贖罪


(一)

「従って、ここは……、えー、今日は15日……、あ、佐々木。ここの答え、わかるか?」
「は?!ちょっと、15番は坂口でしょ、先生」
「あっ、そうだった。すまんすまん。お前が気持ちよさそうに船を漕いでいたから、ついな。ほら、答えは?」
「えー、え……、えっと、多分32、?」

周りに教えを乞うように佐々木はきょろきょろと、ぱくぱくと口を動かしながら答えた。オーケーサインを出してる坂口を見て、ふっ、と安堵の表情を浮かべている。

「はい、あってるよ。って、どうして疑問形なんだよ」
「いや、え、なんとなく?寝てたし」

くすくすと笑い声がちらほらと上がる。

「はい、ほら、静かに。佐々木ありがとう」

いつも通りの、代わり映えのない授業であった。ごく普通に教科書の内容を説明して、寝そうな生徒を適度に指名して、とあまりにも普通な日常。


「山下先生」

先程まで授業を受けていた女子生徒が、駆け寄って肩を叩く。

「なんだい?さっきの授業の質問かな?」
「いや、あの……その」
「手短にお願いするよ、今日はね、特別な日なんだ」
「えっ、やっぱ、あの、先生って……彼女、っていますか?」
「いや、まあ、いるにはいる」

きゃあと声が上がる。

「だって!聞いた?美里」
「聞いた聞いた。えっ、じゃあ今日って、その人の誕生日とか?」
「やっぱ、バレンタインじゃない?」
「あー!バレンタインに、恋人と。良いですね、先生」
「どうなの、山下先生」

わらわらと女子生徒に囲まれる。「女子生徒」とわざわざ明記しているが、ここは女子校。セーラー服の群れが、あることないこと騒ぎ立てて、勉強もそこそこに、青春を謳歌し、惰眠を貪る、そんな場所である。

「あーもー、いいから。ほら、次の授業始まるよ」
「あーもう、先生ったら、ずるいんだから」
「はいはい、わかったから、ほら教室戻って」
「山下先生、明日の授業で今日のこと教えてね!」

「ったく」

そう、今日は特別な日である。この日のために、俺は、何年も何年も費やしてきたのだ。

「秋穂……」


秋穂、彼女のために。

(二)

秋穂。それは、俺の妹のことである。6つほど年の離れた妹である彼女はとても可愛らしかった。
彼女は、よく「お兄ちゃん」と俺のことを呼んでは、後ろを追ってついてくるような子どもであった。

「お兄ちゃん、ねえ聞いてる?」
「秋穂、聞いてるよ。で、マサトくんにこれ、あげるんだろ?」

つん、とピンク色でラッピングされたチョコレートを指さす。アラザンがちらちら乗った、可愛らしく、酷く手作りじみたチョコレートであった。しかし、彼女が母親と一緒に丹精込めて作ったそれは、何よりも変えがたく、家族であるからとお零れを貰って、未だに食べられていない代物である。

「うん。でも」
「トクベツにあげるんだ。兄貴がついて行くなんて、そんなの良くないよ」
「お兄ちゃん、ついてきてくれないの?」
「もう小学生だろ?1人で行ってきなよ」

ぽんと背中を押して、俺は彼女を見送ると、小さな足でてとてとと、同級生の、想い人の家に向かっていった。


日もすっかり落ちた頃、秋穂の帰りが遅いと、寒空の中、俺は家を飛び出した。寒さで酷く手が悴むが、そんなことを言っている余裕もない。「秋穂、秋穂」と呼んだ声は暗闇に吸い込まれていく。

「あ、マサト……とか言ってたな」

俺が唯一知っていた、秋穂の友達の家に向かう。彼女が知らないならもう、この暗闇の中、ひたすら学区を歩き回るしかないのか、そう思っていた。

「あの、すみません」
「あら、雪夫くん、どうしたの?」
「あ、あの、妹の秋穂が、帰ってきていなくて」
「秋穂ちゃんが?」
「それで、ま、マサトとかいう子の家に行くって」
「沙織、ちょっと」

「なあに、ママ」

サオリと呼ばれた女の子は、既に風呂も済ませたのか、パジャマ姿で、濡れた髪をかしかしと拭いていた。

「秋穂ちゃん、帰ってないんですって、マサトくんのお家ってわかる?」
「あ、秋穂、雅人の家行ったんだ。分かるよ」
「あの、教えて貰っていいかな?」
「いいよ。待ってて」

