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「数学」と「わたし」

 ペンネームq3wです。X(旧Twitter)では到底書き切れない内容量の文章が書きたくなったので書きます。「わたし」が「数学」に恋をしてしまった話を書きます。
 筆者は大学院数学専攻への進学が決まっているB4の数学科の学生という感じです。だらだらとてきとうに書くだけなので、見たい人だけ見てください。結構、自慢話も多い。ある程度できた経験がないと数学科の大学院行こうとか思わないのでそれが原因だと思います。見ててイライラするかも。ワロチ~こいつイキッてるわwwwって思える人だけ読んでください…


・「算数」

・小1:「算数」との出会い

 小学校に入学し、算数に出会った。幼少期に特に数学的なパズルをたくさんやっていたわけでもなかったので、「わたし」が初めて算数を勉強したのは小学校1年生の時だったと思う。当時、「国語と算数どっちの方が得意?」と聞かれたら、「算数」と答えていたように思う。クラスの中でも計算は早いほうだった。ただ、子供のころからレゴとスターウォーズが好きでゲームをやるなどよりもよく遊んでいた。レゴは幾何学的な視野を装備するという面では教育的な価値があるかもしれない。

・小2:「算数」初めての危機

 皆さんは覚えているだろうか?2009年の冬、新型インフルエンザが流行した。当時、わたしは小学校2年生ちょうど、九九をやり始めた頃だった。積という演算が定義され、ということを知るのはまだ先の話だが確か2の段までやって学級閉鎖になったように覚えている。学級閉鎖になり翌日発熱。新型インフルエンザの検査は陰性だったもののおそらく、新型インフルエンザに感染していたと思われる。事件は、熱が引いてもう少しで療養が終わるというタイミングで起った。夜中に突然、猛烈な頭痛に襲われ、大量にもどしてしまい救急車で緊急搬送されるという事件があった。記憶ももうずいぶん前で定かではない部分もあるが、その後、「偏頭痛」のきつい状態だったと分かった。1週間ほど入院して退院したものの、その後、1ヶ月~2ヶ月ほど、本調子じゃなかったことを覚えている。なので実はその間、小学校に行けなかった。行けなかった間に小学校の「算数」で勉強していたこととは、そう九九の3の段以降である。当然、分からずに撃沈する予定であった。しかし結果的にはそうはならなかった。実は、入院期間から療養期間にかけて、少しずつ九九カードを作って覚えていた。難しい段の九九は絵本を読みながら覚えてたということもあった。その結果、学校に復帰し九九の段をほとんどやっていないのにも関わらず、九九を先生の前で暗唱するというテストに早々とパスしてしまった。このことを担任から聞いた両親が中学校受験に野望を抱くのはまだ先の話となる。

・小3~小5:算数(中学校受験以外のこと)

 九九をなんなくクリアした「わたし」はその後、おおよそ小学校の算数で躓いたことはなかったらしい。先取りの段階で、時計の見方と、L(リットル)をkg(キログラム)に直す系(単位変換)の問題で苦戦していたこともあったようだが、小学校の先生の授業を聞いてしっかりと理解できていたそうだ。
 「わたし」は小学校6年生まで岐阜県のとある場所で育った。小学校3年生になって高い偏差値の岐阜県の高校の進学を目指す塾に入塾した。その塾の算数の模試で4位/200位とかを取ったこともあるらしい。今は見る影もない。ただの過去の栄光だ。とにかく算数はよくできた(らしい)。ルービックキューブもそろえ方を覚えて小2ではできていた。いまでもそのそろえ方は覚えている(ただし時間がかかる)。またその頃に将棋を覚えたそうで、並べ方を父親に教わり一発で覚えたとのこと。ストーリーとしてはこんなものだろうか。

・小6:算数(中学校受験にチャレンジ)

