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Imagining Personal Data: Experiences of Self-Tracking / サラ・ピンクほか
「地球上でもっとも接続された男」を知ってますか?
彼の名前はクリス・ダンシー。センサーを利用して、日常生活のほとんどの行動を追跡・測定している。IoTブームの2010年代前半にメディアで注目されていた彼だが、今も現役だ。Mindful Cyborgと名乗り、OurBalanceというウェルビーイングアプリをつくり、複雑なAirtableでのデータ管理を啓蒙する。
Imagining Personal Data: Experiences of Self-Trackingは、そんな鏡や体重計に代表される、人類が憧れてきた身体の定量化について「セルフトラッキング」に焦点を当てて書かれた本。感覚の人類学で有名なサラ・ピンクをはじめ、人類学、教育学、社会学、民俗学の4人の共著だ。(kindleは今なら0円!)
多くの人はデータそのものに興味なし
サラをはじめ著者たちは、研究着手にあたりJewboneを6ヶ月使用し、セルフトラッキングの自伝をつづっていくオートエスノグラフィを行った。しかし、全員が数ヶ月でやめる。そして、この後に続く、研究のためのインタビューやワークショップでも多くの人がこんなことを語る。
クリスティンは、トラッキングデバイスは役に立たないし、うんざりすると感じた。なぜなら、アプリが何歩歩いたかという情報やプッシュ通知を与えても、自分にとっては何の変化もなかったからである。アプリは、自分が毎日ほとんど歩かないという、すでに知っていることを示すだけで、何か違うことをしようという動機にはならなかったのです。
つまり、企業(市場)は「トラッキングで健康になれますよ」と行動変容を促してくるが、多くのユーザーがデータは自分が知っていることを再認知するくらいで、分析も自分次第。それが不満でスッ…と離れてしまうのだ。
これはメンタルヘルスの人気アプリで90%のユーザーが10日以内に使わなくなる、というデータと似ていて面白い。著者は、情報学におけるPIを引き合いに出し、トラッキングが身体と絡み合っているにも関わらず、そのデータを使ってどのように学習・行動するかという技法は、驚くほど実体がないと指摘する。
ゴルフクラブに上書きされる空間情報
しかし、嘆くばかりではない。本題はここからだ。データそのものに興味がないメディア関係者の男性が、あるときトラッキングアプリを見せながらこう語りだす。
この辺りを歩いたことは覚えてる。家を見るために歩いたし、同じブロック内を歩いて、かっこいい家や建築物があるかどうかを見たんだ 。
既知のトラッキングデータと、散歩の実体験が組み合わさったときに空間的な文脈を帯びた認識に変わる。また、ガーミンをゴルフに利用する別の男性の語りも出てくる。
8番のクラブで打てば、これくらいの距離が打てるんだ!ということが分かったんだ。(中略)ガーミンを見ると、グリーンまで135メートルもあることがわかるので、どのクラブを使うか決められるんだ。以前は目測でやっていたんだけど。
ゴルフクラブに距離や空間といった情報が書き足され、認識が立体化する。つまり、データ単体では認識が平面的だが、環境や風景といったランドスケープと共鳴することで、生活と結びつく有用な意味に変化していくのだ。この広い定量化された世界の中に、自分を位置づけるための方法なのかもしれない。
エルダーフラワーの幸せな記憶
さらに発展する。ある女性ランナーは日常生活のありふれたものを記録することに興味があり、それによって得られる幸福感について語る。夫との共同ランニングという習慣のログみずみずしい感覚を刺激する。
トレイルには様々な感情があり、匂いも、身体的な感覚も、私にとって一種の陶酔のようなものです。車でどこかを通り過ぎたとき、よく走っていたときはどんな感じだったかな、ここを走ってから引き返したかな、車を走らせたらすごく遠くまで来た気がする、そんな素敵な感情や思い出が、統計や履歴に戻るとたくさん浮かんでくるんです。
毎年、特定の場所に咲くエルダーフラワーやその匂いの感触は、とてもポジティブなエネルギーに満ちていて、今でもその感覚を呼び起こすことができます。
また、別の女性は、身体活動を追跡するすべてのアプリと並行して、自分のウェルビーイングの経験を書き留める日記をつけていることを語る。つまり、活動の感覚だけでなく、何が起こったのか、それが自分にとってどういう意味を持ち、それを思い出すことがどのように感じられるのかを追体験し、それが身体知の一部となるのだ。サラはこうまとめる。
アプリを使うことで自分の行動が変わることを期待するのではなく、日常を新しい視点や角度から探求するためのツールとして体験しているのです。
計測(track)より痕跡(trace)?
データは何も語らない。むしろ、生活を見つめ直すツールとしてのトラッキングが重要だ、とサラは語る。そしてデータと自分の記憶を結びつけ、追体験したり、位置照合したりする。それにより、日常を新しい視点や角度から探求でき、高揚感や幸福感へつなげることがセルフトラッキングの醍醐味なのだ。
そう思うと、自分の研究テーマとも重なる部分が出てきた。広義のつくることとメンタルヘルスの関係だ。トラッキングするデータを「制作物の痕跡」と置き換えてみるとどうだろう。木目を感じながら掘った木版。新緑の葉を愛でながら育てる果実。制作の痕跡もまた、自身の行動のデータであり、事実と言える。となると、高揚感や幸福感と繋がるとも言えるのではないか。
とすると、料理を日課にし、それを続けることで鬱を緩和していった坂口恭平さんの料理日記「cook」の納得感もある。
少し視界が開けた。ルーティンがメンタルに有用なのは実感知もあって納得感があるが、多種のデータをひたすら取り続けるのにはずっと違和感を感じていた。どちらかというと、行動のログが文脈を帯びて、自然に、日記的に残されていき、積み重なっていくことの方が重要だ。層に意味はない。計測(track)でなく、痕跡(trace)のような感覚が、近い気がする。
そんなアイデアを示唆してくれる本だった。なむなむ。
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