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奇跡の子 最終話

 同じ頃、別沢家の向かいの家の廊下で、つぶやく声があった。
「今夜はやけに寒いねえ。」
 寝間着にガウンを羽織ったマージばあさんは、トイレから寝室に戻る途中だった。そこへ、家の前で車が止まる音が聞こえた。
「なんだい? こんな夜更けに。」

 マージばあさんは顔をしかめて居間の窓のカーテンの端をほんの少しめくった。見ると、雪の降る中、向かいのアパートの前に一台の黒い車が止まっていた。
「おや、なんだろうね?」

 マージばあさんは不審に思い、しばらく様子を伺ったが、付近に人影は見当たらなかった。マージばあさんは玄関の扉をそっと開け、門から通りをのぞいてみた。人の気配はなかった。そっと車のそばに近づき、ドアガラスから中をのぞきこんだ後、ナンバープレートを確認し、アパートを一瞥して家の中に戻った。

「今時分、何の用事かね。変だねえ。」
 いつものマージばあさんなら、このまま窓からのぞいて、訪問者が帰るまで観察するはずだった。しかし、今夜は随分と寒く、部屋の冷気がマージばあさんの体にこたえてきた。
「明日聞こうかね。」
 マージばあさんは玄関に置いてあるメモ帳に車のナンバーや特徴を書き留めると、寝室に戻っていった。

「パパ、マナトがいないわ!」
 翌日まだ夜が明けない頃、タカフミはヒロコに揺さぶられて目を覚ました。タカフミは片ひじをついて眠い目をこすった。
「どうした?」
「マナトがどこにもいないの! 起きてよ、パパ!」
 タカフミは飛び起きて布団や部屋の中を見回したが、マナトの姿はそこにはなかった。
「トイレじゃないのか? 他の部屋は?」
「見たけどいないのよ。まさか、昨日の私たちの話を聞いて、それで……。」
 ヒロコの顔が恐怖でひきつった。
「いや、まさか……、あの時マナトはとっくに寝ていたよ。とにかく、もう一度探して、いなかったら警察に連絡しよう。」

 二人が家中くまなく探しても、マナトの姿は見つからなかった。タカフミはすぐに警察に電話した。
「もしもし、別沢です。守川署長をお願いします!」
「昨日の別沢さんですか? どうしました?」
「息子がいないんです。起きたらどこにも見当たらないんです。」
 電話に出た若い警察官は、タカフミの言葉と焦り具合に、これは一大事と見て取り、すぐに署長に電話をつないだ。

「もしもし、守川です。お子さんが行方不明だとか。」
 署長は早口で聞いた。署長も焦っていた。
「さっき目を覚ましたら、マナトがいなくなってたんです。」
「すぐそちらに警官を向かわせます。」
 署長はいったんはずれて、警官に急いで号令をかけた。
「もしもし、詳しい話を聞かせてください。」
 電話口に、再び守川署長の声がした。

「最後にお子さんを見たのは?」
「昨日の夜の十一時過ぎくらいです。私たちが寝るときには眠っていました。」
「玄関の鍵はかかってましたか?」
「はい。」
「何か怪しい物音は聞きましたか?」
「いいえ。」
「不審な人物を見たとかは?」
「いえ、全く。」
「ここ一週間のうちでは?」
「……ないと思います。」
「ふーむ、これは誘拐事件かもしれませんな。だとしたら、えらいことだ。警官が到着するまで、部屋の物に手を触れないで待っていてください。」

 ヒロコが守川署長に詳しい事情を説明していると、外で車の止まる音がした。
「新生山署の者です。」
 タカフミがドアを開けると、若い警察官が立っていた。
「すぐに刑事と鑑識が来ますので。」
 まもなく家の外でバタンと勢いよく車のドアを開ける音がすると、口ひげをたくわえた恰幅の良い男と、その他数名の警官が入ってきた。
「刑事の森崎です。」
 森崎と名乗った刑事は、一礼した。
「さっそく捜査を開始します。」

 タカフミとヒロコはパジャマ姿のまま、寝室へ案内した。警察官たちはそれぞれリビングや寝室を調べ始めた。森崎刑事は二人に聞いた。
「交友関係を伺います。まず、保育園はこだま保育園で間違いないですね?」
「はい。」
「保育園時代に仲の良かった子は?」
「ええと、糸井ハルカちゃんと、それから……。」
 ヒロコが森崎刑事の質問に答えていると、タカフミのスマホが鳴った。