少女は、とたとたと走って奥に戻ってしまった。

「長くなりそうだし、一旦、入ってください」
「いやー、大丈夫です。ごめんなさい、お手数……」
「いいのよ、警察とかには……」
「いや、まだ」
「あらそう、見つかるといいわね……」
「ええ……」

あたかも自分事のようにしゅんと眉を下げて、母親は話す。同情なんて欲しくもないし、俺はひたすらに焦っていた。小話をする余裕なんてとてもないのだ。

「ママ、書けたよ」
「雪夫くん、私も一緒に……」
「いえ、地図だけでもありがたいです。ありがとうね、サオリちゃんも」
「じゃあ、頑張って、ね」
「ええ」

ふっ、と白い息を吐いて地図を確認する。可愛らしい柄のメモに書かれた、とても粗雑な地図だ。でも、手がかりがないよりも遥かにマシなのだ。それをぎゅっと握りしめて、目的地の方角に走る。何度も暗闇に向かって声をあげて、ただ走る。

「秋穂、秋穂」

声も枯れ枯れになってきた。吸う空気があまりにも冷たいので、肺まで痛くなってくる。じわじわと疲れが溜まった足は、鉛のように酷く重たい。すこしペースを落として、捜索を続ける。休むなんて、とても考えられなかった。
すると、2つ目の交差点を曲がったところで、彼女のような物が落ちていたのだ。お気に入りのピンクのワンピースのような物と、何故か遠くにある赤い靴のような物。暗闇でよく見えないけれど、それは確かに彼女を形成していた物で、それ以外には見えないのだ。

「秋穂……?」

血痕によってタイヤ痕が描かれている。踏んではまずいと、体勢を変えると、よろりとよろめいて転けてしまった。ああ、そうだ、お母さん、お母さんに電話しなきゃ。


「もしもし、母さん?秋穂、いたよ」

道路の真ん中で、俺は知らぬ間に泣いていた。天使のような彼女は、見るも無惨な姿に変わり果てていたのだ。

「そう、三丁目の交差点、曲がったところ」

電話を切る。頭ではダメだと分かっているのに、彼女だった物を引きずって、繋ぎ合わせてみる。掴んでみると、ぐちゃりと肉の感触が生々しい。ひき肉を捏ねてる時に肉肉しくて気持ち悪いな、と思っていたが、そんなものは比べ物にならない。

「あきほ、今、なおすから」

何度も何度もくっつけても、分断された足たちは全くくっつかない。どうして?こんなにも頑張ってるのに、どうしてなおらないの?

「あれ、おかしいな、お兄ちゃん、工作得意なのに」

何度も何度もぐちゅぐちゅと音を立てながらくっつけて、離れた。


「雪夫!っ、え、いやっ……っ」

母も泣いていた。

「……雪夫?」
「ほら、秋穂だよ」
「っ……」
「なに、母さん泣いてるの?」

「雪夫、警察には、…連絡した?」
「どうして?秋穂は生きてるのに」
「っ……雪夫、雪夫!」

母は、泣きじゃくっていた。年甲斐もなく、今年45にもなろうとしているのに、はしたなく、声を上げて泣いていた。泣きながら電話をかけて、言葉も喋れなくなっていた。

「母さん、大丈夫?」

その声は母の叫ぶような泣き声にかき消されてしまった。


(三)

秋穂をひき逃げした犯人は、あまりにもあっさり捕まってしまった。俺がよろけてまで守ったタイヤ痕や、近くの防犯カメラのお陰とかなんとか言っていたが、彼女を失って憔悴しきっていた家族にとって、どうでも良い事、とさえ言えてしまうのだった。だって、そんなことを知ったところで、彼女は帰ってこないのだから。

犯人の名前は、高崎良子というらしい。そして、息子に、秋穂と年の変わらない息子がいるらしい。それくらいしか彼女については分かっていなかった。知りたくもなかった。彼女に良心が残っているなら、こんな残忍な行いをして、そのまま放置ができるわけがないだろう。人では無いのだ。人として、認められるわけが無いのだ。

18になる頃、俺は家庭教師のアルバイトを始めた。理由は酷く単純で、単に給料が他に比べて良かったからである。

「伊藤……守くんか」

彼は、俺にとって初めての生徒であった。インターホンを押して「本日からお世話になります、家庭教師の山下です」と至極テンプレ的な挨拶を済ます。マンションの中に入ると、なんだかとても高そうな、別世界のような空気感がぶわりと漂っている。

