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Sensing Cittàslow / サラ・ピンク

10年ほど前、いのちの食べかたという映画を見た。

コンベアでリズムよく大量に流される肉塊を見て、ああ、コンビニやファストフードの肉はここから来てるのか、とショックを受けたのを思い出す。

今回取り上げる論文はその真逆。人類学者サラ・ピンクが2000年代前半に調査したのはCittàslow(チッタスロー)だ。日本語に訳せばスローシティ。1999年にイタリア・トスカーナで生まれたスローフード運動に端を発する地域文化顕彰活動で、30か国236都市が加盟し、日本でも日本でも気仙沼市と前橋市が加入している。

イギリスで二番目に認定されたアイルシャムのチッタスロー運動に潜り、政策や活動を生み出す個人の日常的かつ創造的な感覚的実践が、どのように "感覚都市 "を構成しているかを記述したエスノグラフィが本稿だ。

正直なところ、僕はスローライフの響きは好きじゃない笑。環境哲学者ティモシー・モートンの「自然なきエコロジー」で描かれる、清潔で毒性がないエコロジーではなく、暗闇と汚物と手を繋ぎ、アイライナーと白塗りでキラキラした音楽をかけて街に繰り出すダークエコロジーのような思想が好きなのだ。

ということで、期待はしてなかったが、読むと、おお、さすがの視点…!と思うところがあったので抜粋してみようと思う。

抵抗のスローフード

まずチッタスローの根源にあるスローフード運動から話は始まる。スローフード協会の創立者カルロ・ペトリーニは、「The Case for Taste」の中で、食習慣の改革を通じて社会変革を実現することを提案していると。

スローフード運動は、1986年にイタリアで結成され、1989年にパリで国際運動として発足した。「食卓の楽しみをファーストフードや生活の均質化から守る」ことを目的とし、美食文化、味覚教育、生物多様性の促進、危機に瀕した食品の保護、大学コースの運営を行う活動だ。ペトリーニは、嘆く。 

私たちは今、包装され、スライスされ、しばしば調理された食品を個別に購入することを好み、それを感じ、匂いをかぎ、評価し、比較する機会、言い換えれば、私たちが何を選び、なぜそれを選んだのかを知る機会はますます少なくなってきている。

彼曰く、スローライフは「速い」ポストモダンの生活をスローダウンさせたものであることを意図していないそうだ。むしろ、私たちの日常生活を構成する時間性を意識的に交渉することを含み、より注意深く、心をこめて時間を使うという約束から派生する、としている。少し違うが、バニーニが語るカイロスの概念とも近い。

また、緩やかなアクティビズムとしての側面もある。スローフードが強調する気遣い(attentiveness)と意識の集中(mindfulness)は、「スローフードの快楽原則」という考え方に具現化されている「物質、感覚、知的、政治を融合させた美学」によって「日常生活に喜びと主体性と歴史を取り戻そうとする」日常の「リメイク(remaking)」を含んでいるのだ。

スローフードでは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を、識別、自己防衛、喜びのための道具として扱います。味覚の教育は、マクドナルド化に抵抗するためのスローな方法なのです。

石鹸の香り、ピアノの音、夕焼け

そこから感覚都市の話になだれ込む。引き合いに出すのは、ランボーとデュボワの都市のサウンドスケープについての研究だ。

彼ら曰く、例えば騒音問題だと、騒音計を用いたレベル測定はあまりにも限定的であると。都市のサウンドスケープは複雑な音の環境であり、歴史を通じて社会文化的な生活に関する手がかりなのだと語る。さらに、常に同時多感覚の設定内で知覚され、多様な感覚様式が聴覚判断と相互作用するものだと、人間の主観性を考慮した学際的なアプローチを提案している。

それを踏まえて、都市環境の質は、統計的証拠による客観化で測定するデータと、人々が都市環境の身体的経験を言語化、表現化、視覚化することで客観化されるコンテクスト両方のアプローチが重要だとピンクは語る。一言で言えば、「客観的(科学的)」「(相互)主観的」の共存である。

チッタスローでは、例えば実行委員が、バンド、アコーディオン奏者、スチールドラムなど、音楽が街のどこに配置され、どんな都市のサウンドスケープを生み出すか。また同様に、通りで地元のクエーカーが饅頭を配り、タウンホールでホームメイドケーキを売ることで、どんな都市のテイストスケープを生み出すか、を経験的知識に基づきながら話していたのだ。

