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マツタケを読むと、わからないものへの向き合い方が書いてあった

今年一番面白い本だった。パタンと読み終わった後、爽快さはなく、着地点があったのか、なかったのか。どうにもじわじわと変な後味が残る。

人類学者アナ・チンが題材としたのはマツタケ。95%が外国から輸入される、(日本では)秋の風物詩だが、この本は世界からやってくるマツタケが、どう生まれ、どう採取され、どう社会に取り込まれるか。その過程で、生まれているいろんなわけのわからないものと向き合いながら、著者が興奮していくような作品だ。

オレゴン、京都、雲南、北極圏。マツタケには土地ごとに異なる文化や言語があるため、専門領域の研究者と共に知恵を交換しながら、あるときには芸術の領域とも交わりながら、主題を解釈していくマルチサイテッドという研究思想で挑む。

この本から解釈した、わからないものへの向き合い方をちょっと紹介したい。サラ・ドサの「最後の季節」のトレーラーをみてもらえれば世界観がわかるかも。

コントロールできないって、かわいい

何の葉?何のキノコ?  ージョン・ケージ

この詩は松尾芭蕉の句「マツタケや 知らぬ木の葉 へばりつく」を、作曲家のジョン・ケージが英訳したものだ。この一文がマツタケの偶発的で、不思議な魅力を言い表している。(別の学者は「マツタケ。その上にくっついている、知らない葉」と訳した)

マツタケはある種の樹木(日本だとアカマツなど)の根との変形的共生関係を通して生きる。菌と栄養との相互補完ができるため、他のキノコが生えづらい土地で、宿主樹木と共に生育する。その特性こそが人工的に栽培できない理由であり、そのコントロールできない魅力にアナ・チンは傾倒していく。このわからなさに抵抗せず、寄り添っていく、愛情をもっていく姿勢が良い。

そういえば、個人的には「かわいい」の要素を構成するひとつに「危うさ」というのがあると思う。愛犬や赤ちゃん。そう思ったときに、わからないものを、かわいいものだと捉えるというのもアリだなと思う。

アッセンブリッジにこそ物語がある

物語の主戦場はオレゴンの森。かつて景観保全をしようとしたしっぺ返しで、荒廃したこの土地に生命力の強いロッジポールマツが繁栄した。そこにマツタケが生え、べトナムやラオスからの難民の人たちが、商業生態圏をつくった。ここをオープンチケット村と呼ぶ。

アナ・チンはここを汚染された多様性と例えた(個人的には裸の多様性とかの方がしっくりくる)。調和されたコミュニティではなく、散発だが連鎖的におこるアッセンブリッジ。コミュニティという言葉に懐疑的な自分には、この寄せ集まりを意味するアッセンブリッジという言葉に、衝突や流動性も含めた何かドライで気楽な空気感を感じた。

アナ・チンは「アッセンブリッジは、融合し、変化し、溶解していく。これこそが物語である」と言う。システム化されたものには生まれない物語。脱・人間中心主義へ進む現代において、彼女たちが提唱するフィールドガイドの原則は、生きる指針をくれる。詳しくはSuperfluxのアナブ・ジャインのMediumを見てほしい。

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Version 1.0 of a Field Guide for More-Than-Human Politics(@anabjain)

超俯瞰。と、疑う

アナ・チンは資本主義をドライに見る。マツタケを巡る人間模様にフォーカスしながら、そのマツタケがどう採取され、どう売買され、どう日本に輸入されるか。その過程で批判するのがサルベージ・アキュミレーションと呼ぶ行為だ。資本主義の活動の中で、富の集積のために回収される「無形の価値」のようなもので、先住民の知識であったり、祖母から学んだ裁縫の技術であったり、植物の光合成や消化のようなものであったり。

翻訳者の赤嶺さんもインタビューで書かれていたが、アナ・チンの視点は超俯瞰だ。グローバルサプライチェーンの罪へ言及し、スケールする世界への反抗をマツタケを通じて語る。分からなさと向き合うとき、個人的にはこのミクロ⇔マクロの視点は心を軽くしたり、新しいひらめきをもたらしてくれると思う。

あとは、この視点をもつためには日常のルールや常識らしきものを疑う姿勢も大事そうだ。このあたりはジェームズ・C. スコットの「実践 日々のアナキズム」に、アナキズム柔軟体操と呼ばれる思想がのってておもしろい。秩序を守るためにルールが必要なのか?車が全来る気配のない道路で信号が青になるのを待つ意味とは?みたいな問いが書かれている。

フリーダム、と名前をつける

この本で最も分からなかった概念がフリーダムだ。おそらくドヤ、みたいな意味で、もう少し砕くと土着の、霊的な、生き抜く術といったニュアンスだ。「マツタケはフリーダムによって狩られ」「マツタケ狩りやバイヤー、エージェントが戦利品を手にし、お互いを鼓舞しながらフリーダムを交換する」といった使われ方だ。

デザインリサーチを行なうとき、よく出くわすのが、言葉で言い表わしづらい概念だ。この何かわからないものに、まず名前をつけるのは、創造の第一歩だと思う。

本から離れるが、最近おもしろいなと思ったのは、メロンパンパニックかもしれない。何か食べなきゃいけないのだが、何を食べたらいいか分からなくてパニックになりメロンパンだけ買って一口でいらなくなること、とされているが、この分かりみのある感情をいいパンチラインにしたなと思った。

ポリフォニーのように、書く

最後に、書き方も本書は実験的だ。「進歩という概念にかわって目を向けるべきはマツタケ狩りではないだろうか?」というリサーチクエスチョンから始まるこの本は、約30章のセクションから成るが、当たり前のようには書かない。散文的で、各章ごとに引用があり、結論はなく、読者が脳内で各章ごとに関連性を見いだせるような開放感がある。

それはまるで、敬愛するピグミーのポリフォニーのよう。複雑なものを一定の型にはめることで死ぬこともある。そこはこの本のように自由に構成しても良さそうだ。

おもしろいのは幕間と呼ばれるポエムセクションで、ロジカルで構成的ではなく、突発的で感情的な、ある意味、居酒屋でしゃべっているような軽やかさがある。この3つの幕間だけ読むでも、おもしろいと思う。

さいごに:分類よりもダンス

アナ・チンのロマンが爆発する文章で終わりたい。調査に大事なのは、分類よりもダンスという一節である。マツタケを採るために、地面の隆起を頬を沿わせて注視し、他の採集者の痕跡をたどり、クマやヘラジカの足跡を追跡する。その中で、様々な生態系やサプライチェーンの複雑な関係性を噛みしめる場面だ。

わたしが叙述したマツタケ採集者たちは、自身が森のダンスを踊るパフォーマーであるだけでなく、ほかの生命の生きざまの観察者でもある。かれらは森の生物のすべてに関心を寄せるわけではない。実際、かれらはとても選択的だ。しかし、かれらが気づく方法は、他者の生きざまを自分に取り込むことである。生命の線を交差させることによって、パフォーマンスに導かれていく。それは、あるひとつの森の知識の様式を作り出しているのだ。

読後感はスッキリしないが、なんとなく勇気のわくポジティブな本でした。

こちらの対談も面白いです。


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