「もしもし?」
「守川です。」
 タカフミはヒロコたちから離れながら電話に出た。
「別沢さん、いいですか? この件は事が事ですので、重大事件となりえます。緊急度が高く、いかに早く解決するかが鍵です。よって、公開捜査にすべきと判断しました。異存はありますか?」
 守川署長は毅然とした強い口調だった。
「公開捜査をしていいか、聞いてる。」
タカフミはヒロコに声をかけると、ヒロコは頷いた。
「わかりました。お願いします。」
 一刻を争う状況であることは二人も理解していた。

「では、お子さんの写真や動画を用意して下さい。顔が大きく映っているのと、全身が映っているのをいくつか。それと、昨晩お子さんが着ていた服装や身長、体重、その他諸々の特徴を確認させて下さい。あと、これはできればの話ですが――」
 守川署長は一呼吸おいた。
「お二人のうち、どちらかが警察と一緒に、メディアに対して公開捜査の会見に出ていただきたい。可能であれば、母親がテレビに出るのが効果的だと思います。視聴者が、母親と子どもを結びつけて覚えている場合もあるからです。あの女性の子ども、あの子どものお母さん、という具合に。お子さんの写真と一緒に並べば、視聴者も思い出しやすくなります。あくまで、ご協力をお願いする形ですが。」

 タカフミはヒロコにスマホを渡した。ヒロコは黙って話を聞いていたが、
「分かりました。」
 と、頷いた。躊躇している場合ではなかった。
「それでは、さっそく準備をお願いします。」
 タカフミはマナトの写真を探しに、ヒロコはコートを羽織ると、警察官と一緒にパトカーへ飛び乗った。

 まだ夜明け前の、雪の吹雪く真っ暗な街の中を、パトカーは市の警察署へ向かった。
住宅街を抜けると、新生橋が見えてきた。思えば、ヒロコが橋の向こうに渡るのは、あの恐竜事件以来だった。あの事件以来ヒロコは自宅にこもる日が続いた。それが今や、もはや自分の意志なのか、事件に引っ張り出されてなのか判然としないまま、家から飛び出しすこととなった。

 橋の上に来ると、ティラノサウルスのイルミネーションが雪の中、ピカピカと黄色く点滅しているのが見えた。それはまるで、迷子になってしまったティラノサウルスがSOSの信号を発しているように思えた。ヒロコにはそれが、マナトの姿と重なった。何としてもマナトを守らなければ。ヒロコを乗せたパトカーは橋を越え、騒動の渦中へと飛び込んでいった。 

 ヒロコが出発した後、タカフミは森崎刑事の聞き取りに答えていた。やがてアパートの前に、応援のパトカーが集まってきた。バタン、バタンとパトカーのドアを閉めたところに、マージばあさんが家から出てきた。
「騒々しいねえ、なんだい、まったく。」
 マージばあさんは手の甲をこすりながら門の前までくると、眉をひそめて車の列をじろじろと眺めた。
「あ、こちらのお宅の方ですか?」
 パトカーから降りてきた警察官は白い息を吐いて、マージばあさんに尋ねた。
「そうだけど、なんかあったのかい?」
 マージばあさんは片方の眉をつり上げた。

「向かいの別沢さん宅のマナト君が行方不明なんです。最近、このあたりで不審な人物や車など見かけませんでしたか? 何か心当たりがあれば、お聞かせください。」
刑事が聞くと、マージばあさんは手を振った。
「あったあった、大ありだよ。昨日の夜に黒い車がそこに止まってるのを、わたしゃ見たよ。」
「本当ですか?」
 刑事はマージばあさんに詰め寄った。
「マージだよ。ちょいと待ちな、ナンバー知ってるから。」
 そういうとマージばあさんはくるりと振り返り、玄関へ走って行った。

 マナトをさらった男二人は、新生山から離れた店の中にいた。
「ここはどこですかい?」
 ドンジはキョロキョロ周りを見回した。暗い店内の四方には、掛け時計や柱時計がずらりと並んでいた。カウンターの奥の狭い部屋は様々な工具が置かれた作業場になっており、ストーブやテレビもあった。
「個人でやってる時計屋だ。店主は今、海外に行ってて留守さ。」
 男は抱えているマナトを客用のソファーに寝かせると、奥に入ってストーブをつけた。そして、続いて入ってきたドンジが持っているスーパーの袋から酒の瓶を取り出し、ラッパ飲みを始めた。
「お前も一杯やるか?」
 男はいつにない気前のよさで、ドンジにも酒を勧めた。だが、ドンジはそれどころではなかった。

