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「私・小説アニメ」という新しい芸術「シン・エヴァンゲリオン劇場版 3.0+1.0」

それはパズルみたいなものだ。とりあえず、とっかかりの作業はわかるので、手探りながらでも、スタートはすることはできる。この作業を進めて、組み立てていれば、いつかは完成する予感はあるのだ。
そう、始めた人間にはわかる、いつかは完成するはずなのだ。

ただし自分が始めたパズルが、想定外に複雑で、壮大なモノであることに気付いた時に、そこに岐路が現れる。そして、そこで諦める人間と、食らいついて完成させる人間の差が生まれる。

とても少ないが、たとえ永遠に思えるような期間がかかろうとも、最後には完成させる人間がいる。それは出口の見えない狭い穴のなかで前を掘り続けることを止めない人間だ。

そしてとても少ないが、自分の身も心も捧げながらも、最後には完成品を世の中に差し出す人間がいる。もがき、苦しみ、自分を傷つけながらも、夜も寝ず、休むこともなく、人生のすべてを賭して完成させる人間だ。

諦めた人には、その地獄はわからない。
完成をさせられなかった人には、その工程はわからない。
いまその過程にいる人にも、その頂は見えない。

25年とは、そういう長い長い地獄のトンネルだ。じつはそれが「創造」という行為が求める対価なのだ。

そして、その労苦の果てに生み出されたモノを、世間は「芸術」と呼び、後世に崇める。「前代未聞の傑作」とは、そういう形で創造された人類の尊い結晶だ。

見よ、ミケランジェロの壁画を。
見よ、フィレンツェのドームを。
見よ、トルーキンの指輪物語を。

そして、見よ、庵野秀明のエヴァンゲリオンを!

今エヴァンゲリオンの「終劇」を観た私たちは、「傑作」の、その誕生から完成までを同時代として体験したのだ。それいかに貴重な体験であるか、考えたことがあるか。バルセロナで造られているサグラダ・ファミリア教会を考えてみればいい。たぶん私たちの世代は、ガウディが始めたその誕生も、次の世紀にかかるかもしれないその完成も同時代には体験することはできないだろう。我々に与えられるのはただ「偉業の制作工程」でしかない。
だからこそ、エヴァンゲリオンのTVオンエアから、今回の終劇までの偉業を全工程で並走し、鑑賞し続けたことにはそれだけの価値がある。なぜなら、それは制作者たちだけでなく、鑑賞者にも大きな苦痛を与える苦行であったからだ。

「たかがアニメだ」という人がいるだろう。その人は、宮崎駿の「もののけ姫」を、同じく、たかがアニメだと評価するだろう。その人は芸術家の魂に触れることができない人だ。

また「芸術とは過去の偉大な作品の事だけだ」という人もいるだろう。同時代の作品を正しく評価しない人のことだ。その人は、宮崎駿の「漫画版 風の谷のナウシカ」を、同じく、芸術としては認められないと評価するだろう。宮崎の12年の創作の苦闘を察しもせずに、他人の評価ばかりを気にして、己が審美眼を信じられない人間だ。そしてそういう類の人は、次の世紀に誰かが傑作だとした時に、意味もわからず崇め奉るのだ。その人に真の芸術を評価することはできない。

マンガでも、アニメでも、ゲームでも、魂を震わせる力を持つ創作物はすべからく「芸術」であり、それを成し遂げた彼らはすべからく「芸術家」であるはずだ。受け手として、われわれはそれを正しく評価できるようになりたい。
クリエイターが、「前代未聞」を生み出そうとした決意し、創作の厳しい工程を経て、完成された作品を見て、心が震えたならば、それはすでに「私にとっての芸術」である。
誰かが決めるのではなく、自分自身が「芸術」を認めるのだ。その気概がなければ、受動的な鑑賞なぞに意味はない。

そのときジャンルやカテゴリーの意味はない。絵画であろうと、小説であろうと、音楽であろうと、いわんや映画であろうと、マンガであろうと、アニメであろうと、ゲームであろうと、問題ない。そこに高尚、低俗などというレッテルが貼られるわけがない。

さて、では庵野秀明が今回、25年もかかってクリエイションした「前代未聞の芸術作品」とはいかなる性質のモノだったのか?

