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【創作】『双魚』(第1/2回・約3750文字)(“しょぼい文体”の実践

(前書き)
 長大・重厚な文体や思想からは資本のにおいがする。読む分には満足させてくれるけど、その一方で自分のような小市民とは馴染み難いものがあるように思わないでもない(その割に読んでしまってはいるけど)。
 逆に私はバッハのメヌエットが――それもピアノ初心者が習うような簡素な楽譜のものが――ずいぶん好きなんだけど。そういった単音や単純な和音の構成音が対位法的に作用するように、小説の、一つ一つはしょぼい各文が同時進行しつつ互いに作用するものを作ることが狙いである。
(区切り線以下本文)



 ずいぶん質感のある夢を見た。起きたら手を頭の上で組んでいて痺れていた。五時間もこうしていたのだろうか。
 スマホでSNSの更新をチェックする。一人暮らしを始めてからついた習慣だが、おそらく多くの現代人がそうだろう。
 夢の中では高校時代に戻っていて、僕は夕焼け、グラウンド脇の下校道を通って帰ろうとしているところ。同級生で野球部のキャプテンだった尾関がノックをしていて、受けているのはあの大谷翔平。ひとりだけドジャースのユニフォームを着ているが、それでも我が校の野球部員ということだ。
 ひとつ目のアカウントでは目に付く投稿はなかったので、別のアカウントに切り替えて閲覧を続ける。閲覧目的ならこちらが本命だ。
 尾関としては、世界的メジャーリーガーである後輩にノックや指導をすることに対する当然の後ろめたさがある。キャプテンとはいえ、彼はただの公立高校の一野球部員でしかない。世界のオオタニの前では恐縮してしかるべきだ。しかしどこでもキャプテンというのは立派なもので、立場を自覚しぐっと腹部に力をいれ、表情をこわばらせる。「大谷いくぞォ!」
 大谷がグラブを叩く。
 あぁあしんどい!そう叫びながらベッドから体を起こした。痺れていた腕に血液が巡りむず痒い。二リットルペットボトルの水を持ち上げ、滝飲みする。春先とはいえ、開封済みのペットボトは衛生的に扱う(本当は、ミネラルウォーターでも開封済みなら冷蔵庫で保存することがパッケージでは推奨されている)。
 キンッ
 バッドが高く鳴る。打球は大谷の右手側を襲う。大谷はヒラリと身を移し、華麗なグラブさばきでキャッチ、ボールを右手に持ち替え、ファーストに投げる。一連の動きはしなやかでムチのようだ。
 尾関はその動きに内心見惚れつつ、それが悟られないようあえて激を飛ばす。「いいプレーしたときはちゃんと喜べ!」
 朝食はトースト。二年前に三千円のオーブントースターを買ってから、楽さ・飽きにくさの点で習慣化し、長年の朝食迷子から抜け出せた。片方は甘いの、もう片方はしょっぱいの。いまは練乳があるから、焼けたらそれをかける。しょっぱい方は、拳で食パンの中央をへこませて、ヘリにケチャップ、マヨネーズ、細かく手でちぎったハムを載せて堤防を作り、中央に卵を落とす。香辛料入りの塩をふりかければ準備OK。同時にニンニクも一カケ、皮付きのまま入れる。ニンニクは元気が出る。
 なるほど、いいプレーをしたときはちゃんと喜ぶこと、それが次の良いプレーへの足掛かりになるし、チーム全体の士気も上がる。これはキャプテンである尾関だからこその視点で、一理あるように思う。大谷も「ハイ!」と言っている。尾関としても、態度の面ならまだ言いやすい。
 ここで目覚ましが鳴ったのだ。この夢はなにか僕にとって示唆になるものだろうか。ともかく、起き抜けの頭で夢の内容を反芻しているのは気分がいい。悪い夢でなければ。オーブンは最近使うと変な燃焼臭がする。ロクに掃除をしていないからだろう。毎日決まっていること、家を出るのは、晴れた日に自転車なら十六時十七分、傘をさして歩くなら十六時十一分。規定の出勤時間が十六時半。まだゆっくり準備ができる。
 練乳のほうを食べ終わった。というのも、卵の方はオーブンの五分だけじゃ卵が焼き固まらなくて、追加で一分電子レンジにかける必要がある。その間に練乳の方のトーストは食べてしまう。甘いものは寝起きに美味しい。
 出会い系アプリのメッセージを開くと、レイラからメッセージが来ていた。「仕事行ってくる―。今日も仕事?」朝七時五四分送信。
 トーストは冷まさないことが大切だ。冷めたトーストは洗濯物のような味がするからだ。大谷の件以外にもその前になにか夢を見たはずだが思い出せない。
 レイラはアプリで知り合った人で、二回ほどお互いの自宅で会った。趣味は合わないが、性格が合う。ストレスの多い職場で働いているらしく、僕とは、現職を辞めたいと思っている点で共感した(一般的な尺度からして彼女の方がずいぶん立派だが)。
