【日記】トルコ考

 トルコの、国教としてのイスラム教の強度は、とても弱いらしい。いちばんヨーロッパに近い、イスラム教国家の発展の仕方だった。近代化が世界的に進む流れで、イスラム教を国教から外したらしい。今は、国教ではないのだろうか。だとしたら、「国教としての~~」というのは、違ったかもしれない。
 トルコの人自身が、その国民に対しての宗教の働き方が、日本人の仏教との関係と似ている、と言っていたので、多かれ少なかれ、そのような距離感なんだろう。もっと強く、コーランに書かれていることそのままの暮らし方で暮らす、という国があり、そことは一線を画するということなのだろう。トルコ人は、イスラム教徒であっても酒を飲む、と、そのことが決定的であるかのように書かれていた。
 イスラム教徒は、酒を飲めないんだったか。酒を飲む文化圏が全くないというのは、やはり、こちらからすると信じがたい光景だ。
 この、確たる存在感のない、フワフワした立ち位置が、トルコ人の問題意識として深くあるらしい。自分は何者なのだろうか。それに迷うことなく答えられる民族は、幸せだ、と言えるのだろうか。それもわからない。

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