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映画激論 「天気の子」

エンターテインメントとしてのヒットと作家性の両立。ヒットメーカーという存在は、常にそのバランスに悩む。

アニメ史上最大ヒットの「君の名は。」に続く作品を作らなければならない新海誠監督には、それは大きな悩みであったはずだ。「天気の子」で新海誠はこの板挟みの中で悩み、もがき、そして解放される。ただ、それがヒットに結びつくかはわからない。

エンターテイメントとしての目標はシンプルだ。前作が250億円となれば、それ以上が求められる。及第点でも100億円越えだろう。この数字を背負って結果を出し続けたヒットメーカーは宮崎駿監督だけである。同じジブリの高畑勲監督ですらそこまでの追い込まれ方はされていない。押井守も庵野秀明も細田守も同様だろう。

「君の名は。」制作時あたりから、「自分たちにバトンが回ってきている」という感覚があります。高畑勲さんや宮崎駿さんから受け取ったなんてことではなくて、言いたいこと、書きたいことがあり、それを世の中に発表できる環境にあるということです。バトンを持っているなら走り続けないといけない、そんな気持ちでいます(新海誠 朝日新聞インタビュー2019年7月21日)

さて宮崎駿にはスタイルとテーマがある。アニメーションならではの疾走感・浮遊感と体制批判である。宮崎監督の悲劇は故に、ヒットすればするほど反体制から離れ、体制にすり寄る形になることにある。だからこそ、ハリウッドメジャー第1作に「もののけ姫」という難解な日本的な作品をぶつけた。宮崎監督の反骨精神の躍如であろう。

独自のスタイルとテーマは、扱いが難しい。それにこだわり続けると、二番煎じレッテルを貼られ、飽きられてしまう。逆にそれを捨てて、新規なものばかり続けると、オリジナリティの欠如、一貫性がないと批判される。

さて新海作品のスタイルとテーマとはなにか。

いろいろな分析はあるとして、私は風景・天候描写とSFにあると思う。

風景・天候描写については諸々の評論で分析されている。私は特に「版画の伝統」に基づいたレイヤー処理にその作家性を見出す。新海誠展で明らかにされたデジタルレイヤーの多層化が、彼と彼の制作スタッフによる独自の風景・天候描写を確立している。それはまさに版画と同じ手法であって、分業体制を引いて、原画を分解して、色の版ごとに作画し、刷版にし、摺る工程の現代版だ。

今回注目したのは、新海誠のSF作家性だ。SFといってもここでは、ロボットや宇宙人、怪獣が出てくるような世界観ではなく、ハイラインや「リプレイ」、「ブラッドミュージック」などの文学的なSF作家たちに系譜を想定している。

隕石衝突、パラレルワールド、時空のズレなど「君の名は。」は、ストーリーギミックとして、SF的な要素を最大限に活用していた。過去作品には「雲の向こう、約束の場所」や「星を追う子ども」など、まさにSF的な作品もある。

今回の「天気の子」が特徴的なのは、テーマにどっしりと「気候変動」という科学要素を置いたことだ。

テクニカルな風景・天候描写とは別に、今回の作品では天候そのものが作品のテーマになった。その名も「天気の子」なのだ。

温暖化・亜熱帯化、ゲリラ豪雨など、観測史上では推定出来ない事態が続く。その原因がなんにせよ、我々はそうした世界に住まなければならない。その覚悟を問おうという意欲が、作品から滲み出る。それこそ同時代のSF作家の志だ、と思う。

しかしなんとも今年の天候は、この映画にはあつらえ向きではないか。長梅雨そのものが映画の効果的なプロモーションになっている。梅雨明けしたとしても、猛暑、ゲリラ豪雨や台風などでこの映画を想起するお天気は多いはずだ。日本の気候は確実に変わっている。そして40度を超える気温を記録する欧州都市が出ていることからも、世界中に気候変動の大波が到来しているのは事実だ。これをどういう視点で、どう訴えるかが、SF作家の力量である。

ブレードランナーばりに、雨が降り続く陰鬱な歌舞伎町、親に頼らない最底辺の暮らし、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を愛読する家出少年、風俗まで覚悟する15歳の少女、およそアニメらしくない舞台設定が、新海監督の答えだった。

さらに過去の「雲の向こう、約束の場所」などの作品を通じて、「サクリファイス・生贄」というテーマが、新海作品には見え隠れする。「君の名は。」でも、三葉が巫女という設定、口噛酒などの設定に「生贄(いけにえ)」の暗喩が見てとれる。その「サクリファイス・生贄」という問題への回答が、新たに提示されたのが今回の「天気の子」だと思う。

同じく天候を描いた宮崎作品の「天空の城ラピュタ」などに見られる、アニメならよくある運命の子が、巨悪と立ち向かい、自らを犠牲にすることで、世界を救う、しかし神は自己犠牲を覚悟した主人公に恩寵を与えるという漫画映画らしい大団円を迎える、ありがちなハッピーエンドに対して、新海は、新たな回答を提示する。

「終盤、帆高は大きな決断をして、それによって世界のかたちを変えてしまう。賛否が分かれると思いますし、許せない人もいるだろうし、似たような経験をした人を傷つけるかもしれない」同インタビューより

多分、この結末は賛否両論を生み、新海自身は否定派が多いと考える。だが、そこにあるのは、SF作家としての気候変動に対する諦観と、その世界に生きねばならぬ世代への応援メッセージなのかもしれない。

「世界はこんなになってしまった。でもなんの根拠もないけど「大丈夫だ!」と若者には言ってほしい。僕もそれを聞きたい。そんな思いを込めました」同インタビュー

その応援歌に対して、若い世代がどう反応するか、それがこの作品のヒットの命運を握っている。













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