「アニキ、のんきに酒なんか飲んでる場合ですかい?」
 ドンジは買い物袋を床に置くと、イライラしながら言った。
「早くあの坊やを起こして、絵本を見せましょうよ。」
 ドンジはソファーで寝ているマナトを見た。マナトは眠ったまま連れてこられ、まだ目を覚ましていなかった。
「そう急くなよ。何か食べたらどうだ?」
 男は床の買い物袋をあごで指した。
「アニキ、どうしてさっさと取りかからねえんですかい? オイラ、辛抱できねえよ。まさか、違う子どもをさらっちまったとか言うんじゃねえでしょうね?」

 男は慌てる様子もなく、ドンジに説明した。
「まあ、待てったら。そんなヘマをするわけないだろ。ここまで来れば、もうこっちのもんさ。無理矢理起こして坊やがぐずったりでもしたら、余計に時間がかかっちまってやっかいだ。急がば回れ、さ。これから奇跡を目の当たりにするんだぜ? ゆっくり待とうじゃないか。」
「いや、でも……。」
「ほら、テレビでも見てろよ。」
 男がテレビをつけると、緊急会見が流れてきた。
「おっ、見ろよ。早速ニュースでやってやがるぜ。」
  
「こちら、新生山の警察署で、緊急記者会見が開かれる模様です。警察によりますと、子どもの誘拐事件が発生したとのことです。」
 女性のリポーターが、他の取材陣の前で、早口で状況を説明した。
「もうそろそろ始まるようです。警察の……。」
 リポーターが言い終わらないうちに画面が切り替わり、会場の様子が映し出された。

 長い机に大きなマイクが三つ並んでおり、警察幹部と思われる男性二人が、両端の席についていた。その内のひとりがマイクをつかんで口を開いた。
「えー、ただ今から緊急会見を行います。今回、新生山にて、誘拐事件が発生しました。被害者の名前は、別沢マナト、二歳の男児です。昨夜から今日未明にかけて、新生山の自宅より連れ去られた模様。」

 カメラのフラッシュがたかれる中、奥のドアから一人の警察官が出て来た。マネキンと二枚のパネルを持っており、それらを机の上に立たせた。
「こちらが、被害者が誘拐された時の服装と、被害者の写真です。」
 水色のパジャマを着たマネキンの横に、マナトの全身姿と、顔だけ大きく映したパネルが並べられた。
「何か情報をお持ちの方は、警察までご連絡下さい。どんな些細な事でも構いませんので、よろしくお願いします。」
 警察官が少し頭を傾けると、フラッシュがパパッと立て続けにたかれた。

「えー、今回は被害者のご家族の方にも来て頂いております。どうぞ、こちらへ。」
 硬い表情のヒロコが二人の警察官に挟まれてドアから歩み出て来た。そして、真ん中の席に座った。
「こちら、被害者の母親の別沢ヒロコさんです。」

 大勢の報道陣の視線と、一斉にたかれたカメラのフラッシュを浴びたヒロコは、思わず目を伏せてうつむいた。今まで家に引きこもっていたヒロコにとっては強烈だった。しかし、自分がこの場に来た目的をすぐに思い出し、自らを奮い立たせて顔を上げた。
「マナトを見かけたり、心当たりのある方は、警察に連絡して下さい。お願いします。一刻でも早くマナトが無事に戻ってくることを願っています。」
 ヒロコがそういって深々と頭を下げると、またもやフラッシュが眩しいくらいにたかれた。するとすぐに一人の記者が質問した。

「この事件は、新生山の恐竜事件と関係があるんですか?」
 警察官は、記者を制止するように手を挙げた。
「今のところ、何とも言えません。我々も、いわゆる恐竜事件について調査しきれていませんので。」
「だけど今回の誘拐事件の被害者の年恰好は、恐竜事件の証言者のいう特徴と似てますよ?」
「十分な調査がされてないので、断定はできません。」
「恐竜事件のあった当日に渡り池公園に遠足に行っていた保育園の園児たちの中に、今回の事件の被害者と同じ名前があるようですが?」
 記者は食い下がった。
「こちらでは確認してません。」
 警察の返答は、調査不足の一点張りだった。