チッタスローのカーニバルは、消費資本主義の「外」(グローバル)の世界をひっくり返すためにローカルな空間を顕著に活用する、とピンクは語る。ここに人類学者ロッドマンのマルチローカリティという概念が当てられる。

マルチローカリティとは、「複数の視点から場所の構築を理解しようとする」ことと、「異なる利用者のために場所の多義的な意味を形成し表現するという意味で、単一の物理的な景観がマルチローカルになりうる」ことを認識することである。

いい言葉だ。思えば、僕も夕方ごろ自分の家のまわりを歩いてるとき、お風呂の石鹸の香りが漂ってきたり、練習しているピアノの音が薄く流れてきたり、青とピンクの夕焼けで空が染まったりするとき、多幸感に包まれる。

そういった、人々が実際に多感覚環境に住み、認識し、意図的に場を想像していく方法に焦点を当てることが、エスノグラファーの役割であるとピンクは示唆するのだ。

注意の感覚的教育

さらに発展して、ピンクが書いた2本の関連論文にも興味深い話が2つある。

1つめはコミュニティは「プロセスと実践」から生まれくるという話だ。Re-thinking Contemporary Activismという論文では、チッタスローを委員会の役割から分析しながら、生活の特定の文脈で密接につながった「個人」の集合(活動)にエージェンシーの場が移行されることを提案する。

つまり、チッタスローの運動体は、コミュニティという形式よりも、場作りの実践に不可欠な社会性と身体的関与から生じると述べているのだ。共有の庭に対して「隣人に野菜の植え付けを誘う」という実践はイメージしやすいだろう。さらにピンクは委員会に参加する個人にも言及し、人・関係・知識・感覚・技能・アイデア・議事録などを「集め」「生み出す」実践の重要性を語る。人類学者アミットの言葉はよくこれを表現していると思う。

コミュニティという呼び名は、......分析者に明確なグループ分けを示すのではなく、社会性が求められ、拒否され、議論され、実現し、解釈され、利用され、強制される複雑なプロセスの場を示すものだ。

2つめはスキルビルドによって「環境に組み込まれる」という話だ。Sense and sustainabilityの論文では、テロワールの概念を用いて説明が始まる。

前述したペトリーニの言葉を以下のように引用しながら、テロワールの概念を地元で働く若者のスキルビルドに転用し、ローカルな知恵を習得しながらビジネススキルのような汎用的な能力を高めていくことにより、外部の大企業の参入を排除し、地域経済を維持できるのでは、とピンクは語る。

自然的要因(土壌、水、傾斜、海抜、ブドウ栽培、微気候)と人間的要因(伝統、栽培方法)の組み合わせで、それぞれの小規模農業地域とそこで栽培、育成、製造、調理される食品に独特の特徴を与えるもの

さらにインゴルドを引用し、スキルビルドの過程で、知覚者が状況を感じ、味わい、注意しながら、世界との関係性を発見していくこと。その連続による「注意の感覚的教育([sensory] education of attention)」によって、環境と自身の両方に対する認識、つまり自己同一性を構成していくと語る。

それを再解釈し、チッタスロー(の街)では、頭だけでなく、体全体や感覚に働きかける学習形態を通じて、理念を支える具体的な日々の実践が、若い世代のメンバーの日常生活やアイデンティティに組み込まれていくのだ、とピンクは締める

集まり、集められる

読み通すと、スロームーブメントの素晴らしさを謳う内容ではなく、むしろ「感覚」と「場」についての論考だったのが良かった。

感覚についてはまだ未知なのだが、今回のピンクの論文を踏まえるならば、場は時間、空間、人、物だけでなく、感覚や感情も引き寄せる「集まり」を伴うし、それによって再び「集められる(being brought together)」ような働きを成すものなのかもしれないと思える。

ということで、感覚の人類学を少し深堀りしようと思いつつ、この間ウェブムーの記事で見た、魔女の「集まり」に対するを置いて終わりにしようと思う。

魔女は儀式の終わりに「Merry meet and merry part, And merry meet again.」というんですが、どこからともなく集まってきて、歌をうたい、どこかへ散っていく。「一時的自律ゾーン」です。


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