「うっわ、すごいな」

シックなブラウンでまとめられた、ラウンジのような場所を抜け、エレベーターで上階に上がる。ガラス張りのエレベーターが、なんだかこっぱずかしくて、くすぐったい。

「いらっしゃい、山下先生ね」

出迎えてくれた母親はとても普通で、こんなマンションの、しかも角部屋に住んでるとは思えないような見た目の、特筆することも何も無いような出で立ちであった。

「え、ええ。よろしくお願いします。守くん……の、保護者の方で」
「はい。中、どうぞ」

すっ、と部屋の奥を示した爪がやけに整えられていて、美しいのが目に付いた。ちらちらと、控えめとは決していえないラインストーンが、いくつも爪先で輝いている。あまりにも本人の見てくれとは不相応に伸びた爪だ。それは、美しくはあるが、非実用的なものであった。とても小学6年生の、受験を考えている親、しかも熱心に家庭教師まで雇う親とは思えない爪で、かちかちと音を立てながらスマートフォンをいじくる。あくまでも来客中で、まだは室内に入り切ってもいないのに、なんだか非常識なものだなと、幸先の悪さに落胆した。

「彼が、守くん?」

だだっ広い、物の少ないリビングが、余計に非日常を感じさせる。ぽつんと、しかしでかでかと置かれたL字のソファーに、低いテーブル。そこにちょん、と膝を揃えて座っている。

「守、挨拶なさい」
「伊藤守です。よろしくお願いします」

機械的な、操り人形のような子だなというのが彼に対しての第一印象であった。

「よろしくね、守くん」

にい、と精一杯の作り笑いをすると、つられて彼の口角も少し上がった。

「じゃあ、今日から。よろしくお願いします」
「ええ、はじめてなので、至らない点も多いとは思いますが、こちらこそよろしくお願いします。守くん、じゃ、行こうか」

ん、と頷いた彼に案内され、たどり着いた部屋は、このマンションにこんな場所が?と驚く程に狭くて、日の当たらない場所であった。窓がないのだ。クローゼットのようにも見える。そのような場所に学習机とベッドが、無理くりに収められていた。すぐ横にある本棚が酷く鬱陶しい。綺麗に並べられている本の種類を見ると、小学生らしい漫画本は一切なくて、図鑑と辞典と、重苦しい近代小説ばかりが並んでいる。相当、かなり、苦しい本棚だ。"酷"という漢字がふっ、と浮かぶ。

「先生ここ、座ってください」
「ありがとう、守くん。じゃあ、さっそく。今日は簡単なテストをするよ。5年生の範囲です。これを元にどうするべきか考えていくから、気負わずに受けてね」
「わかりました」

緊張しているのか、俯きがちで、言葉数は酷く少ない。目線を合わせて会話をしようとすると、ふい、と顔を背けられる始末である。

「それじゃあ、はじめて」

ピッとタイマーを始動すると、かりかりと鉛筆が紙を滑る。
教科は算数、簡単な四則演算から、図形、文章題まで、適当に問題集から拝借した十数題が羅列されている。どれも基礎的な問題で、癖のある難題なんてものはひとつもない。それなのに、

「せんせ……」

開始5分で、彼はポロポロと泣き出したのだ。これは勉強以前の問題である、と俺は悟った。タイマーを一時停止して、そっとハンカチを差し出す。

「守くん、無理しなくて大丈夫だから。ゆっくりやろう」

なんとか泣き止んでもらおうと、とんとんと背中を優しく叩く。
ちらりと解きかけのテストを覗くと、計算問題は粗方問題なさそうだ。図形問題は泣き出すほど、厳しいのだろうか。他はどうなのか?とか、彼の小さな身体を優しく抱きながら、ぐるぐると考える。

「こわいんです」

と、彼はぽそりと呟いた。

「何が?」
「図形問題、できなくて、」
「うん」
「こわいんです」

えぐえぐとしゃくりあげながら、しかし、とても静かな口調で、「こわい」と言う彼。だいたい分かった。この部屋も、先程の様子も、そうすれば合点が行く。勉強以前の問題である。