「恐竜事件の子どもの能力が目的の誘拐事件じゃないんですか?」
 他の記者が指摘した。
「犯人が逮捕されない限り、犯人の目的は断定できません。」
 警察の手応えのない返答に、記者たちは業を煮やして息巻いた。
「特徴が一致しているのは明らかでしょう!」
「本当は把握してるんじゃないですか?」 
「隠すな、ちゃんと答えろ!」
「子どもに能力があると分かっているから、緊急会見を開いたんだ!」
「実体化能力は本当にあるんでしょ!」
 場内が紛糾する中、ヒロコが叫んだ。

「能力なんか、あってもなくても!」 
 会場は一瞬静まりかえった。
 ヒロコは震える声で続けた。
「そんな能力があってもなくても、マナトは同じ私たちの子です。そんなことはどうだっていいんです。とにかく犯人が捕まって、マナトが無事に帰ってきて欲しいだけなんです。」
 ヒロコの言葉で落ち着くかと思えた場内は、再びざわめきが沸き始めた。

「あ、起きましたぜ、アニキ。」
 カウンターの中で座っていたドンジが声を上げた。
ヒロコの声で目が覚めたのか、マナトはソファーから上半身を起こした。
「王子様のお目覚めか。」 
 男はテレビを消すと、作業場から出てきた。
「アニキ、さっそく始めましょうぜ。」
 ドンジは待ってましたとばかりに、買い物袋から絵本を取り出した。
「よし、一仕事やってもらうとするか。」

 男は絵本を一冊選び、パラパラとめくった。
「本番前に、ちょいとこいつを出してもらおうか。」
 そういって、男はページを開いたまま、マナトの隣でかがんだ。
「ほら、マナト君の好きな絵本だよ。」
 男は猫なで声で絵本を差し出し、指さした。
「これはなんだろうね?」
 マナトはさっそく興味を示し、絵本を見つめた。ドンジもソファーの後ろに回ってきて、   の隣から絵本をのぞきこんだ。
「いつものようにやってごらん? ほら、小さくてかわいいね。」
 マナトは絵本に触って指を動かした。すると、小さな光とともに一匹の白いネズミが現れ、部屋の隅へ逃げていった。

 二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。
「本物だな。」
「すげえ、本当だったんだ!」
 ドンジは跳び上がって喜んだが、男は冷静だった。
「アニキ、これもやってみてえな。」
 ドンジは他の絵本を持ってきた。
「やれやれ、いいだろう。ほら、さっさと済ませろよ。」
 ドンジはマナトの前に金貨の描いてあるページを開いて置いた。
 マナトが触って手を動かすと、金貨が数枚、床に転がった。
「アニキ、見てくれよ! 本物の金貨だ!」
 ドンジは金貨を拾うと、高く掲げたり裏返したりした。
「あんまり大きな声を出すなよ。坊やがびっくりするだろ。」
 男はドンジをにらんだ。
「すまねえ。ハハ、つい興奮しちまって。」
 ドンジは金貨を拾い集めながら笑った。

「どうやら絵を触って指を動かすと、実体化できるようだな。」
 ドンジは男の話はそっちのけで、金貨を指で広げていた。
 男は、そんなドンジをせせら笑った。金貨なんぞ出してもしょうがない。オレなら、そんなものは出しはしない。出してもらうべきは、手に入れたい物それ自体ではないのだ。
「さて、では本番といくか。」
 男は残りの絵本を手に取った。ドンジはそれに気づいて、男に近寄った。

「アニキ、何を出すんですかい?」
 ドンジは、期待に満ちた目で絵本を覗き込んだ。
「これだ。こいつを出すんだよ。」
 男が開いたページには、長い衣を着て、先に飾りのついた杖を持っている、白いひげの老人が描かれていた。
「え? このじいさんを出すんで?」
「そうさ。」
 男は勝ち誇ったように言った。

「神様かなんかですかい?」
 ドンジが困惑気味に尋ねた。
「バカ。 神様なんか出したら、オレ達、地獄に連れてかれるぞ。こいつは魔術師だよ。この魔術師のじいさんに、オレ達の願いを叶えてもらうんだ。このじいさんに頼めば、金よりすごいものが手に入る。」
「本当ですかい?」
 ドンジは目を輝かせた。

