【読書録】中井久夫『私の日本語雑記』

 嫁と出掛けて、本をいくつか買った。その中で、中井久夫の『私の日本語雑記』という本を、他にも中井久夫の本を買ったことがあるから買ったのだが、これがまれに見るくらい内容が良かったので、共有していきたいと思った。
 中井久夫は、精神科医で、精神科医で本を書く人は他にもいくらもいるだろうが、これほど読んでいてしっくりくるというか、読んでいて納得感が得られることはなかったと思うくらい気に入って読んでいる。
 それで、中井久夫という人は、精神科医であると同時に、いや、それとしての存在感はまず圧倒的なので、その上で付加価値があるということが信じられないのだが、それとは別に職業として成り立つのではないかと思うくらいの技術をもって詩の翻訳をする。ギリシャの詩を、翻訳していたと思う。ヴァレリーの何かも翻訳していた気がする。いや、ヴァレリーという名を中井久夫から知ったといってもいいほど、それまでのヴァレリーという名は自分にはなじみがなかった。それから、政治史についても、謙遜しながら、一定の知見を持っている。「昭和を送る」を読めば、その洞察の深さがわかると思う。最後に、災害への対策、非常時の心の持ちようについても、やはり、これ以上詳しい人を挙げるのが難しいほどではないかと、よく知りもしないが、思っている。
 といった中で、今回は、言語学に、鋭く切り込んでいるということ、その多様性のとめどなさが、まるで信じられない。
 この題名からすると、さすがに切り込むとまで言うのは大げさではないか、と思う向きもあるかもしれない、が、内容をよく読んでみれば、最初のごく短い章からして、「反文法主義」とでもいったようなものが、ほとんど人に押し付ける力を感じさせないにもかかわらず、うっすらと漂ってくる強い意志が感じられるのである。
 込み入った事実ではあるが、こうして、私が書いている文章、それを、その一章である「間投詞からはじめる」だけ読んでみても、その理念、という気負いなど全くないほんの所感のようなものから、自己分析を導き出すことが、可能である、ということを、これからいくつか書く文章で、証明してみたいと思う。
 たぶん、この人は、こんな風にして、人を警戒させない、すごくやわらかい言葉を使って、人に絶えず自己反省をいつの間にか促させるような、そんな、想像するだけでは何のことだかわからない言葉の使い方を、今までしてきたのだろう、と、これを書いていてふと思った。まるで妄言のようだが、彼のことを知ると、まんざらそんなこともなさそうだ、と思える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?