「守くんって、塾には通ってる?」
「……はい」
「おっけ、じゃあ大丈夫」
「……なにが、ですか?」
「ん?いろいろ。今日から毎週、水曜日と金曜日の2時間、よろしくね?」
「……はい」
「よし、じゃあ今日はお勉強、やめよ。終わり終わり」
「……え?」

ガラス玉のように透き通った目が、かっ、と大きくなる。

「ほら、鉛筆置いて。今日は俺とおしゃべりしよ」
「おしゃべりって……」
「これも大事な、お勉強だから」

彼の華奢な手を握って、ぐっと目線を合わせる。
先程とは異なり顔を背かれることはなく、透き通った薄茶色の目に吸い込まれそうになる。彼の憂いを取り除くには何が出来るのか。そんなのまだ、未熟な俺には何一つ分からない。見えない敵に立ち向かっていく、空虚を掴むような心地である。

「ね、守くん」
「なんですか?先生」
「んー、まず、先生ってのやめよ。雪夫だから、ユキくんとか、適当に呼んでよ」
「じゃあ……ユキ先生」
「先生は付けるんだ」
「先生なので……」

堅苦しさは取れないけれど、泣き止んだ彼の口角は少し上がっていた。それは、先程のつられて無理やり引き上げたような、引きつったものではなくて、俺は少し安堵した。

(四)


彼の家庭教師をはじめて、数ヶ月が経った頃。

「守くん、じゃあいつものやつ。前の授業から今日まで、何があったか、特に印象に残ったことを、俺になるべく分かりやすく、伝わるように教えてくれないかな」

泣かれてしまって以来、彼の問題を解決するために、自分の考えをを説明する訓練も兼ねて、決まって彼の近況報告を聞くようにしている。今まで毎回のように聞いているが、塾や学校についてはなんら問題もない。やはり母親か。父親の話も全くもって出てこないのも気になる。この年頃の子ども、特に男児であれば、父親とどこかに行った、や、一緒に遊んだ、などあってもいいはずである。歪な家庭環境であるのは、嫌でも薄々と勘づいてしまえるのが現状だ。そして、その環境が彼を怯えさせているのだろう。と、俺はもやもやと想像を練るのであった。

「はい、っと……あ、昨日ね、お母さんに会いました」
「お母さんって、いつも会ってるんじゃないの?」
「あ、あの人は、お母さんのお姉さん。小学校1年生以来会っていなかったので、とっても緊張しました。でも、その事を言ったら、真弓さんからは会うなって、怒られてしまいました」
「マユミさん?」
「お母さんのお姉さん、いつも会ってる人です」
「ああ、ごめん。なんで会うなって言われちゃったのかな」
「お母さんが、悪い人だからですよ」
「……え?」

あまりにもしっかりとした口調で、実母のことを悪人呼ばわりする。その目はあまりにも鋭くて、10近く年の離れた俺であっても、ぞくりとするほどだ。

「お母さん、人殺しなんです」


ツンとした嫌な緊張感を解すべく、無理やりに笑ってみるが、彼の鉄仮面みたいな顔は、再び眉ひとつ動かなくなってしまった。

「は?っ、ごめん、ごめんね守くん。よし、じゃあ今日から、ちゃんとお勉強しようね」

と、何かを取り戻すように口早に言うと、

「やっと、ユキ先生が勉強を教えてくれるんですね」

と、酷く大人びた口調でサラリと返された。「人殺し」と言っていたがどういうことなのだろうか。あまりにもあっさりとした告白に、一種の恐怖に似た感情さえも覚える。嫌な汗で、えらく寒い。もうすぐ夏であると言うのに、ガタガタと体が震えそうだ。

「僕のためでしょう?わかってます」
「えっ」
「最初の授業で、僕が泣いちゃったから」
「まあ、そうだけど」
「いい先生になれますよ、ユキ先生は、きっと」

ぽそりと、置くように小さく呟かれたその呪いが、俺を教職に進ませたのは言うまでもない。


授業後、やはり「人殺し」という言葉が気になって仕方がない。適当に用意された晩飯をだらだらと食しながら、またぐるぐると思考する。

「ってことは、小1以来ってことは5、6年前ってことか。いや、もっと前かもしれないな。いやしかし、本人に聞くにはあまりにもデリケートだし。どうすれば……」
「何ブツブツ言ってるの、雪夫」
「ん?ああ、今見てる子について、気になって」
「どんな子なの?」
「んー、暗い子」