「お前の出した金貨なんか、すぐに消えちまうよ。例の恐竜みたいにな。」    
「ちぇっ、そういや、そうだった。」
 そう言うと、ドンジは金貨をカウンターに放り投げた。
「それなら、さっさとやりましょうや。」
「ああ、いよいよだな。」
 男は深呼吸をすると、ゆっくりとマナトのそばへ近づき、絵本を開いた。

「マナト君、これが最後だよ。この人を触ってごらん。」
マナトは絵本を食い入るように見つめた。男は、絵本に描かれた老人を指さし、マナトを誘導した。ドンジは男の後ろで、息をのんで見守っていた。
 マナトは老人の絵に触り、手を空中で動かした。すると、大きな光とともに、長い衣をまとい、腰まで届きそうな白いあごひげを生やした老人が部屋の真ん中に現れた。

「おお!」
 いつもは冷静な男も、この時ばかりは興奮気味に驚きの声を上げた。
「はて、ここは?……。」
 老木を思わせる彫りの深い顔で辺りを見回すと、老魔術師は節くれ立った指で長いあごひげを撫でた。
「ようこそ、偉大な魔術師のお方。お目にかかれて光栄です。」
 男は魔術師の前にひざまずき、帽子を取って丁寧に頭を下げた。慌ててドンジも男の真似をしてひざまずいた。

 魔術師は男に杖の先を向けた。
「何だ、貴様らは?」
「オイラたちが、おめえ様をお呼びしたんで。」
 ドンジは揉み手をしながら説明した。
「貴様らに、そんな力があるとは思えないが……。」
 魔術師は、見下した目で二人を睨んだ。

「実は、この子どもの力を借りて、私どもがお呼びしたのです。この子どもは、絵本に描かれてあるものを、現実に実体化させる力があります。私どもも多大なる犠牲を払って、ようやくあなた様を出現させるとこまでこぎつけたのです。」

「ほう。」
 魔術師はひさしのような白い眉を上げて、ソファーに座っている子どもに鋭い視線を向けた。自分ですら使えない魔術を、こんな子どもが扱えることに驚いた。
 老魔術師が杖をつきながらマナトに近寄ると、ドンジがそれを遮った。

「ちょっと待ってくだせえ。オイラたちの願いを聞いてもらいてえんだ。オイラたちがいなけりゃ、おめえ様もこっちの世界に出て来られなかったわけなんで。」    
 魔術師は立ち止ってドンジを睨み付けた。
「願いとは何だ?」
「オイラたちに、たんまり金をくだせえ。おめえ様を絵本から出すにも、うんと金を使ったわけなんで。おめえ様なら、そんなことは簡単でございましょう?」

「バカ、勝手に話を進めるんじゃねえ! そんな暇はねえだろうが!」
 男がドンジを怒鳴りつけると、慌てて魔術師に詫びた。
「失礼致しました。こいつがいきなり不躾なことを言いまして。私どもは決して……。」
「よかろう。」
 魔術師は、男の言葉を遮って言った。
「そこに並べ。有り余るほどの金を拝ませてやろう。」
 魔術師は、杖で壁の方を指した。
「いや、しかし……。」

 男は、自分の目論見とは違う方向に話が進んでしまっているのを止めたかったが、魔術師の有無を言わせぬいかめしい顔つきと威厳に満ちた声に、逆らえなかった。
 喜んでいるドンジの隣に、男が不承不承並んだ。
 老魔術師は何か呪文のようなものを呟いた。すると、持っている杖の頭が、紫色の光を発した。そして杖で空中に大きな紫色の図形を描くと、呪文を呟き始めた。

「?」
 男とドンジは空中に浮かぶ紫の図形をぼんやりと見ていたが、老魔術師が杖の先で二人を囲むように円を描くと、二人の姿は黒いもやに飲み込まれて消えてしまった。
「馬鹿者どもが……。」
 老魔術師は、いまいましそうに呟いた。

「さて……。」
 魔術師は、あらためてマナトの方を向いた。マナトはソファーから降りて、老魔術師をじっと見つめて突っ立っていた。
 老魔術師は物々しい顔つきで、マナトを吟味するように眺めた。こんな年端もいかぬ子が、実体化などという魔術を本当に会得しているのだろうか、といぶかしんだ。しかし、現に自分はこの世界に現れ、先ほどの男ら以外にはこの子どもしかいないので、可能性としてはそれしかないと判断した。