 大学生になって塾の個別指導でアルバイトをし始めて、ものすごく感じることが、算数の成績が良い子は中学校受験しても良いのではと思う。国語・理科・社会は本人の努力でどうにかなるが、算数はどうにもならないことor何をしなくてもできる場合が大いにあると感じる。両親もそう感じたようで算数はどうにかなりそうだから、中学受験させても良いかと考えたそう。そこで岐阜県(東海地方)の私立の中高一貫校を受けさせてもらえたら楽だったがそうはならなかった。両親の実家が京都であり、岐阜県は父が仕事で来るために来てそこで「わたし」が産まれたそう。そのまま岐阜県に居住して12年の歳月が流れているという状況だったいろいろあって、実家のある京都に帰ることを両親が決めた。そんな中での中学受験だったので制約がいくつかついた。
①受験勉強は小学校6年4月~2月
②中学受験用の塾に通わすことはできない
③対策本も市販のもの
④社会は100%自力
 まあ、なんとかなるやろと思って最初に受けた中受用の模試では理科は偏差値29、得意であるはずの算数も難しい計算や中学入試特有の問題に苦戦させられ全く点数が取れず偏差値40であった。(最近、実家でこの頃の話題が家族内で上がり確認したところそのような結果だった)最近バイト柄中学入試の問題を見ることがある。群数列が出題されてて笑いそうになった。中学受験はなんでもありみたいな状態で、算数においてはシンプルに頭の善し悪しを判断するためのテストになっている可能性が高いと思う。
 いろいろやばかったが、某私立の中高一貫校に合格した。
~が本当の地獄はこれからだった~

・「地獄の中学数学」

・中1~2:当時の「わたし」と中学校の状況

 先ほど、小学校の時に時計の見方で苦戦したと書いたが、「わたし」は小学校3年で勉強することは小学校3年で勉強しないと分からない。先取りで小学校2年で勉強しても分からないというタイプの人間だった。万が一、子育てをするならば、「わたし」は注意しようと思っているがこいういタイプの子はあまり中学受験をオススメしない。理由は中高一貫校の数学のスピードがたんに早いからである。中学1・2年ですべての中学範囲を終わらし、中3で数Ⅰを始める中高一貫校は多い。だからこそ先取り学習が苦手な子は中高一貫校には不向きなのである。「わたし」はタイプから鑑みても落ちこぼれとなった。
 また、まわりのレベルも高かった。京都や関西でのトップの私立の中高一貫校の滑り止めとなっていたので、生徒のレベルの差が激しく、中学2年のタイミングで「数学」と「英語」が学力別編成となった。当然、学力が低いとされたクラスに数学・英語ともに配属された。まわりにモチベーションの高い人はおらず、ゆったり中学生活を過ごした。

・中1~2:ほんのわずかな希望

 当時、わたしは文字式の扱い方や分配法則の扱い方や連立方程式の解き方すべてがよく分からなくなっていた。なので数学の定期テストでも45位/60位ぐらいをさまよっていたように思う。ただ模試になると偏差値の高い回がちらほらあった。先日、4年ぶりに母校に教育実習に行った。そこで多くの「数学」の先生方の授業を見学させていただいたのだが、その中で全く習ったことがなかった先生に、「○○(わたし)くん?覚えてる笑。有名だったもん笑」と声を掛けられた。なんでも教科会議で何度か不可思議な偏差値を取っていた「わたし」が話題にあがることがあったそう。学校の先生は本当に生徒の端から端まで見ていらっしゃるんだなと感じた。とにもかくにも、当時の「わたし」は成績の波があり、どちらかというと悪い方向で推移していた。

・中3:覚醒(中3ラスト)

 とはいってもテストでは下位常連だった「わたし」に転機が訪れたのは中学3年の2学期だった。何気なく返された模試を見て驚いた。数学5位/50位、国語・英語は最下位(笑)←あかんだった。思わず驚いて不思議に思ったがそれまで点だった知識が線で結ばれ、領域に進化して行くタイミングがあった。なんとなくそんな気がした。当時勉強していたのは三角比だったが、なぜ知識が繋がったのかはいまだによく分からない。とにもかくにも模試や定期テストで軒並み上位に入り、中学のラストで学力別編成で初めて上のクラスに上がった。

・「いろいろあった高校数学」

・高1:低迷(高1はじめ)

 高校に入って、数学・英語だけでなくクラス毎学力別編成となった。当然、数学が多少できても他の科目が壊滅してさようならしてしまった「わたし」は下のクラスに配属された。下のクラスに配属され唯一良かったことは、定期テストで苦労しなくなったことだった。部活を高校から新しく始めたきっかけもあり、高校から入学した(勉強に対してまた違ったモチベーションをもつ)友人にも恵まれ、定期テストは勉強するようになった。数学に関して言えば授業のスピードも遅く退屈して、授業中にパズドラをするカスだった。そんなことをしていて罰が当たったのか高1の1学期の期末テストで解と係数の関係の問題を軒並み誤答し、定期考査で50点を取り、下のクラスの数学の平均点を切るという失態をしでかした。さすがにまずいと思った「わたし」は2学期中間は勉強を結構した。しかし中々点数が伸ばせず思うような結果が出せなかった。2学期期末巻き返すぞと思っていたところで事件が起きた。

