見出し画像

どうしてこんなにも生きづらいのだろう

私はときどき、どうしようもなく、生きるのが下手だと感じることがあります。生きるということは、ほとんどイコールで社会に迎合し、適応して生活をするということです。そしてこの「社会への迎合・適応」というのが、どうしても自分には向いていないと感じることがあります。

常にそれを感じているというわけではなく、その時の心情や状況など色んなものが重なったときに「やっぱりどうにも生きづらいなぁ」って感じることがあるといったというかんじ。

とはいえ社会に迎合している”フリ”はできるし、適応能力がないわけでもない。私のことを知っている人からすると生きづらさを感じているようには見えないでしょうし、もしかするとうまくやっているようにすら見えるかもしれません。

先日久しぶりに太宰治の『人間失格』を読みましたが、葉蔵が人間という生き物に対する底知れぬ恐怖を感じながらも、”道化”を演じることで生き抜いていく様に少なからぬ共感を抱くくらいには、私はこの世の中で生きることに息苦しさを感じている人間の一人です。

具体的なところで言うと、「めちゃくちゃ気にしい」なんですね。
特に「相手を傷つけたかもしれない」というところに関してはすごく気にしてしまう。子どもの頃は無邪気に思ったことを発言し、感じたままに行動していました。それで相手を傷つけたことも何度もありました。

よく「いじめた側は覚えていないが、いじめられた側は一生忘れない」と言いますが、私の場合は誰かに傷つけられた記憶はほとんどありませんが、傷つけたことは苦い記憶として今でもこびりついています。

大人になってからは不用意な言動で相手を傷つけるということはだいぶ減ったと思いますが、そこに敏感になりすぎて過度な「気にしい」が発動されるようになりました。

自分のちょっとした振舞いや言葉の言い回し、相槌の打ち方、リアクション、表情などで「やっちゃったか…?」と後悔して反省することはしょっちゅうです。

家に帰ったあとや寝る前、ふとした瞬間などに思い出して「あーもっとこうすればよかったな」とか「こんな風に思われたんだろうな」とかウダウダ考えてしまって、ひどいときは数か月くらい引きずったりします。

けれど相手を傷つけても何も感じずのうのうと生きるくらいなら、よっぽどこの生きづらさを抱えて生きていく方が自分にとってはマシな気がします。

なかには客観的に見ても明らかに生きづらさを抱えているというか、いわゆる「社会が求める普通の人」になりきれず、かといって突出して何者かになれているわけでもないという人も一定数いるかと思います。

別にこれは能力の問題ではなくても(能力の問題もあるかもしれませんが)、当人の信念や思想として「そうならない」と決めている人も少なくないでしょう。「自分を曲げてまで、仮面を被ってまで社会に迎合する必要はない」と割り切っている人たちですね。


いずれにせよ、表面上”道化”を演じれているかどうかにかかわらず、それが自分の特性ならば受け入れて生きていかないといけません。「生きづらさ」を感じているからといって楽しく幸せに生きていくことを諦めてはいけない。

その生きづらさを逆手にとってどう上手く使っていくか。自分をどうやって変えるかよりも、そんな自分だからこそ実現できるより良い人生はどんな形があるか。
こうしたことを深く考えて、この生きづらい世の中を愛してみるのも、未来の自分への心配りになるのではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?