「いいだろう。」
 老魔術師は額に指を当てて目をつむると、呪文を唱え始めた。彼はもともと魔術の習得には貪欲であり、さらには、自分ですら会得できていない魔術をこんな子供が使えるなど、当代随一の魔術師としてのこけんに係わることだった。そこで、マナトの力を奪い取ろうと思ったのだ。

 杖の先が赤く光ると、空中に二つの赤く光る円をくっつけて描いた。そして、その円の中に呪文と幾何学模様を描いて杖で二つの円を貫き、杖の先で床を三回たたいた。すると、杖の頭にある黒い大きな宝石が赤く輝いた。

 魔術師の口元に、笑みがこぼれた。彼はマナトに近づくと、光っている杖の宝石に人差し指で触れた。すると、その指先に赤い光が移った。マナトはただただじっと見つめていた。魔術師は目を細めると、その指先をマナトの額にゆっくりと近づけた。

 老魔術師がマナトの額に指を置いてにやりとした瞬間、彼は白い光に包まれて消えてしまった。老魔術師は新しい力を手に入れて、史上最高の魔術師になったのかもしれない。しかし、それと同時に、もう二度とこの世に現れる可能性もなくなってしまった。

 マナトは何が起きたのか分からず、誰もいない部屋で、ぼうっと突っ立っていた。カチ、カチ、カチと、しかし、自分の頭の中がうごめくような感触があった。マナトは額を手で押さえた。魔術師に触れられた額の奥が痛み出し、頭の中央部から後頭部へ、そして側頭部へと、ドクン、ドクンと血管が脈打つのが感じられた。それは地殻変動のようだった。

 やがてマナトの大きな眼がわずかに脈打った。そして一瞬、大きく波打つように奥に引っ込んだ。目が痛み、マナトはぎゅっと目をつぶった。
 しばらくして目を開けてみると、マナトは違和感を感じた。見えている世界が、まるで一枚の絵をバラバラにしたように見えた。マナトの目の色は、心なしか少しかすれたようにさえ見えた。

 新しく見える世界を驚きながら見ていると、のどの奥に何かが詰まっている感じがした。まるで、空気のかたまりがのどをふさいでいるようだった。マナトはゴホゴホとせきをした。マナトの口から、何かが生まれそうだった。


 一方、男とドンジは暗闇の中にいた。
 二人は、突然目の前が真っ暗になったので、混乱した。
「アニキ、何も見えねえよ。」
「何が起きたんだ? 魔術師のお方、どこにいなさる?」
 男は暗闇に呼びかけた。

「魔術師のお方、聞こえていたら返事をしてもらいたい!」
 しかし、どこからも返事はなかった。
 男は焦った。魔術師が実在している時間はもういくらもない。せっかく魔術師を出したのに、願いを叶えてもらう前に消えてしまっては元も子もない。
「ちくしょう、どこに行きやがった。」
 男はポケットからライターを取り出して火を点けた。
「アニキ、なんだかえらく寒いですぜ。まるで外にいるみたいだ。」
「確かに冷えるな。おい、おまえはストーブを確認してくれ。」

 ドンジもライターを取り出して点けた。暗闇に二つの顔が浮かび上がった。ドンジは作業場がどこにあるか探したが、いくら探してもストーブはおろか、カウンターすら見つからなかった。
 男もウロウロ探したが、さっきまでそこにいた魔術師の姿は見つからなかった。
「どうなってやがる。」

 ライターの火で辺りを照らしてみたが、どうもここは時計屋ではないようだ。
「どこだ、ここは……?」
 男が不審に思っていると、ドンジが急に叫んだ。
「アニキ、見てくれよ!」
 ドンジが床から拾い上げた物にライターを近づけた。それは、札束だった。
「アニキ、すげえ、札束が落ちてるぜ!」

 ドンジは四つん這いになって、床の札束を漁った。男もかがんで足元をライターで照らしてみた。
「札束の山だ! あのジイさんは、オイラの願いを叶えてくれたんだ!」
 男は、札束を一つ掴むと、じっと目を凝らして見た。
「確かに本物のようだ。しかし、何か様子が変だ。」
 男は警戒しながら、辺りをうかがった。まるで、世界から人がいなくなったような静けさだった。

「やはり何かおかしい。時計の音もさっぱり聞こえなくなった。魔術師のじいさんはどこだ? 早いとこオレの願いを叶えさせないと、オレの計画がパーになっちまう。」
 男は一歩一歩札束を足で踏みしめながら、歩いて行った。
「魔術師さんよ、どこにいる? あんたに用があるんだが……。」
 しかし十歩歩いても、時計や壁にはぶつからなかった。