今日の筑前煮はひたすら硬いな、と、人参を前歯でがしりと噛んで思う。

「母さん、人参硬くない?」
「あらそう?」
「そう」
「で、その子の何が気になるのよ」

頬杖を付いてじ、っと見る母の目は、何だか爛々としていた。

「え?女の子でもないし、なんなら小学生だよ?」
「なんだ、面白くない」
「面白くなくて悪かったな」

じゃくじゃくとごぼうを咀嚼する。土の味がするからごぼうはあまり好きではない。食べられるけれど、なんだか地面を舐めてるみたいで気分が下がる。思わず眉間にシワがよってしまう。

「なに、そんな気になるの、その暗い子」
「っ、ああ。なんか、5〜6年振りにお母さんに会えたのに、それっきりになりそうだとか、なんとかかんとか」
「なんか不憫ね」
「まあ、なんか大変そうだよ。よく受験するとか言うよな〜。俺が小6の時なんて何やってたっけ?」
「秋穂引っ連れてずっと遊び回ってたわよ」

"秋穂"

あまりにも悲しくて、封印した記憶が、その言葉でぶわりと脳に蘇った。

「うあ……」
「なに、秋穂がどうしたの」
「いや、犯人の女。いたじゃん」
「何が?」
「秋穂と同い年の、息子」

硬いレンコンをしゃくしゃくと噛み砕いても、味がしない。ありえない、そんなわけないと思いながらも、何だか嫌な心地がして、酷くもぞもぞするのだ。

「やっぱり今日の煮物全部硬いよ」

と、文句をぽつりと言うと、

「って、あの女がどうしたのよ、ちょっと自己完結のその癖!やめなさい」

と、先程とは異なって、すこし高くなった声で、そう突き返されてしまった。

「歯が疲れたな」
「雪夫!」

きゅっと、目と眉毛の幅が縮まって、目にはうっすら涙が見える。

「雪夫、その子のこと、詳しく。お願い」
「ご飯、食べ終わったらね、母さん」

食後、熱い珈琲を入れてソファーに座る。

「はい、これ母さんの」
「ありがとう」
「じゃあ、はじめるね」

彼の名前から、初回に泣き出してしまったこと、近況から家庭状況があまり良くない気がするということ、ギチギチに詰められた不釣り合いの部屋、本棚、そして、頭でっかちの不格好な教育をさせる叔母の存在、そして、今日の発言。具に、とても細かく説明をした。

「って感じなんだけどさ」
「あの女、出てきたって、この前」
「え?」

ぬるくなった珈琲をズズッと啜る。

「高崎良子よ!」

と、母の劈くような声。

「きっとその子、その子、高崎、高崎良子の子よ」
「でも、これしかない情報で、そんな」

はは、と思わず笑ってしまう。そんな、世間様が狭かったらどんなにこの世は楽だろうかって話である。

「違いないわ。そう、秋穂が、引き寄せたのよ」
「は?」
「秋穂が、あんたに、きっと……、どうにかして欲しいって」
「そんな馬鹿な話があるかよ。ないない」

そんなことはありえないと、賑やかしにテレビをつけると、「うるさいから消して」と一喝される。仕方なしに、またズズっと、めっきり冷めた珈琲を飲み干した。

次の授業の日、真実を知りたい気持ちと、知ってはならない気持ちの狭間で、俺はウロウロと思考を重ねていた。

「お邪魔します。本日もよろしくお願いします」

と、実にテンプレートな挨拶。

「ええ、こちらこそ」

ちらりと割腹の良い男が見える。

「伊藤さん、あちらの......」
「ああ、良くしてもらってるんです。挨拶は結構ですので、守のところに」
「は、はい」

とても見られたくないものを見られてしまった、と言わんばかりの顔つきで、俺の背中を押す。その仕草から、ふたりの関係はあまりにも明白で、何だかとても不快に思えた。酷くハレンチな心地である。


「守くん、あの、リビングにいた人知ってる?」
「パトロンですよ。真弓さんの」

"パトロン"という言葉が、彼の口から出たことに驚きが隠せない。

「僕の教育費とか、そもそもの生活費とか、もちろん、ユキ先生のお給料も。あのおじさんが払ってるんだ。おかしいでしょう」

あっは、と、それは、実に乾いた笑いであった。小学6年生とは思えないほど、酷く、大人の表情であった。

「ユキ先生、昨日またお母さんに会いに行ったんです。そうしたら」
「そうしたら?」
「真弓さん、怒っちゃったんです。だから今日、当てつけみたいにあのおじさん呼んで」
「どういうこと?」
「ほら、僕が居たら、変なことできないでしょう。僕と一緒に居たくないから、そうしたんです」

