできず、雑務に追われ、それでも年金ほしさに、地方公務員の身分にしがみつく・・

  いや、学校の先生のことばかり言うのはよそう。私たちにとって、何よりよくないのは、学校で近現代史を教わらないことだ。そして、憲法と労働法も。先生たちは、そういうことを教えたいと思っても、教えられないのだ。

 近現代史が重要なのは、今の我々の生活に直接影響があるからだ。それを学んでいれば、我々の身の回りを見るときに、それがどういう経緯で今の形になったかを、考えることができるからだ。それは、自己を知るということだ。己を知ることをシステマティックに妨げるのが、ニッポンという国だ。

 なぜ、NHKの大河ドラマには、自由民権運動や大正デモクラシーは出て来ないのだ。戦争の歴史はないのだ。アジア諸国との関係は出て来ないのだ。そういうことだから、従軍慰安婦を騙したり暴力で脅して戦地に連れて行ったことはなかったなどというデタラメが罷り通るのだ。あれはどこの国にもあること、そして、被害者の国からは恨まれることだ。それだって、たとえば韓国がそんなことを言うようになったのは、経済力をつけて、日本に対して対等にモノが言えるようになってからだ。向こうは忘れてはいないのだ。

 そもそも日韓併合に先立って、日本の公使が壮士を連れて李氏朝鮮の王宮に夜明けに乗り込み、宮廷の人間を皆殺しにし、閔という王妃を虐殺したなんてことも、日本人の多くは知らない。

 戦後の復興を「奇跡の復興」などと言っているのは、ちょうど、鎌倉時代に、元の侵攻が台風のおかげで阻まれたのを「神風」と呼んでいるのと同じだ。中国が賠償請求権を放棄してくれたこと(第一次大戦後、フランスがドイツに賠償を請求したことがドイツの経済を破壊して、ナチス台頭につながったことを、周恩来たちが心に留めていてくれたからだ)、朝鮮戦争(朝鮮を戦地とし南北に分断した戦争)による需要(朝鮮特需と呼ばれる)、さらにベトナム戦争による特需が、日本の経済を押し上げたのだ。要するに近隣の惨事で儲けて、のし上がったんじゃないか。

 それなのに日本人は近隣諸国を見下してきた。自分たちがアジアでは異例の独立を維持して、経済が発展してきたのを、自分たちが先天的に優れているからだとでも思っているようだ。今もなお、特別技能実習生を低賃金でこき使ったり、スリランカ人ウィシュマ・サンダマリさんを殺す人種差別的偏見の根強い出入国管理局など、この国は決して外国人に優しくない。(東電OL殺人事件で無実の罪で15年間勾留されたネパール人、ゴビンダ・マイナリ・プラサードさんの例はまだ記憶に新しい)

 近現代史を知らない日本人は、多くが、NHK大河ドラマを歴史教科書にしている。あんないい加減な脚色だらけのものが歴史であるものか。しかも扱う時代は戦国時代と明治維新ばかり。出てくる人物は武将や士族などばかりで、平民の暮らしがどうだったかは、まったくわからない。 
 平安時代のほうがよほど日本人は自由で、プレイボーイが主人公の長編小説を書くオバサンがいて、世界的に名作と認められているし、恋愛は自由、女の荘園主もいた。『とりかへばや物語』なんか、男みたいな姉と女みたいな弟が出てくるお話。さらには藤原純友、平将門のように朝廷に弓を引く者もいた。江戸時代だって、平民百姓は、夜這いなどは好き勝手にやっていたし、時計もないから、一日せいぜい6時間しか働かなかった。あの頃の日本人は外国人に興味をもっていて愛想がよく、彼らを「まれびと」と呼んでもてなしもした。

 教師に主体的に教育のプログラムを立てる権限があったら、そんなことは、私などが言わなくても、みんなが知っているだろう。

 もういい加減でみんな気づいていい。教員の人権のためにも、ひいては子どもの権利のためにも。

 そうしたら、あくせく働くばかりで、ひとりひとり、自分にとって何が大切か考えるひますらないニッポンの暮らしを変えなければならないことになる。いったい戦後(あるいは明治以来、江戸時代以来)続いてきたこの国のあり方は、誰のためなのか。

 2011年3月11日、私はセネガルの首都、ダカールに仕事のためにやってきたばかりだった。街で日本女性に出会い、目が合ったので挨拶して話し始め、しばらくして、彼女がシンガポール人だとわかった。そのひとは言った「これを機会に、日本人は何のために生きてるのか考えるようになるといい。家族のこととか」

(*この箇所に、「(そ〜ゆ〜とこがユダヤ人みたいでやなんだよなああ)」という文言があったが、反ユダヤ主義者じみているとの批判を受けたので削除した。注釈を加えておくと、イスラエルでのパレスチナ人圧迫・殺戮を正当化する一部ユダヤ人は「パレスチナは旧約に記された神の約束にもとづき、本来ユダヤ人の領土である」という選民思想を信じている。それが、ニッポン人の一部、日本会議などのひとたちが持っている神国思想に類すると言いたかったのである。旧約創世記9章の大洪水後のノアとその息子たちにあった出来事のくだりをご参照いただきたい。「ハムはカナンの父である」という文言が不自然に早く挿入されているのがわかるだろう。カナンというのはいまのパレスチナのことである)

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