「まさか、オレたちだけ、どこかに飛ばされたのか?」
 男の表情が険しくなった。
「おい、辺りを調べろ!」
 男はドンジに命令したが、ドンジには男の声は耳に入らなかった。
「アニキ、すげえよ。どこまで札束の山が続いてるのか分からねえくらいだ。オイラ、ツイてるなあ。」
 ドンジは喜びの声を上げた。
「チッ、そんなもので浮かれやがって。くそっ、どこだ、ここは?」

 男が札束の山を踏み歩いていくと、目の前に大きな金属の壁が現れた。
「何だ、これは?」
 壁をライターでぐるりと照らしてみた。
「まさか、これは……。」
 男には、すぐさまピンときた。それは大きな扉だった。
「いけねえ。こりゃ金庫の扉じゃねえか! オレたち、金庫の中に閉じ込められちまったのか? くそっ、あのジジイめ、なんて恩知らずな奴だ! ぶちのめしてやる!」
 男は口汚くののしった。

「おい! オレたち閉じ込められたぞ! ここは銀行かどこかの、大型金庫の中だ。おい! 聞いてるのか!」
 ドンジは札束の山を噴水のように高く放り上げて笑っていた。
「アハハハ、オイラは金持ちだ! これで一生遊んで暮らして、ウマい物をたらふく食うんだ! すげえ、すげえぞ、ハハハハハ……。」
 暗闇からは、そんな高笑いが響いてきた。
「くそ! 開けろ、ちくしょう! おい!」

 男は怒鳴りながら握りこぶしで扉を何度も叩き、蹴とばしたが、その格別に分厚い扉はびくともしなかった。
 やがて男のライターの火が、しだいに小さくなっていった。
「おい! 出してくれ! 頼む、助けてくれえ!」
「アハハハ、金だ、金だ、アハハハハ……。」
 二人の叫び声と笑い声が、閉じ込められた暗闇にむなしく響いた。
   
 警察はマージばあさんの証言から犯人の車のナンバーをおさえ、その行方を追っていた。監視カメラの犯人の車の映像を公開し、さらにはバスやタクシー、宅配業者などに協力してもらい、犯人の車探しに奔走した。その甲斐あって、事件当日の夜に、警察は犯人の車と居場所を突き止めた。

 山下警部補率いる警官たちは時計屋を包囲し、一気にドアを開けて中に突入した。
「動くな、観念しろ!」
 薄暗い部屋の中では、子どもが一人うつぶせに倒れていて、その他には人影は見当たらなかった。警官の一人がマナトを抱きかかえて、すぐに部屋の外へ連れ出した。
 マナトを救出した警官は、パトカーでマナトの生死を確認した。マナトは息があり、心臓も動いていた。額に傷があるが、どうやら眠っているだけのようだった。

「犯人はいないようだが……部屋をくまなく調べよう。」
 数名の警官たちは、部屋の中を一つ一つ調べて回った。しかし、ネズミが一匹ドアから逃げていった他は、誰の姿も見つけられなかった。部屋には散らかったゴミや絵本が数冊あるだけだった。
「逃げられたか。む、これは……やはり、知っていたか。」
 警部補は絵本を手に取った。

「ヤツらは何を望んだんだ?」
見回すと、部屋の隅に金貨が散らばっていた。
「これは、マナト君が出したものか?」
 警部補は金貨を拾い上げると、絵本をパラパラめくった。
「これがヤツらの狙いか。金貨を出して逃げたのか、途中で断念したのか、それとも……。」
 警部補は立ち上がると、部屋は他の警官に任せて、パトカーの方へ向かった。

「被害者は無事か?」
 運転席の警官に尋ねると、パトカーの中をのぞきこんだ。マナトは後部座席に寝かせてあった。
「ええ、眠っているだけのようです。」
 運転席の警官が答えると、警部補はほっと胸をなで下ろした。
「本部に連絡はしたか?」
「はい。」
「応援は?」
「はい、すでに呼んでいます。」
「犯人はいまだ逃走中だと連絡してくれ。我々はこのまま本部へ向かおう。」
 警部補が乗り込むと、パトカーはゆっくりとすべりだした。