彼の口からぽろぽろと零れるそれは、あまりにも歪曲した考え方であった。

「お母さんとは、どんな話したの?」

陰鬱とした雰囲気を変えなくては、と出た言葉があまりにも最悪で、あちゃーと、思わず頭を抱えてしまう。

「あ、ごめっ」
「いえ、お母さんとは、事件の話をしました」

ゴクリと喉がなる。空気がピンと張り詰める。家電のごうごうとした音が嫌に耳につく。

「事件......?」
「前、言ったでしょう。僕のお母さんは人殺しって」
「なんかの冗談かと......」
「冗談?」

ふっ、と笑う彼の顔には、愛憎が混ざりあったような、とても複雑な影があった。

「ユキ先生、僕のお母さんはね、僕と同じ歳の女の子を轢き殺したんです。それなのに、生きてるんです。おかしいでしょう?僕はこの何年も、こんなところで、ヒソヒソと隠れて......って、話しすぎちゃいましたね。忘れてください。授業、はじめましょう?」

母の「秋穂が引き寄せた」という言葉を思い出した。しかし、ここまで信頼関係を築き上げてきたのに、今更、こんな恨みと憎しみが混ざったみたいな汚らしい感情で、彼を汚すのはあんまりである。あんまりすぎるのである。

「守くんは、お母さんのこと、好き?一緒に暮らしたい」
「僕はお母さんのこと、すごく嫌いだけど、誰よりも、いや、ユキ先生の次くらいには大好きです。お母さんも、僕の顔を見るととても喜ぶんです。早く、一緒に暮らしたいです。無理かもしれないけれど」

へへ、と小学生らしく笑う顔を見て、ぐっ、と力が入る。

「そう、きっと、暮らせるよ。あと、俺も守くんのこと、好きだよ」

思わず、柄にもないようなことを口走ってしまい、赤面する。

「ごめん、なんか変だね」

と、恥ずかしさをかき消すように言うと、

「今の僕にとって、先生は、僕の窓だから」

と、ふふんと笑うのだった。


(五)

彼と出会ってから、6年、彼の呟いた呪いの通り、俺は教育者になっていた。2年目にしてようやく担任を任された俺は、日々の業務に忙殺されていた。
その日は、参考書を物色しに、少し大きい本屋に足を向けたのだった。

「なんか、久々だな」

電車を乗り継いで、久々にその町に足をつけると、あの日の、青い匂いが鼻をくすぐった。
彼のことを忘れたことは、彼の担当を終えてからも、今の一度もない。しかし当時彼に対して抱いていた、好意と、憎悪と、愛情がぐるぐると混ざったえも言われぬ感情は、段々と薄れていって、仇の大切なものへ対しての破壊欲という、ハッキリとした憎悪が輪郭を見せている頃であった。愛情よりも憎しみの方が遥かに感情として強いものであるからであろうか。

「せ、先生?」

本屋で、ぼうっと参考書を眺めていると、とんとんと肩を叩かれる。この町で、俺の事を「先生」と呼ぶのは、彼しかいない。

「守...くん?」
「わっ、ユキ先生だ、やっと会えましたね」

ふふ、とあの頃と同じ顔で微笑む彼は、とても小さかったあの頃に比べ、随分と身長も伸び、声も低くなり、つるつると白かった肌に、2、3コのニキビがちらりと見える。

「おっきくなったね、もう......大学生?」
「いや、僕、浪人しちゃって。先生は?」
「俺はね、君に言われた通り、教師になったよ」

はは、と笑うと、彼の顔がまたほろりと緩む。

「いいな、ユキ先生のクラスの子達」
「そうか?毎日しんどいし、30人もいると、守くんみたいに、あんな親身にやってられないよ」
「でも、やろうとはしているんでしょう?」
「まあ、仕事なので......」

話しながら物色した参考書を購入し、彼とそのままカフェに入る。

「先生、本当に、奢ってもらっていいんですか?」
「近況聞きたいし、奢らせてよ」
「ふふ、嬉しいな」

温かい珈琲を頼むと、彼はホットココアを注文した。「何か食べなくていいの?」と聞くと、その言葉を待ってましたと言わんばかりに、プリンアラモードも注文して、ご満悦である。

