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ゲームのレジリエンス効果

野球盤の時代から、喫茶店やゲームセンターのアーケードゲーム、ファミリーコンピューターそして現代のパソコンやスマートフォンも含め“ゲーム”には一切興味がなかった、と言うと格好つけすぎであろう。

実は、意識的に避けてきたような気がする。

というのも、手を染めるや否や過度に没入する自分が容易に想像できたからである。
つまり、確実に具現化する可能性が極めて高いリスクからの回避策だったのだろう。

こんな私でも、カセットテープのウォークマンからiPODの前の世代にあたるSDカードベースの携帯デジタル音楽再生機の時期まで、年齢では40代前半ごろまでは、音楽を“携帯”していた。そして、正直かなり“過度に没入”していた。

“過度に没入”している時、実際に身を置いている現実の環境のことを忘れている。いや、忘れようとしていただけか。

通勤・帰宅の電車の中、出張の移動中あるいは、納品期日間際に徹夜で作業している時・・・。思い起こしてみれば、いずれもストレスの重圧からの逃避願望が強い時である。

考えてみれば、近世・近代社会の大衆は、現代のゲーム・かつての携帯音楽再生機が出現するまえから、眼前の現実から逃避するメディアを求め、多くの場合“過度に没入”した。

週刊誌、新聞、漫画雑誌は、このようなメディアの代表だろう。Paper Backsや文庫本も同様かもしれない。

Daniel J. Boorstinは、大衆(執筆当時はアメリカの大衆)はdemand to be entertainedであり、メディアが作り上げた、時として虚構を含む“ニュース”に身を委ねる、と「幻影の時代」で指摘した。

さらに考えると、これらメディアに身を投じなくとも、人間は、実際に身を置いている環境とは、別の時間・空間のことを考えることが可能な動物である。

考え事をして躓いたり、信号を見落としたりするようなことは、他の動物ではありえない。それは、本来“生”を維持することを放棄する行為であるからだ。

「みんなのゴルフ」や「Wii Sports」がなくとも、人々は日常でスポーツしている。サラリーマンが駅のホームで傘をクラブに見立ててゴルフの素振りをしたり、釣りのまねごとをするのが典型例だ。

Super Mario Bros in Real Lifeがなくとも、ファミリーコンピューターでの操作に没入してしまった人間は、実際に歩く光景にマリオの世界を見ているはずである。

実は、これらのゲームメディアが錯視を発生させているのではなく、人間が頭の中で想像ならぬ創造した映像空間を万人が見られる形で映し出している、とは考えられないだろうか?

これが可能であるからこそ人間は、単に生きる以上の付加価値を後世に残すことが可能でなのではないだろうか?

カントは、出生地であるケーニヒスベルク周辺から一生足を踏み出すことがなかったにもかかわらず、世界中の都市の道を語ることができたという。そして、世界的遺産とも言える哲学上の偉業を残した。

最近の経営学では、レジリエンス(Resilience)という評価軸が注目されている。「組織が経営環境における逆境的変化に耐え、業務サービスや経済機能の提供を継続する能力」という意味である。「コロナ禍に対するレジリエンスを検証する。」というような使い方をする。

レジリエンス(Resilience)という言葉は、ストレスとともに元来物理学用語で、ストレス=「外力による歪み」、レジリエンス=「外力による歪みを跳ね返す力」であるが、いずれも心理学でも用いられている。

心理学でのレジリエンスは、まさしく「ストレスを跳ね返す力」である。

従って、「映像空間に対する没入の錯視」はレジリエンスの一種ではないか、と考えるのである。

なぜゲームにストレスに対するレジリエンス効果があるのか。

それはゲームの持つ非対称性に違いない。

現実の業務では、与えられる作業は小さな一部分のみ。得てして成果も小さく、全体への貢献度も具体的には見えてこない。inputは小さく、outputも小さいのみならず、認識できないということだ。

ところが、ゲームは小さなinputに対してoutputは大きくはっきりと見える。増幅効果が大きいからレジリエンス効果が高いのだ。


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