・高1:2学期期末テスト保健室受験事件

 単刀直入に言うとテストの前々日に39度を超える熱が出た。喉風邪をこじらせ、テスト直前期にテスト勉強ができなかった。試験当日も調子が治らず一日目の現代文と生物基礎を保健室で受験するという事件が起った。当然本調子じゃないからテストの結果も悪いだろうと思っていた。しかし、なぜか「わたし」は数学Ⅱ・数学B・物理基礎・化学基礎でクラス1位を取った。極めつけは古典でクラス3位という意味不明な事態まで起った。当時なぜそんなことが起ったか分からなかったが、部活の友人が成績を急激に伸ばしており、それに触発されたのかもしれない。真偽は不明だ。テスト範囲はやはり数Ⅱは「三角関数(笑)」、数Bは「ベクトル(笑)」だった。運命なのか。今研究内容でとてもお世話になっている2つの分野が、数学を大きく復帰させるテスト範囲となった。この結果を受けて理系に進むことを決心した。実は、世界史Aの内容が好きで文系で歴史学ぶのもありだなと思ってたことがあって文理選択悩んだことがあった。でも結局、理系にした。

・高1:失恋3学期学年末テスト(詳細略)

 若かった(笑)。授業聞く気にならなくて学校にも数日行かなかった。(天の声:失恋の引きずるしつこさは大学入っても変わらんみたいやね…笑)
数学B数列の漸化式分からなくなった。それでも数学は意地でクラストップを維持した。他は全滅。古典31点をたたき出し、クラス最下位に転落した笑

・高2:得意分野が欲しいなぁ(願望)

 題名の通り、定期テストでは数学・物理・化学で高得点・高順位を取っていたものの模試ではちょっと良いぐらい。私立だったので、放課後講座があり、その放課後講座で元カノに数学のテストで負けたことが悔しくて夏休みに数学ⅠAⅡBを復習する。数学だけ、100時間ぐらい勉強した。夏休み明け成果が現れる。
進研模試(数):偏差値55→70
全統模試(数):偏差値48→65
夏休み明け元カノにも勝つ!
この後、
ノー勉でクラス一位を数学で取ることが「わたし」の趣味となった。
わたしの所属するクラスのテストでは、わたしが悩める問題が出題されるようになり、例年に比べテストが難しくなりまわりの人が数学のテストで苦しむ等した。
以降センター試験直前期まで、数学を勉強しないというムーブメントをかました。なぜなら英語を勉強しないといけなかった。

・高3:公募で不安を覚え、センター爆死する

 敗因:英語をやり過ぎた。数学は授業である程度対策としてたが甘かった。公募で限界を感じ、センター対策をする。計算力落ちすぎて爆死。
国公立E判定ばっか(泣)
ここまで読んできたわたしの自慢話に飽き飽きしていた読者「ざまぁwww」

本人の心は結構泣きました。報いを受けたので許してください。
といっても敗因はいくらでも検討可能だった。まず、予備校に行かなかった。これは失敗だった。世の中の受験生がどういった姿勢で受験勉強にいそしんでいるか確認すべきだった。進学クラスでなかったことも、大きい。しっかりみんな指定校で関関同立行っていたので比較する相手を間違えていた。勝負すべきは全国の国公立プレイヤーだった><
 実は数学との物語はここからまた始まる。

・高3:~国公立2次に向けて~

 出願は某地方国立大学理学部の地学系数学ⅠA,ⅡB,Ⅲのみで受験でき、2次逆転できる可能性があった。センター試験終了後の1ヶ月、「わたし」は250時間数学に向きあった。大学入学後、数学で困ることがなかったのはこの期間のおかげだと思っている。とにかく朝8:00から夜20:00まで高校に行って自習室で勉強していた。いろいろ勉強すると気づいたことがあった。中間値の定理と平均値の定理、授業でやったっけ?である。実は、数Ⅱの半角の公式も授業内では省略された。その半角公式を数年後教育実習で誰が教えることになると思っただろうか?いや思わない。とにもかくにもいっぱい問題を解いて明け暮れた。

