【読書録】それでは実際のスーフィーの言葉をお聞きください

 先日から話題にしている、井筒俊彦の『イスラーム哲学の原像』、これに影響され、現代のではあるが、スーフィーと呼ばれる、密教的修行を行っている教団の導師の、インタビューを乗せた本をネットで取り寄せて読んでいる。
 シャイフ・ハーレド・ベントゥネスの、『スーフィズム イスラムの心』である。

 こうして、今まで解説でしか触れなかった宗教の、導師の言葉を実際に目にすると、遠く近く、今まで抱いていたイメージと響き合い、半ばは期待通りであったり、半ばはイメージと違ったりすることがわかって、面白かった。

〈覚醒〉(Réalisation)について語る場合、そこにはさまざまな段階がある。人はそこでさまざまな内的状態を発見する。彼はそれらを身体、思考、精神で生きるのであり、ついには神の瞑想に完全に没入し、それ以外のものの幻視すらなく、神の中に完全に住するようになる。いまやどちらを見ても、そこに神がいる。それは、メッカまで長い旅をし、疲れ果ててカアバ神殿の方に足を向けて眠っているスーフィーのようなものである。一人の信心者が通りかかり、彼を揺り起こして言った、「汚い足を神の館の方に投げ出したりして、恥を知りなさい!」と。するとそのスーフィーは応えた、「兄弟よ、ではどの方向に足を出したらいいのか、教えてほしい。神がいないところがあるのかね!」と。

シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』、23ページ

 まさに、井筒俊彦が言っていた、「神を蔑《なみ》する危険思想として受け取られ」かねない、他宗派との軋轢を生みそうな一節である。いわゆるイスラム教徒のイメージは、メッカの方角を大事にし、たとえば日本に来ても、方位磁針でメッカの方角を確認し、そちらに向かって礼拝を欠かさないという所があり、映像で見たから、そういう人たちが多いのは確かなはずだ。一方で、上記のようなことを、むしろ誇らしく、教義のように話すところは、噂と違わない。
 当たり前かもしれないが、思ったより、話がうまい、読んでいて、まるで講演でも聞いているかのような気分になる。もちろん、秘密の修行もあるのだろうが、そこを抜ければ、通常の人ではあるのだろう。また、社会的役割を全うしなければならない。人里離れた高山に籠って、などというわけにはいかない。
 いや、そういう人も、いるのかもしれない。しかし、この人は、神の世界を見ること、それをこの世に持って帰ってくること(ものすごく単純化した、この宗派の、ある意味で仕事の様態である)も大事かもしれないが、一方で、世俗的な役割として、今自分ができること、という点にも、ちゃんとフォーカスしている。
 当面、イスラム教徒が生きていくうえで、問題となっているのは、緊張する国際関係、それと、もしかしたらその根幹にあるかもしれない、キリスト教圏との対立構造である。
 彼は、それを、自分の信仰を偽ることなく、融和させていこう、という活動を絶え間なくしている。
 この本の序文は、リヨン、つまり、どこかに書いてあったわけではないけれども、おそらくあの有名なノートルダム聖堂かなにかで働いている、キリスト教司祭が書いている。
 二人で、抱擁を交わしながら、この、幹の所では同系統であるからこそ、血生臭い対立も起こってきた両者が、いかに共存するかについて、考えている。その様子が、序文からにじみ出ていた。
 座して学べるものなんか何もないのである。「見る」というのは、行動に移すからこそ生きてくる、いや、この言い方では普通だ、「見る」ことがもうすでに行動になるくらい、真剣に、神を見ている。そして、実際に、今この世で最も必要なことを看取し、すでに手が動いている、まさに行動に直結した、見ること、日本のかつての和歌などには、とにかく、光景を見ることが読まれていたりするが、その「見ること」に呪術的意味合いがあったのだと、たしか白川静が言っていた。漢字学者の頂点である。山を見る、自分が見ることによって、そこに呪術的力を置いて行く、といったようなイメージで、その力について、歌を読んでいたのだと。そのことを思い出した。

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