すべての入試はそろそろ消滅すべきだ

いつもと完全に同じで、マーケティングっぽい人たちがわっさーと群がっている。何に群がっているのかというと、「デジタル・トランスフォーメーション」という言葉に群がっている。昨今の社会情勢で誰もかしこもデジタル・オンライン化しなくてはいけないぞ、ということになっていたり、何ならこれを「商機」なんて捉えている人も多いので、みんな「デジタル・トランスフォーメーション」と言い出す。

デジタル・トランスフォーメーション、というのは、別に難しい話ではなくて、デジタル化とかオンライン化、ということだ。今まで電話予約しか受け付けていなかった旅館がオンライン予約に対応したらそれはデジタル・トランスフォーメーションだ。

私は、この社会状況をマーケティング云々と結びつけて、意識の高いマーケティングシフトっぽい感じの話に結びつける風潮は非常に良くないと思っている。罹患した自分だって死を意識したし、実際に家族を失った人だってたくさんいる。アメリカでは10万人以上の方々が亡くなった。今起こっているのはそういう状況なわけなので、当然大きな社会的な変化は起こっていくが、それを「ウッヒョー、ビッグウェーブが来たぜー」的に盛り上がるのは単純に不謹慎というものだろう。そう思っていても、できることがある人は淡々と仕事をすれば良いわけで、こういう事態に大きな声でバズワードを喧伝しだすのは、世の中を扇動して差分を懐に収めたい連中ばかりだ。

で、「デジタル・トランスフォーメーション」だ。いつもと同じだ。古くは「Web 2.0」、最近でも「ソーシャルメディア」だの「インフルエンサーマーケティング」だの。こういった言葉は、夏の夜の街灯のように、人を惹きつけては焼いていく。「え? あなたそんなこと考えたことなかったでしょ?」という人が突然「デジタル・トランスフォーメーション」と言い出す。

で、こういうことを書いている自分はどうなのかというと、結構大規模なデジタル・トランスフォーメーションの仕事をやっていたりするし、いろいろ計画もしているので、ここまで私はすごく自分にブーメランとして返ってきそうなことを書いている。

とはいえ、「デジタル・トランスフォーメーション」なんてものは、こういうご時世になってしまったからスピードアップせざるを得なくなっているものの、別にもともと進めるべきものだったのだ。「選挙のオンライン化」なんて、もうずーーーっと取り沙汰されているが、あれはデジタル・トランスフォーメーションだ。

そんなわけなので、最近、会議なんかでもそういう話をすることはとても多くて、いろんなところで言っているのだが、これはどう考えても一刻も早くデジタル・トランスフォーメーションしたほうが良い、と思っている領域があって、それをすることで、実はたぶん結構簡単に、世界にはびこる前時代的な「悪魔の文化」を消滅させることができると思っているので、それについて書いておこうかなあと思う。

そんなわけで、その領域とは何かというと、「教育」だ。今更何を言っているのか、リモートラーニングみたいな話はいつだってニュースの紙面で踊っているではないか、と思われるかもしれないが、リモートラーニングから始まる教育のデジタル・トランスフォーメーションの話は、単なるオンライン授業には留まらない。

私の最終学歴は東京大学法学部中退だ。大学受かって入学して、法律の授業らしきものを受講した瞬間に「あ! 間違えた!」と思ってその先数回しか授業を受けずに、楽器とバイトに明け暮れ、概ねモラトリアムを延ばし延ばしにして時間切れで7年間在籍した大学を追い出された。「東大中退とか、ガッツありますね」とか「さすがですね」とか言われがちだが、私の中にあるのは何より良心の呵責だ。私が東京大学の法学部というか文科Ⅰ類に入学したことに意味があったかというと、全く意味がなかったと思う。法律の知識なんて、今に至るまでほとんどない。家を借りていて大家と揉めたらそれについて調べるし、会社をつくるときもそのためのルールを調べたが、そういう形で普通に法律に触れている限りだ。

だから、日本のトップレベルの法律家を育成する機関であるはずの東京大学法学部に私が在籍していた意味は無い。学校でできた友人関係などはプライスレスなものだが、東京大学文Ⅰないし法学部に在籍している間に受講した数回の授業であるとか、試験であるとかそういった一切のものは、私のその後の人生に何の役にも立っていない。実際、やっている仕事はデジタル技術の監督としてクリエイティブっぽいことをしているわけだから全然関係ない

それが何を意味するかというと、私のせいで、東京大学法学部に入学して最高峰の法律教育を受け、法律家として社会に貢献すべきだった人の可能性を1人分つぶした可能性が高い、ということだ。私が入学さえしなければ、その人は学びたいことを学んでやりたいことをやれたかもしれない。しかし、大学の生徒は有限で、入試に合格する人数も有限だ。