「僕、甘いもの好きなんです」
「昔もそうだったね。あ、そうそう。おうちの方も元気?」
「叔母達はもう、よく分かりませんが、母は、亡くなりました」

その報告はあまりにもサラリとした口調でされ、一度では理解しきれない。ぐっ、と珈琲を飲んで、「えっ」とまた問いかける。

「亡くなったんです。中2の時だったかな。普通に、病気で。叔母たちに関しては、養育費の関係で叔母の家にはずっと居たんですけど、浪人しちゃって、追い出されて、はは」

ポリポリと頭をかく姿は、苦学生の様子そのままであった。

「今じゃあ家とか......、どうしてるの?」
「バイトはしてますし、まあ、お金はくれるので、ただ最近は専らネカフェです。楽なんです。今日はたまたまこっち戻ってきてるんですけど、バイトも続かないので......結構転々としてますね」

なさけないな、と言わんばかりに彼の声はどんどん小さくなる。タイミング悪く届いたプリンアラモードの派手な装飾が、バカにしているみたいでなんだか恥ずかしい。

「家、来るか?狭いけど」
「え?」

ぽとりとプリンが、スプーンからこぼれ落ちる。

「最近、一人暮らしを始めたんだ」
「でも」
「ここで会ったのも何かの縁でしょ。ね、仕送りの半分くらいくれれば、いや、くれなくてもいいから」

に、と口角を上げて目を見つめる。ガラス玉みたいな茶色い目は昔と変わらなくて、キラキラと西日に照らされている。

「そんな」
「大丈夫、こう見えて俺、結構給料良いんだから」

かかった、と思った。
遅すぎたのだ、何もかもが遅すぎたのが悪いのだ。秋穂が、引き寄せてくれた縁だ。

「大切にしなきゃな」

くいっと、何杯目かの珈琲を飲み干した。

(六)

「守、帰ったよ」
「ユキ先生おかえりなさい」

バレンタイン、今日は秋穂の20歳の誕生日だ。どれだけ待ったか。あれから15年近くの歳月が過ぎたのかと、思うとなんだか感慨深ささえも覚えるのだった。

「バレンタインなので、これ」

晩酌時、スっと彼から手渡されたそれは、丁寧にラッピングされたチョコレートであった。

「ありがとう」

ちゅ、と額にキスをする。この数年で俺たちの関係も大きく変わった。先生と生徒だった俺たちは、いつの間にか年の離れた恋人のような関係になっていた。恋人の真似事だ。彼の愛情は嬉しいが、そんな感情は一切なくて、ただひたすらに、淡々と愛情を受け取って、そのまま鏡写しにして返している。そんな関係であった。今回はきっと、額にキスが正解である。きっと。

「おでこだけですか」
「あれ、違った?」
「いや、なんでもないです」
「守も酒、飲むか?」

決まりの悪くなった俺は、晩酌に付き合うように誘う。

「い、いただきます」
「了解。いいグラス、出そうかな」

食器棚からカチャカチャとグラスを2脚出して、すっと飲み口を撫でる。

「うん、いい感じ」

カチンとグラスが鳴る。

「乾杯」

グラスを彼の赤い唇が挟み込む。

「まって」
「えっ......?」
「守、口ゆすいでこい」
「どうして?」

困惑で目を丸くした彼は、俺に言われるがまま、台所に向かう。

「どうして......クソ、なんでだ」

こんなにも待ち望んでいたのに、この日を、この時を、

「なんでだよ、守。どうしてお前があの女の息子なんだよ」

こんなにも冷徹に、受け入れずに愛したフリをしていたのに。俺は、彼を殺すことさえもろくに出来ないのだ。そういう人間になってしまったのだ。

「はい......?」
「約15年、あの日、あの場所で、高崎良子に轢き殺されたのは、俺の、......っ」
「分かってましたよ」

その声はとても冷えたものであった。

「えっ?」
「先生、凄いあの事件のこと聞いてくるんだもん。バレますよ」

はは、と笑う。

「こんな因果、あまりにも最悪です、でも、俺が死んで、先生たちが満足するなら」

俺の手を首元にきゅ、と宛てがう。とても力強く、殺してくれと言わんばかりである。


「それが僕のできる贖罪です」

にっ、と笑う彼の顔は、何故か今までのどんな姿よりも幸福に満ちたものであった。


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