【読書録】アンリ・ベルクソン『物質と記憶』1

 実は、半月か、一か月前辺りから、この本を読んでいる。しかし、普段ならほんの少し読み進めたそばから、直感的な感想をガンガン書きつけていくスタイルの僕が、この本については、感想を書きあぐねていた。
 前に、同じくベルクソンの『時間と自由』を読んだ。偉そうにいろいろ言っているが、数少ない読み切った哲学書のうちの一冊である。そもそもが本人の持続と意識というテーマを文体にしたかのような、一息が長い文体と、意識に対する切り込み方など、かなり納得感を覚えながら読んだ記憶があったので、今回も、それなりにすんなりと読めるのではないかと期待して読み始めたのだが、そんなことはなかった。
 結論から言うと、すでに半分読み進めているが、ベルクソンが解き明かそうとしている人間の記憶、精神、それと脳の関係といったイメージについて、核となる像が、いまだにつかめないでいる、今まで、哲学思想書を読んでいて、晦渋ではあっても、何というか、その場でイメージしきれないといったことは、ここまでの度合いにおいては、あまりなかった。
 その原因を、自分なりに振り返ってみる。今、われわれが心理学とか脳科学といったものについて、たとえばテレビやニュースや他人との日中的会話の中ですでに持ってしまっている知識というのは、思っているより膨大で、それらが、意識しないうちに、自分の世界観構築につながっていることがあり、それはおそらく、そうであると思いたくない所ではあるが、読書などで上塗りした知識や世界観などより強固である。
 僕なりに必然性があり手に取ったベルクソンであり、その論ずるところ、言わんとしている形を頭で理解することはできるのだが、それを世界観として構築する際には、たとえば、この中で言っている、脳のなかにイマージュが宿っているのではない、脳のなかに記憶があるのではない、脳のなかに意識があるわけではない、などといった箇所が、どうしても現在常識とされている科学的事実から外れているために、構築しきれないのである。
 だとしたら、一種のフィクションとして受け入れることも、できなくはないはずなのであろうが、ここのところが不思議とうまくいかない。
 冒頭の、有名な、「しばらくのあいだ、われわれは、物質の諸理論と精神の諸理論について、外界の実在性もしくは観念性をめぐる諸論争について、何も知らないふりをしてみよう」という一文。まさに、フィクションとして、仮構しながら読み進まねばならないと宣告されているような気がする。
 例えば、世界というイマージュが、脳を通って、われわれの精神に、イマージュとして結ばれる、のだが、その脳自体もイマージュであり、イマージュ全体を格納する箱のような存在ではない、といったフレーズを、そのまま呑み込んで、次の展開を待たなければならないのか。
 まだ確信は持てないが、自分の世界観を変える読書を行いたいのであれば、自分のあらかじめ持っている価値観を、カッコに入れてでも、捨てる必要があるというのは、読書における真実である。
 次回は、この「……何も知らないふりをしてみよう」が、全編にわたって効いていると仮定して、ここで忘れ去られたかのように振る舞ってはいるが、実際は、とても強く意識しているであろう一つの哲学とは何なのかについて書こうと思う。

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