見出し画像

土着と先端の、あいだの技術

技術のレンズを通して、自然や社会との関係性を考えたい。
テーマをひとことで言えば、これだ。

2024年、なはれでは「土着と先端の、あいだの技術」というテーマで活動している。デザインの仕事をしていると、絶えず新しい技術に出会う。でも、それらは本当に進歩しているのか。社会にポジティブな影響を与えるのか、とハテナがつく。先日も、GPT-4oの「リアルタイム翻訳コンニャク」機能に感動した同じ日、認識から実行まで一括で行うAI兵器「自律型致死兵器システム(LAWS)」の規制が議論されていることを知った。

なんという世界線なのか。

ここからテーマにこめた思いをちょっと書いてみようと思う。言いたいことを3つにまとめたので、忙しい人は冒頭だけ読んでもらっても大丈夫です↓

  1. 「技術」に着目する:70年代の適正技術運動と同じ夢が現代でも議論されてる面白さと、50年前にはなかった(ネットカルチャーなど)複雑な自立・分散型の技術が前提になっている現代社会の面白さがあるから。

  2. 「あいだ」を歓迎する:エコロジーや土着的な知恵に敬意を払いながら、先端テクノロジーの享受も倫理を持った上で受け入れたい。だって人間だもの。力を抜いて、いい塩梅で、軽やかに試していけたらGOOD。

  3. 「仲間」がほしい!:これはテーマの補足というよりメッセージ。自然、社会、経済のオルタナティブを探る企業・行政の方や、草の根で活動を始めている研究者やクリエイターの方と一緒にPJをつくれたら最高です。


「技術」に着目する:ユートピアを求めて

1970年代、経済発展の裏で進んだ破壊や格差。その槍玉にあがった科学技術の存在。イギリスの経済学者シューマッハが提示した中間技術(1973)の概念に端を発したのが、適正技術運動である。テーマの着想はここだ。

焦点を当てるのは(当時の)途上国支援という文脈でなく、近代科学技術批判の文脈だ。端的に言えば、中央集権的な技術ではなく、ローカルの社会・経済・生態系に敬意を払い、大衆が、試行錯誤し、創意工夫できる技術に着目することであり、オルタナティブテクノロジー(ディクソン, 1974)ソフトエネルギーパス(ロビンス, 1976)など、同様の思想が多く生まれた。

面白いのは、追い求める技術のあり方と、それを通じた社会・経済・生態系との理想の関係性は、現代とほぼ変わってないなということだ。例えば、ラジカルテクノロジー(ハーパー, 1976)では、理想像としてのオートノマス・ハウスというビジョンが語られているが、これは現代でも通じるだろう。

農村または半農村地域向けのオートノマス・ハウス。この家は流通網から独立している。いくつかのサービス(廃棄物処理、いくらかの食糧、暖房、温水)は、その場所で供給できる。他(電力、水、料理用ガス、いくらかの食糧)はコミュニティレベルで供給される。そこでは規模の経済が働き、共有施設が安く使える。

しかし、50年前と大きく違うのは、資源が枯渇に向かい、情報がフラット化した私たちの生活基盤である。1990年から始まるインターネットがもたらした複雑な自立・分散型の技術が前提になっている現代社会をみると、根源は同じながら、手段は劇的に違うところが、現代のユニークな部分だと思う。

「あいだ」を歓迎する:振り子のように

しかし、なぜ適正技術運動は終わったのだろう。技術思想家ラングドン・ウィナーが1986年に書いた「鯨と原子炉」には、面白いくだりがある。

それは、適正技術運動が終わったのが1980年11月14日と明記されていることだ。これはアメリカ合衆国でロナルド・レーガンが大統領に選ばれた日だ。理由は単純で、適正技術運動に対して、政府にリベラル/穏健な人々がいたが、そのタイミングで賛同者が去ってしまったことである。

また、分権的な技術が、必ず生態学的に健全であるとは限らない。薪ストーブが増えて、大気汚染が引き起こされた事象をウィナーは指摘し、残存する適正技術の機関でも、優れた実用性をもつものは僅かである、と批判する。

つまり、良さげな世界観が絶対でなく、土着か先端か、善か悪かでもない。技術には正解がなく、位置づけ直しも可能だからこそ、振り子のように、そのあいだの、いい塩梅を手触りをもって探り続ける必要があるのだと思う。

とはいえ、あまり真面目にいくのはナシにしたい。あいだに込めた思いはもうひとつ。リラックスである。1993年のSTUDIO VOICE「ハイテク・フェティッシュ マックごときで満足できるか」は、ふっと肩の力を抜いてくれる。

スマート、効率性、利便性とは違う、技術のあり方。そのあいだの感性も、この時代に求められる大事な要素だと思う。

「仲間」がほしい!:プロジェクトやりましょう

そんな思いをもって活動しているなはれ。現在、4人のチームで、本業の傍ら、3つのプロジェクトを動かしている。

  • エネルギーと人類学:見えにくいエネルギーを手と足を動かして理解する

  • モバイルフード:保存、移動をテーマに自然と食のありかたを模索する

  • エヌフェティッシュ:デジタルと身体性の関係をナナメに探求する

今後は、冷凍・冷蔵のワークショップを企画したり、データセンターについて調査したり、歪なマネキンをハックする試みを行う予定だ。その先には、スノーリゾート、アートスペース、教育プログラム、芸術祭、など大きなプロジェクトもできればいいなと考えている。

興味関心のある、自然、都市、経済のオルタナティブを探る企業・行政の方、研究者の方、クリエイターやアーティストの方、がいれば、ぜひご連絡ください。イベントやワークショップへの参加もお待ちしています。

例えば、WIREDさんのリジェネラティブカンパニーの定義に近いかも。そんな人たちと一緒にできればだし、自分たちもそんなチームにしていきたい。

最後に、石川吉典さんのエッセイ「山と人 テクネー」の冒頭を引用して、終わりたいと思います。ありがとうございました。

自然の中に生きる動物としての人間には、きっといくつもの転機があったのだろう。例えば、猿人が骨を道具として使うことを覚えたときだったかもしれない。あるいは火を使いはじめたことや、土器を発明したことも、農耕文化も、治水も、化石燃料の採掘もそうだろう。生きる術の開拓である。

つまり技術とは、人間が生きるために自然に作用して必要なものを得ることだった。それは、現代においても基本的に変わらない。ならばそこには、自然と人の普遍的な関係性が見えるのではないだろうか。

(写真:村上航)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?