唯一神信仰か多神教か・・・?

§ パレスチナでアラブ系人を殺して平気なユダヤ人(平気でないユダヤ人もちゃんといるが、それは労働党支持者で、イスラエルでは今は劣勢。優勢を占めるリクード支持者は平気なのです)は、あの土地が神の約束したもうた土地だという自民族中心主義のドグマに凝り固まっているから、あんなことができるのです。
 古代から、民族の離散や、あちこちの国での差別迫害にさらされながら、ユダヤ教という宗教を拠り所にして民族のまとまりを維持してきたしぶとい民族には、その頑強さと表裏一体の歪みがあるんだと思うのです。
 19世紀以来のポグロム、その最大のものがナチスによるホロコーストですが、それがユダヤ人たちに、自分たちほど虐げられた民族はないという、ネガティヴ・ナルシズムを生んだのだと思います。
 だから、パレスチナのアラブ系を虐げてもなんとも思わず、自分たちは譲歩に譲歩を重ねて来たのに、あいつらはいつまでも満足しない、とんでもないがめつい連中だと思っている。
 さて、このひとたちの拠り所が聖書です。それは理屈にならない理由で、カナンの地(今のパレスチナ)を、神がヘブライ人のものにすると約束してくれた土地だと信ずる、非常に有害な信仰ですが(その詳細は https://note.com/qiuguliang/n/nbf9340936425 に述べました)、イスラム教徒もまた同じ旧約聖書を聖典のひとつにしているのは、いったいなぜか、奇妙な話です。上の記事に引用した聖書の文言は不当にも、カナンの地の住民をハム系だと言っているのですから、なおさら奇妙です。

§ この両宗派は唯一神信仰です。信仰を突き詰めると至高の存在に思い至るはずなので、一見、唯一神でいけないことはないかのようですが、それが、その神を信ずる自分たちは至高の民族だというナルシズムを生むのです。
 でもそれはおかしい。至高の存在を思うがゆえに自分らは至高の民族だなんていうのは(人類の究極の課題はナルシズムの克服だと言いながら、このことに全く触れなかったエリヒ・フロムなどという精神分析家は話にならない・・)。
 至高の存在とは、全知全能ということです。それなら、特定の民族だけ大事にするなんてことはありえません。もしそれでいいなら、なんのために雑多な民族を生まれさせたのでしょうか。
 唯一神信仰はそういう原理的な問題をもつと思います。

§ ただしお断りすると、私は、だから多神教がいいなどと言う気はありません。多神教も、多数の神が自分たちだけの味方をしてくれると思っているのだから、ちっともましではないからです。
 ギリシャでも中国でもインドでも、雑多な神たちのさらに上に、ギリシャ語で必然を意味するアナンケー、中国でしたら神々を越えた宇宙そのものである天というものを考えたのは、理性的だし謙虚なようですが、せっかく多神教の上に究極の存在を想定したのに、結局はそれも自分たちだけの味方をしてくれると思いこんでいるなら、唯一神信仰と変わりありません。
 いずれにせよ、唯一神信仰と多神教を対立させて、どっちを採るかなんていうのは、浅薄だと思います。
 私自身は、神と言うより霊の存在を認めていますが、そんなにつよく意識しているとも言えず、ただ、このどうしようもない此の世に、そこでもとくに問題ばかり起こしている人類がいて、もう行き詰まっていると思うし、そのなかで、自分も問題ばかりだなと思うだけです。

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