私はそれを「私・小説アニメ」として評価する。エヴァンゲリオン・プロジェクトは、庵野秀明の人生をリクリエイションした壮大な私小説だったのだ。この意味において「前代未聞」の創作物であり、「芸術」なのだ。

アニメは集団制作物であるから、基本はひとりの人間のプライベートな作品にならない。特に庵野世代のアニメは巨額の協働プロジェクトである。冷徹な興業としての営利の論理がプライベートな要素を容赦なく剥ぎ取る。この構造は、ハリウッド映画然り、ゲーム然りだ。
原作や監督または強力なプロデューサーの個性が滲む作品は沢山ある。それを我々は「作家性」として評価するのが常である。それにしても、それが作家本人の全私生活をあぶりだすようなことはない。

しかし、庵野秀明がエヴァンゲリオンで吐露した「私」の裸身は、そのレベルを越えている。まさに「私小説」のレベルで、彼の内面世界が映し出されている。その心の激流を見せられるフロイト的な臨床体験こそが、「エヴァンゲリオン体験」だとも言える。だからこそ「鑑賞者にも大きな苦痛を与える苦行」になったのだ。われわれは患者である庵野に対する精神医の臨床に付き合わされて様なものだったのだ。

そして25年をかけて三度作り直した結果、彼がこの期間に体験した、挫折と復活、栄光と批判。会社を巡る友情、裏切り、再結集。プライベートな生活者としての孤独と出逢い、結婚と安定という、ライフイベントのすべてを庵野は見事に物語に織り込んでみせた。

特に今回の新劇場版が私小説的である点は、ラストシーンが如実に語っている。救世主シンジによって再構成されたエヴァのいらない世界は、庵野の故郷である宇部新川の駅になっている。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」として、すべてを終結させ、新たな物語を紡ぐ場所に、自分の故郷を置いたことで、庵野秀明の25年は報われた。

ではこの長い旅の起点はどこなのだろうか? もちろん、同じ場所だ。

宇部新川の14歳の少年・庵野秀明がこのストーリーの主役なのだ。
少年は一両編成の電車に乗る。ヘッドホンで外界の音を消し去って、自分の孤独に潜るようにして旅に出た。その外界の象徴こそが、父親だったのだ。

NHK「プロフェッショナル」で公表された庵野の父親の人生が、少年庵野に与えた傷は深かったはずだ。
事故で失った片足、世間を恨み、子供に八つ当たりする男。愛されたい、認めてもらいたいという子供らしい望みを拒絶する心の壁。これら全てがエヴァの内部世界につながる。欠損した包帯だらけの身体、ATフィールド、子供を道具としか見ない父親、心の闇にある電車の世界、外界から自分を守るためのDATプレーヤーとイヤホン・・・。

本作のオープニングが「砂の器」もどきになったのは、これを庵野秀明が親子の物語の最終章にするつもりだったからだろう。

この親子は、ある種、砂の器の親子のように、辛い道程を憎しみながら歩んだ。互いを理解することなく、互いを憎みながら。そして、庵野はその決着を今回つけるつもりなのだ。

14歳の少年が60歳になるまでを描いた私小説が、25年かけて綴られたというのが、このプロジェクトの真相だ。

そして、庵野秀明には二人の父親がいた。実の宇部の父とアニメの父だ。
庵野はその両方に決着をつけようと決意している。

宇部から電車に乗った庵野秀明は、東京で二人目の父に出会う。
出逢ったのは当時ナウシカ映画版を制作して苦闘を繰り広げる、宮崎駿でああった。ネルフ本部でシンジが再会する碇ゲンドウはこの宮崎駿が原型だと思われる。

碇にとって、シンジという少年の潜在能力は貴重だった。そして自分の野望を達成するための道具としてそれを活用する。

宮崎駿もナウシカの現場に現れた庵野の才能を瞬時に見抜く。そして二人は協働してあの「巨神兵」を生み出す。そのコラボレーションは、まるでエヴァンゲリオン初号機が起動したときのように化学反応を起こし、アニメ史に残る偉大な破壊シーンが生まれた。

