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何を見るかより、どう見るか

近年は福袋準備や初売りなど慌ただしく過ごしていた年末年始、久しぶりに何も予定がなくのんびり過ごした。

小学生のころは新年を迎えるとわくわくして希望に満ちあふれていたものだけれど、中学生のころくらいから年をまたいだだけでは大きな変化は起こらないということに気づいてしまった。
たぶん、年が変わったからといってスイッチを入れるのが性に合わない、ちょっとひねくれ屋。

ショッピングモールで働いていたころは、常連さんと年末年始の挨拶をするのが心温まって好きだったし、初売りでお客様がご機嫌でお祭りのようだったのも楽しかった。

しかしクリスマスが終わったら年末!年越し!新年!というスピード感に心がついていかなくて、毎回ふわふわした気持ちのまま年末年始が過ぎていってしまう。ええっ、待ってよ、そんな風に思っているうちにお正月が終わり日常が始まるのだ。

そんな私にもお正月の楽しみはある。それは箱根駅伝。
母親が駅伝ファンなので小学生のころから毎年1月2日と3日は必ずテレビで観ていた。
近年は仕事で観ることができていなかったが、今年は久しぶりに全て観ることができた。
三浦しをんさんの箱根駅伝を描いた小説「風が強く吹いている」を読んだばかりということもあり、駅伝熱が高まった状態で1月2日を迎えた。

大手町をスタートし、街から海へ、海から山へ。
鶴見、戸塚、平塚、小田原、各中継所。権太坂、湘南の海、芦ノ湖、遊行寺の坂…有名なポイント。名前を聞くだけでわくわくした。

レースの展開は割愛する。まとめるのが上手な人にお任せしたい。

今年久しぶりに箱根駅伝を通しで観て感じたのは、自分自身の箱根駅伝の観かたは年齢によって変化してきたなということ。
小学生のころは、レース展開についていくので精一杯だった。
中学生のころは、あんな風に走れるのかっこいい!もっと速くなりたいと思った。
高校生のころは、選手のフォームや各校の駆け引きに注目していた。
今年は、選手や監督の気持ちを考えたり、各校の目標や今までとこれからに思いを馳せたりした。

「走る」ということから「誰がどんな想いで走るか、走りがどう繋がっていくのか」ということに興味の対象が変化したのだ。
競技をしているか否かということも、年齢や経験もあると思う。
走りやレースそのものより、ストーリーを重要視するようになっていた。

彼と箱根駅伝の話をしたときに「どうしてそんなに苦労してまで箱根を走るのか」という趣旨の疑問を投げかけられたことがある。
そのときはとっさに「箱根駅伝ってそういうものなの」なんていう答えになっていない返答をしたし、運動や陸上競技に興味があまりない人には理解してもらえないのかも、と思ったけれど、今なら答えられる気がする。

襷を繋ぐ。仲間の想いを繋ぐ。先輩の想いを受け継ぎ、自分たちの想いを後輩に繋ぐ。みんなで走る。そこには悔しさや辛さ、痛みも伴う。それでも走ることを諦められないから、走り続けたその先の景気が見たいから、走る。そんな姿に胸打たれ、ストーリーに魅せられる人がいる。その人たちが走って襷を繋いでいく、それが繰り返されているのだと。

これは箱根駅伝に限らないと思う。スポーツでも音楽でも文学でも、なんでも共通するものだと思う。世の中に素晴らしいものはあふれている。どれだけ時間があってもその全てを見るのは不可能と言ってもいい。
この世の人やモノにはストーリーがある。何を見るかよりも、どう見るか(いかにストーリーを見て感じるか)が大切なのだろう。

箱根駅伝を観て、そんなことを考えたお正月だった。
レース展開だけでなく、選手や監督の言葉に泣いた箱根駅伝。今年もたくさん魅せてもらいました。選手、監督、運営のみなさんありがとうございました。

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