狂喜乱舞する先生は罪なのか…
幼稚園運動会にて
年長のクラス対抗で行われたリレー
湧き上がる興奮
各クラスの園児達は一丸となって、順位の変動に一喜一憂しながら声援を送っている。
みな飛び跳ねたり、小さな身体をいっぱいに動かして応援している。
あるクラスの担任の先生は、表現豊かで、動きもダイナミック、感情を表現してグラウンドのなかで一際目立っていた。
そして…感動
結果はといえば、そのクラスが男女でそれぞれ1位と2位だった。
担任の先生は、喜びを体中からほとばしるように表現して破顔していた。
狂喜乱舞する先生を中心として、園児が一生懸命になって競技し、応援している姿になんだか感動した。
ほぼだれも知り合いもいない集団に対してだったのだけれど。
感動していてよいのか
おそらく私だけでなく多くの観覧者をも心揺さぶるリレーだったのだと思う。
しかしそんななか、
ここで、
他のクラスの子供達はどう感じたのだろう?
という意見が聴こえた。
たしかにそのような意見は理解できる。
競争の是非から手を繋いでゴールする、かけっこや、順位をつけないなどの取り組みは一時期話題になった。
そのような考え方もわかる。
今回のケースは
上位を、1位を目指して取り組むということが、モチベーションに繋がったのではないか、先のクラスは先生を勝たせてやりたい、喜ばせたいというような気持ちが頑張ろうというモチベーションに至ったかもしれない。
そこでもしも今回、順位はつけないリレーの練習であったとしたら、園児らはどこまで頑張ろうと思えただろうか。
スポーツはエモい
スポーツファンの方、怒らないで聞いて頂きたい。
自粛期間中に、プロ野球やJリーグに関連するニュースを聴いていて、正直いまはそんなこと言っている場合じゃないじゃない…
と思っていた。
それでも私という人間は勝手なもので、今では、ラジオから流れてくる今日のプロ野球の勝敗や、現在の順位に聴き耳を立てている。
結局は、スポーツにはエモーショナルな心突き動かす感動が内包されている。
運動のイベントのアドバンテージ
運動会の話題へと戻る。
子供のなかには、運動がとりわけ得意ではないといった理由から、運動会や体育祭には意味を見出せなかったり、やること自体が無駄なのではと思ったりする子もいる。
その子がもし勉強が得意だったとしたら、
自分の得意を発表出来る場があったらなぁ〜と思ったとしたらどうだろう。
しかし悪く言いたいわけでは決してないが、
数学オリンピックや生物オリンピックなどが、甲子園や高校サッカーのように多くの人々を惹きつけるのか、正直なところそこまでには至らないことは明らかだ。
もちろん歴史や伝統、文化としての浸透度や認知度などが理由としてあるのかも知れない。
しかし結局は、観る側が強く感動を憶えるのはスポーツだ。
それは否定のしようがない。
リレーの結末が違っていたら…
幼稚園のリレーの話に戻る。
大喜びしていた先生は、もし最下位であったとしても、間違いなく子供達と思いっきり悲しんだだろう。悔しがっただろう。あるいは泣きじゃくったかもしれない。
甲子園だって負けたチームが涙流しながら土をシューズバッグへと詰め込む姿はお決まりとはいえ、感動を呼ぶ。涙を誘う。
前出のリレーで勝てなかったチームの子供達のことを案ずるという
他のクラスの子供達はどう感じたのだろう?
という意見は本当に思いやっていることになっているのだろうか。
本当に負けたチームの子供達は、喜んでいた先生によって傷ついたりするのだろうか?
私は以下のように考える。
それぞれ帰属しているクラスの先生達のカラーがあり、それぞれの先生の表現の仕方や子供達への伝え方があると思う。
件の先生が相対的に目立っていたため、皆の目が行ったに過ぎない。
もし大喜びしている先生のような行動が(多くの観客の心を掴んだとはいえ)良いと他の先生も同様に思うのならば、似たような行動を取ろうとしたかも知れない。大きな声で、大きなジェスチャーで。
そのような行動を子供達も欲していると思うのならば特に。
だが実際はそのようになってはいなかった。
だから担任ごとに全く表現方法に違いがあるのには、それぞれが大切にしているカラー(教育方法、コミュニケーションなど)に依拠しているのではないか。
そこへの配慮をしていれば、単純に前述の先生の行動を非難できるのではないと思う。
そして万が一、大喜びする先生によって、悲しみがより増強された他の負けたクラスの子供がいたとしても、それはそれで運動会の悔しかった思い出の一コマになるに過ぎないのではないか?
それぞれが取っていた行動などから個々人の想いを想像してみることがまずは重要なことなのだと思う。
時計の針を巻き戻してみる
今回このコロナ禍において、短縮開催や観覧方法の大幅な変更(3密対策)のなか、協議の上、順位をつけるクラス対抗リレーを開催することになったのだと思う。
その意図は様々であると思うが、決定したことを受け入れることがまずは必要であると思う。
その前提で考えると、各クラスは首位を目指して練習に励んできたことだし、
当日までの日々を考えると、担任も園児も力籠もった力走、応援になるに違いない。
であるから、表現の仕方は様々であって良いので、先生方が狂喜乱舞することこそが必要なことなのだと思う。その姿勢を園児へと示すことも必要。
そして園児も一生懸命飛び跳ねて応援して、喜んだり悲しんだり。
それこそが一生懸命、クラス一丸となって頑張って取り組んできたことの証左なのだと考える。
運動が嫌いな子も運動会がいやだった子も、その子なりに受け止めて向き合ったと思う。自分が順位を落としたと落胆したとしてもまた他の子が巻き返す。
実際、我々も手に汗握るようなシーソーゲームであったのだから。
他のクラスの子供達はどう感じたのだろう?
一見すると、平等に思いやったような言葉に聞こえるが、実は今回のコンセプトや園児、先生達への尊厳を怠った言葉なのではないかと私は考えた。
おわりに
自分の子供が関与もしていない競技で、何を息巻いているのかと思われもするかもしれないが、自分なりにじっくり考えるキッカケとなった。
スポーツはやはり感動できるコンテンツなのだとあらためて痛感した。
よって、心から感動できるための準備づくりが大切であることも。
幼稚園の運動会も然り。
そしてオリンピックであっても然り。
心から、安心して、感動できるようにするためには今の状況でどうすればよいのか、難問ではあるかもしれないが、じっくりと考えて皆が納得できるように。
他の国の人達はどう感じたのだろう?
なんて後々思わなくて済むような大会にならんことを願う。
おしまい
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