大学に入学するためにかなりの努力はした。しかし、それは恐らく入試というゲームに勝つためだけの努力だったし、私などが合格して枠に入ってしまったばかりに、本当に法律を学びたかった若者の未来を摘んでしまったし、その人の人生を変えてしまったのかもしれない。じゃあ、法律家になるつもりがない奴は受験もするな、という話だが、自分が法律家に向いているかどうかなんて学んでみないとわからない。

こんなもん、悲劇としか言いようがない。ミスマッチもいいところだ。血のにじむような勉強をして大学に入ったらそこに学ぶべきものが何もなかった私と、血のにじむような勉強をして法律家になりたかったのに大学に入れなかった誰かと、両方ともにとって何も良いことがない。私などはその過程で親との人間関係も屈折してしまった。

あらゆる入試は、「悪魔の文化」であり、消滅すべきだ。全く意味が無い。意味があったとするならば、「教室の大きさ」「管理の煩雑さ」があったからだ。東大の法律の偉い先生が行う講義をできる部屋の大きさは決まっているから、東大法学部の人数は、そのへんの収容人数の都合、あるいは大学側が管理可能な人数の都合で決められていると言っていい。人数制限があるなら、その部屋やシステムに入る人を制限しなくてはならない。教育はスケーラブルなものではなかったのだ。

しかし、授業を完全にオンラインにすれば、東大の先生のありがたいお言葉をケチって部屋の中に閉じ込める必要なんて無いし、人員の管理なんて、ウェブサービスのアカウント管理するようなノリでできるだろう。10万人を超える利用者がいるサービスなんてザラにあるわけで、そんなもんだろう。別にもったいぶることはない。真面目に「デジタル・トランスフォーメーション」すれば「教室の大きさ」「管理の煩雑さ」なんてどこかに行ってしまう。教育はスケーラブルなものになる。

そうすれば、東大の先生の講義を受けて法律家になりたい人が授業から門前払いされることはないし、学ぶチャンスをつかむことができたはずだ。私だって法律の授業を受けてみて、ダメだと思ったらすぐに美大の先生の授業にでも行けばよかったのだ。

もちろん、大学にも高校にも中学にも、学校というもので学ぶ人間関係のようなものは大切だろうと思うしそれは否定しないが、それはそれを培うシステムを別につくれば良くて、受ける教育と密結合させる必要など無い。むしろ、授業の問題さえなければ、エリートばかりがエリートばかりで集まる必要も、落ちこぼればかりが落ちこぼればかりで集まる必要もない。社会にはいろんな人がいるんだからいろんな人がいるところに行ったほうが良いだろう。

この、入試という「悪魔の文化」のお蔭で、どれだけの子どもたちがしたくもない苦行を積んでいるのか。どれだけの若者が絶望し、どれだけの若者が勘違いをし、どれだけの若者が選択肢を失っているのか。中学受験なんて、クソ中のクソだ。まだ将来のことなんか規定される必要がない子供の頭を押さえつけて無理やり机に向かわせるのなんて、犯罪だ。パワハラが社会的問題になっているが、この狂ったシステムのお蔭で狂ってしまった親にパワハラ以上の人格否定を受けている小学校高学年の子供はわんさかいる。私もそうだった。そんなのあり得ないだろう。小学6年生なんて、まだ何もわからない子供なんだから。外で遊んだりマリオカートやってるのが普通だろう。嫌がる子供を日能研とか四谷大塚とかに無理やり行かせるの、どう考えてもおかしいだろう。

もうこんなわけのわからない悲劇の連鎖と格差の強化は金輪際やめるべきだ。もうやめられるんだからやめなきゃダメだ。気づいたら私たちは入試なんかやらなくて良い状態になっているのに惰性で続けているだけだ。やらなくて良いのに続けている、ということはそれは「前時代の悪習」だ。成人の儀式にバンジージャンプをやるようなものでしかない。もっとタチが悪い。バンジージャンプは度胸を試すだけだが、入試は死者が出る。

「デジタル・トランスフォーメーション」の時代が来たのなら、まずは、このどうしようもない悪習をストップしなければならない。マーケティングだなんだ言う前に、まずこれだ。すべての入試は、自由の抑圧であり、効率の喪失であり、格差の根源だ。

というようなことを、私がいつも会議でオンライン教育的な話になるとなんか声がでかくなりがちな際は常に考えています。「何でこの人こんな熱くなってんの?」と思ったら察してやってください。いろいろあったんです・・・。

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