 卵の方のトーストの一口目はたいてい熱い。周知のことだが、ドロドロのものは高温に達するし冷めにくい。卵もケチャップもマヨネーズもそうだ。他人と趣味が合わないということについてはある程度あきらめがついている。趣味というものは深まれば深まるほど大衆とは乖離する。現代日本でグラム・ロックと純文学を愛する女性と仲良くなろうと思ったら、なにかそのためのバーにでも行かないとお目にかかれないだろう。僕は昨日レイラに「かわいいお目目してる」とメッセージで言った。「なに急に」と来た。「インスタ見てたら思った」。「目きれいじゃないよ。でもありがと」。
 なんてことを思いながらスマホを触っている。取り立てて見るものもないので、もう十回は見ているエンタメ系ユーチューバーの動画を惰性で見る。彼らのうち二人は学生で、一人は会社員だ。
「いつも十六時半から二十一時半だよ。今日は夜行けるかわかんないけど。お仕事頑張って」
 レイラは八時半には出勤しているはずで、退勤は十七時半というところだろうか。おそらく正規雇用ならそのくらいだろう。このメッセージは仕事中の彼女には届かない。僕は非正規労働でしか働いたことがないし、一日五時間以上は働いたことがない。空いた時間や休日には体を休めるか音楽を聴くか本を読む。それが自分の限界だと思っている。食パンを食べ終える。皿の上に手のパンくずを払う。キッチンに置き、歯ブラシを取る。
 出会い系アプリをインストールするのは二回目だ。今回、三人目のマッチでレイラと出会い、多少メッセージのやり取りをしたところで酔って自分の住所を送信した。
 歯磨きが好きだ。一日に合計すると三十分は磨いている。出勤前は十五時四十分ちょうどに口をすすげば間に合うことを知っている。僕が出勤する頃にはレイラには退勤時間が近づいている。
 名残惜しさを感じながら腰かけていたベッドから立ち上がり口をすすぎに行った。あの夢は僕にとってなにか示唆があっただろうか。僕の頭の中の夢を作る部分は、たいてい覚醒中の僕より洞察が冴えている。
 押入れの棚からバスタオルと下着を取って、ユニットバスの出口付近に落とす。服を脱ぎながらサブスクで流す音楽を決める。気分にもよるが多くの日においてシャワー中には音楽が流れていてほしい。これも現代人のある程度の割合に当てはまることかもしれない。YUKIにした。
 シャワーを手に当て暖かくなったところでバスに入り、体に温水を当てる。シャワーを浴びているときにいつも考えてしまうオリジナルのSF小説的な描写がある。以下は人類を凌ぐ高度知能生命体との情事の前、ガラス張りのシャワールームで体を清める宇宙人の手つきを観察するシーンのつもりである。
「○○のシャワーの手つきはさりげなくありながら、流体物理学に関する透徹した理解が運動神経と絡まりあっているようで、水流は一切のロスなく彼女の頭から、顔、体、つま先へと生きているように滑り降り、シワや溝を細やかに撫で清めていった。性的な気分は脇に引き下がり、科学的好奇心からつい食い入るように観察してしまった。ようやく(主人公)は知能の差というものの正体を実感したのだ。おそらく彼女なら僕が使う水量の三分の一で、三倍の洗浄効果を実現するだろう。そして逆に彼女からみた僕のシャワー動作は、ロスの多い動物的なものとして映ることだろう。これは個人間ではなく人類と○○星人との間にある差なのだ。(主人公)は性的高揚を改たにした。」
 泡立ったシャンプーを流す。奥歯の内側の隙間の歯磨き粉のシリカの粒、舌先でこすり取る。YUKIはポップさから降りない。ボーカルは伸びやか。今は耳で聴いているだけだが、動画で彼女のライブパフォーマンスを見るたび、自分のでかい図体に嫌気がさす。一七七センチ。体がでかいということはそれだけ動きがゆっくりに見える。惑星の動きもそうだし、キリンの首相撲も、大谷の走塁もそうだ。YUKIは軽やかに飛び跳ねる。そこにあこがれる。いまこうして石鹸の泡を脛に伸ばしている僕の動き、鈍磨なことだろう。
 僕は「お目目かわいい」と言った。しかしレイラは「きれいじゃないよ」と否定した。僕はきれいとは言っていないのにと思ったが、何も言わなかった。
 そもそも僕は成人にかわいいということにとても不道徳なものを感じるタイプだ。かわいいという言葉は必ず何かしらの弱さに対して使われる形容詞だから。だがレイラの目はかわいく、それは僕にとって好ましいことだった。別にこの言葉がレイラを喜ばせると思ってのことじゃない。彼女は二十五歳で、その歳になれば誰だって自分で掴み取ったもの以外は自分のものではないと分かっている。目の形を褒められるのは「かっこいい苗字してますね」や「左利きって、なんか良いですよね」と言われるような、要するに本人からしたらどうでもいいことだろう。
 バスタオルで体をふく。バスタオルは一回使ったら必ず洗うのだが、長く使っているからすこしネギのような臭いがする。音楽のボリュームを下げる。今はシャワーの音にかき消されるわけじゃないから、そこそこの音量でいい。


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