#この巨神兵とエヴァンゲリオンの読み解きは、前回のこちらをお読みください
https://note.com/q_do/n/n9f984be4643c

庵野秀明の職業人としてのアニメの歴史はここに始まる。だからエヴァンゲリオンはイコール、「巨神兵」であり、故に庵野とっての「拘束具」なのだ。

つまり宮崎駿が象徴する前時代のアニメ的な手法の全てが、庵野秀明にとっては「拘束具」であり、それらすべてを破壊し、新たな道を作ろうとしていた。それがエヴァンゲリオンの25年の苦闘の証だ。

その創造の過程が、NHKの「プロフェッショナル」の取材で克明に明かされた。

「シン・ゴジラ」という壮大な寄り道を経て、プリビズや3D、モーションキャプチャーなどで技術的に革新的方法を編み出した庵野は、満を侍して新劇場版で宮崎駿世代のアニメに対抗すべく勝負に出たのだ。

ドキュメンタリーのなかで、庵野が取材スタッフにクレームをつけるシーンがある。僕の表情を追うより、そこで起きている事象を捉えてくれ。それはここでアニメの歴史を数歩先に進めているイノベーションを起こしているという自信がある人間のセリフだ。「君たちは神の奇跡を目撃している。その御業をしっかり記録しなければならない」、そう告げているように見えた。

アニメの父に対する挑戦。新劇場版で庵野が成し遂げるべきことが、ここにもあったのだ。

この読み解きによれば、碇ゲンドウは、宮崎駿である。その人はゼーレのような神々が認めた預言者であり、奇跡の遣い手である。アニメ界の「旧約」の世界に鎮座する存在だ。

この読み解きを進めると面白くなるのが、冬月の存在である。碇ゲンドウと行動を共にし、同時に碇の恩師である冬月は、もうひとりのジブリ創始者である「高畑 勲」ということになるだろう。高畑勲こそ、東映動画でアニメ的な手法を一から学び、現在にいたる絵コンテなどの道具を創り出してきた一人である。この様子は高畑を主体にしたドラマ「夏空」で詳しく紹介された。その意味では、冬月が今回の映画で、超人的に描かれていたことにも興味が沸くところだ。

さらに深読みすれば、渚カヲルの存在も、このアニメ界の「旧約の世界」に読み解きができる。今回の本編では、渚カヲルは第1の使徒であり、同時に第13の使徒だとされる。そして、神々の円環の中に閉じ込められた存在として表された。これはもう、日本アニメの始祖である「手塚治虫」に他ならないのではないだろうか。円環に属して、すべてを超越した渚カヲルの存在にこそ、神聖が漂っていた。

それらアニメ界の神の如き存在に、挑戦する宿命が庵野秀明の世代に課せられていたのだ。

今やアニメは日本だけでなく、グローバルエンターテインメントになり、巨額な投資回収システムに拡張された。鉄腕アトムを作った始祖の巨人も、ディズニーと提携した直系の巨人も、想定をしていなかったレベルに進化してしまった。この堅牢な経済システムの上に何を表現すべきか。そして、自分の世代は、なにが革新できるのか。

このパズルは、複雑怪奇で、誰にも出口が見えなかった。

庵野秀明の周りには、そのシステムを回して金儲けを企む人間たちが群がり、彼を「金の卵を産み続ける鶏」のように扱った。信頼も、信用もできないような醜い状況が何年も何年も続いたはずだ。

その中で、うつ病を抱えながら、自殺まで実行しようとした少年のような純粋な男が、失望と絶望の中で掴み取った言葉が「逃げちゃダメだ」だったのではないか。

エヴァンゲリオンは、この一言のために起動されたプロジェクトなのだ。

アニメの革新を目指しながら、その方法を見出せずに喘いだ人間の心の闇、集まった人間たちに才能を食い物にされる状況に絶望する心の叫び声。

これらが企画の骨格にあるからこそ、エヴァンゲリオンは庵野秀明の内面を克明に反映する「私・小説」の要素を内包してしまったのだ。

加えて、SNSの時代の芸術家に課せられた新たな苦悩も追い討ちをかけた。


自分が創り出したモノを勝手に解釈され、酷評されること、それは前の旧約の世代にもあった、鑑賞者による悪意の攻撃だ。

しかし匿名の一人の声がSNSによって何倍にも増幅して、クリエイターを追い詰めるという事態は、はじめてだった。

この誰も経験したことに事態に庵野世代は直面したのだ。
旧劇場版で賛否両論だったオタクを弾劾するシーンは、こうした新たな状況へ苦悩する芸術家の魂の叫びだった気がする。

