【読書録】ベルクソン『物質と記憶』3

 今回は、別に内容と関わらない、くだらない話である。

 ベルクソンの『物質と記憶』という哲学書を、半分まで読み進めたところであるが、こういう、記憶を題材にとった哲学書、またはノンフィクション科学読み物やなんぞというのが定期的に発刊されたりするが、そういうものを読んでいると、おのずと、自分はどういう風に、何かを記憶しているのか、振り返り、たとえば今どれだけのことを思い出すことができるか、記憶力を上げるにはどうしたらいいかなど、試してみたくなることがある。
 これは、全く気まぐれな思い付きであり、韓国のアイドルが好きになったから、韓国語をやってみようか、などと一念発起して入門テキストを開いて、半分も行かないうちに埃をかぶっている、などといったこととあまり変わる所がない。
「記憶とは二種類あって、身体が瞬時に反応するような、習慣化した記憶と、習慣化されていない、いわばレコードを再生するように昨日のことを思い出すような記憶である」などという記述を目にして、じゃあ自分はどんなことを想起するだろうかと、前のことを思い出してみたりして、そんなことをしているうちに、記憶力は上がるだろうか、などと考えていたりする。
 結局は、読んだページの一文を覚えているようなこともなく、文脈もあいまいであるので、まず、この本の内容がきちんと記憶できていない始末である。
 ところで、今上に覚えで引用した、習慣化した記憶と習慣化していない記憶について、ベルクソンは別々に検証しているのだが、どうも習慣化した記憶、例示しているのは詩の暗唱と朗読だったりするのだが、それを軽視しているような、問題にならないとしているような節がある。
 しかし、僕には、どうしたって、習慣化した記憶、あたかも手の内にあり、いつでも行動に反映するような、そういう修練で得られるような記憶の方が、重要であるとしか思えない。ので、このベルクソンの言い草にも、どこか抵抗を覚える。誰かにとって、生涯覚えたいと思うから何度も繰り返し読んで、そらで言えるようになった詩文と、昨日食った晩飯の記憶、どちらが重要だろうか。
 ベルクソンの『物質と記憶』については、一時休止して、また読み進めて感想が生まれればここに書こうと思う。

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