・高3:~国立2次本番~

 朝から、もどしましたwww 地方なので前日入りしてたんだけど、朝起きると気持ち悪くて体調が壊れちゃいました。あらぁぁ。そんな中150分かな数学してきました楽しかったです笑(嘘)、確率なにあれ、終わってる。無理だよ。予備校の解答速報も軒並み難化とのこと。うーん。人生そんなことあるんだろうけど、ちょっと…マジかという感想。とても悲しかったです。
悲壮感漂う中、僕は滑り止めで合格をもらっていた私立大学 理学部 数学科に進学した。数学との思い出(前置き)はこんなもんかなぁ~

・大学入学とコロナの流行

・大学1年:入学と数学と病み期

 記憶にある現4回生は多いのではないだろうか?大学入学と同時にコロナが流行し、憧れていたキャンパスライフはストップ。新歓もほとんどなくただ目の前のパソコンと向き合って、オンライン授業に明け暮れる日々。
1ヶ月ほど外に出ない時期もあり、あの当時は本当に辛かった。
 入学後、一般教養と数学を主に履修していた訳だが、毎回1日しか期限のない線型代数の演習の授業がしんどかった。あの演習の授業で行列や行列式の基本的な計算を理解できたことは後にとっても良かったことだったが、本当にきつい授業だった。たまに、もしコロナが流行らずに例年通りの大学だったら「わたし」の人生はどうなっていただろうと考えることがある。多分教職も途中で辞めてたし(もともとやめるつもりだった)、数学も要領よく勉強して大学院には逝かず、一般企業に就職していただろうなと思う。それがいつのまにか数学・情報の教員免許も取得し、大学院に逝く人生を歩むとは少なくとも高校生当時の「わたし」はほとんど想像してなかったと思う。
 とにかく、大学生らしい生活を知ることが大分遅れてしまったという事実が残った。バカ真面目に授業動画をぜんぶ見ていたし、課題もほとんど全部提出する大学生活が定着してしまった。それが良かったことなのかそうでないことなのかは今もよく分からない。もう少し要領よく手を抜いてやれよ(笑)と当時の「わたし」に言いたくなる気持ちもあるし、あの頃はあの頃で精一杯頑張っていたのかなとも思う。
 秋学期になって、大学にも行けるようになり大学で友達ができたこともとても印象深く残っている。それぐらいあの時代を生き抜くことは辛いことだったし、こうして大学卒業を間近にするととても感慨深いなとも思う。なんだかんだ真面目に大学に行って真面目に課題を提出するという大学生活を実行していたと思う。数学科を卒業して明確な目標がなかったこと・就職活動で苦戦する可能性を想定して、中学数学・高校数学の教員免許を取得することを決めた。秋学期になってベクトル空間???線形写像???大学数学特有の集合論の書き方・考え方に苦戦した。

・大学2年:(春学期)

 前年度に、ベクトル空間と線形写像で???ってなったので線型代数の授業は意識的に勉強したのを覚えている。ちょうど、ベクトルの正規直交化とかその辺をやり始めて、なんか面白いなベクトルって。便利だな。研究テーマはこういった社会でも役に立ちそうな内容を研究テーマにしたいなとぼんやり思った記憶がある。その引き換えに多変数の微分積分???ってどんどんなっていった。後に院試対策で最後まで苦戦させられる。前年度に引き続き、教員免許取得も頑張ることにした。当時、教員免許が更新制だったものを廃止して、一度取ってしまえば永続的に資格を有するということも大きな後押しだった。そしてこのときから情報の教員免許も取得することを決めた。コロナ渦で明らかにパソコンやタブレットを使いこなす人口が増えたし、情報の授業の必修化と共通テスト実施の噂があり、取っておけば需要があるのであれば取っておこうという軽い気持ちだったと思う。後に確率・シミュレーションというC言語のプログラミングの授業で苦しめられるとは知らずに….
 前年度の秋学期から、一人暮らしをしながら相変わらず、授業も真面目に行って課題も真面目に提出する真面目ちゃんだった。でもだからだろうかそろそろ友達を超えた人も欲しいなとぼんやりと考えている時期だった。

・大学2年:波乱の秋学期~cooming soon~

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