こうして庵野秀明の精神状態とエヴァンゲリオン・プロジェクトは、シンクロし、迷走に迷走を続けることになる。庵野自身が悩み続ける限り、その迷走が終わるはずもない。

そして、プロジェクトの制作に巻き込まれた人々は、出口のない一人の人間の心の闇に取り込まれて、更に混迷していった。いかに推し量っても、慮ってもそこに出口はない。なぜなら心の闇を抱いた本人に出口が見えていなかったのだから。

それゆえに、このプロジェクトは全ての関係者が傷だらけなのだ。ここにも「鑑賞者にも大きな苦痛を与える苦行」になった原因がある。

私自身これに似た経験をしたことがある。「ブレードランナー」で有名な小説家フィリップ・K・ディックの「ヴァリス」の読書体験だ。私はこの物語世界に完全に取り込まれた。この小説は、精神を病んだディック自身の幻覚体験と共感するように仕組まれており、この闇に囚われると、現実から遊離する。最終的にその現実から遊離した状況で、彼と同じ神秘体験をする。それはエヴァのコックピットに同乗するかのごとく、「読者にも大きな苦痛を与える苦行」でありながら、至福の経験でもあった。

この経験を踏まえて、エヴァンゲリオンプロジェクトを追い続けた我々も、同じく庵野秀明のATフィールドの内面に入り込み、心の闇を共感させ続けられたのだ、と実感している。

だからこそ、庵野が結婚してよかったと思うのだ。この心の闇を打ち破るには、世界に安野モヨコの安定感と救済が必須であったのだ。

庵野と安野の夫婦の歴史は、カラーという新しい会社とシンクロする。その道程を「大きなカブ」という映像にまとめられていて興味深い。

参考 https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%81%8a%e3%81%8a%e3%81%8d%e3%81%aa%e3%82%ab%e3%83%96%e3%80%80%e3%82%ab%e3%83%a9%e3%83%bc&docid=608015061844954547&mid=0377B61870320A012DFC0377B61870320A012DFC&view=detail&FORM=VIRE

今、SNS上では、新劇場版の読み解きが盛んだが、本論はそれを目指していない。ただここでは、ひとつだけマリの存在に触れたい。新劇場版に新たに追加されたキャラクターのマリこそ、安野モヨコだと思うのだ。

宇部の父にリンクする母の要素を持つ綾波レイでもなく、アニメ界の革新を共に戦う初恋の人・アスカでもなく、新たに登場したマリが、シンジを救う。

すべてに決着をつけ、世界をリビルドして、すべての人々を救った少年は自分を犠牲にしようと思う。自己犠牲の上に世界を救済する決意をする。そこにマグダラのマリアが現れる。そしてマリアが救世主を探しだし、ついには救い出す。ふたりは宇部で新しい生活が始まる。

前回、私は、碇ゲンドウをキリストと見立てたうえで、エヴァンゲリオン・ストーリーを「ノアの箱舟」として解釈した。その主役であるノアの夫婦は、シンジとアスカだとしたのだが、この組み合わせは心地よく裏切られた。それは旧約の世界の方法であり、新約を始めた庵野は、マリを選んだのだ。

そこにはマリを「胸の大きないい女」として、評価できるほどに成人した男がいた。彼は大人として覚醒し、主体的にマリの手を引いて走り出す。これが、25年間、一人の男の心の闇に付き合わされた我々に与えられた一条の光だ。なんと清々しいモノなのか。

このラストシーンで、25年の苦行は、最後に至福になった。これが芸術でないとしたら、なんであろう。

これを認めなければ、我々の世代は後世に残すべきモノを持たない世代になってしまうだろう。

庵野秀明は25年の時をかけて、アニメの世界に「新約」の世界を拓いた。それは旧約のアニメ世界にいる手塚治虫でも、高畑勲でも、師匠の宮崎駿でも成し遂げられなかった、新たな世界である。

我々は、この物語を「芸術」の私・小説アニメとして伝承していくのだ。


 *参考『シン・エヴァ』庵野秀明とジブリ・宮崎駿、“師弟でありライバル” という不思議な関係

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81423?page=1&imp=0


#シン・エヴァンゲリオン劇場版

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