「ピリリリリ!」
 記者会見の後、自宅で憔悴して待っていたヒロコとタカフミのもとに、一本の電話が入った。
「見つかった? 本当ですか!」
 マナトが無事に保護されたことを聞くと、タカフミは思わず叫んだ。
「それで、マナトは今どこにいるんですか?」
「ご心配なく。ただ今こちらに向かっております。警察署に迎えに来てもらえますか?」
「ええ、もちろん。」
 電話を切ると、二人は抱き合って喜んだ。

 二人が警察署へ着くと、医務室に通された。守川署長ら複数の警官に囲まれたベッドに、マナトは寝かされていた。ヒロコとタカフミが駆け寄ったが、警官に制止された。
「保護した時から目を覚ましていません。命に別状はありませんが、かなり疲労しているようです。今日はこのまま安静にしておいて下さい。」

 守川署長は説明を続けた。
「明日、マナト君が目覚めたら、念のため医療検査をします。能力の有無はその後に確認しましょう。明日、ここにおいで下さい。検査内容など詳しく書かれてますから。」
 そう言って、守川署長は書類をタカフミに渡した。
 ヒロコはマナトの無事な姿を目にすることが出来て、涙ぐんだ。そして、タカフミに肩を抱かれながら、医務室を後にした。

 翌日、マナトと無事面会できた喜びもつかの間、別沢家の三人は研究所のような白い施設にいた。こうこうと照明が照らす窓のない部屋の真ん中で、机の前にマナトが椅子に座っていた。マナトの後ろには、タカフミとヒロコ、守川署長と警察幹部数名、白衣を着た研究員数名が、扇状に取り囲んでいた。マナトの周りには、大掛かりな機械類が設置されており、ビデオカメラも回っていた。

「事前の身体検査では特に異常はなく、男児は健康体であります。それでは、さっそく検証を開始します。」
 警察官や研究員が立ち会う物々しい雰囲気の中、守川署長は机に絵本を置いた。マナトが絵本に触って指を動かした。タカフミとヒロコは心配そうに見守った。しかし、マナトが空中で指を動かしても、何も起きなかった。絵本を変えて何回か試してみたが、結果は同じだった。

「何も起きませんね。」
 銀縁眼鏡をかけた色の白い、やせた研究員が冷たく言った。この研究員は、実体化の能力をそもそも信じていなかった。
「いや、実体化するという話なんですが……、別沢さん、どうなんですか?」
 守川署長は困惑してタカフミにたずねた。
「私たちが知る限り、このやり方で実体化されるはずなんですが……」
 タカフミとヒロコも顔を見合わせた。確かにマナトには、絵本から実体化させる力があるはずなのだが……。

「では、誘拐された時に何か変化が起きたということなのかね? そうでなければ元々そんな能力は最初からなかったということになるが……。」
 警察幹部の一人が渋い顔で、疑わしげな視線をタカフミに向けた。マナトは椅子から降りると、ヒロコの足にしがみついた。
「いえ、能力自体はあったようです。マナト君が連れ去られた犯人の部屋に、このような金貨が散乱していました。これは、現場で押収した絵本にも描かれているものです。」
守川署長はビニール袋に入った金貨を持ち上げて見せた。

「うーむ、金貨ねえ。それだけじゃ、何とも言えんが。」
「この子が触れば実体化したものは消えると報告には書いてあったが?」
幹部たちの言葉に、署長は金貨を取り出してマナトに手渡したが、小さな手に握られた金貨は消えることもなかった。
「フ―……。」
 誰からともなく大きなため息がもれた。場は完全に白けてしまった。

「これはあくまで可能性としての話ですが――」
 守川署長は弁解がましく説明した。
「犯人が所持していた絵本には、魔法使いが描かれているものがあります。もしかすると、犯人は魔法使いを出現させてしまったのではないでしょうか。それでマナト君に何かが起きて、その能力も失われたということも考えられます。」

「プッ。」
 研究員が吹きだした。
「超能力の次は魔法ですか? 馬鹿馬鹿しい。」
研究員は冷たく言い放った。
「もう結構です。どうやら科学の出番はなさそうなので、僕はこれで帰らせていただきますよ。」
 そういって、研究員は部屋から出て行ってしまった。

 居心地が悪くなった警察幹部や他の研究員たちも、これ以上ここにいても仕方ないと思ったのか、守川署長たちを残して帰っていってしまった。わざわざ出向いたのにこんな結果では、馬鹿らしくて付き合いきれないと思うのも致し方なかった。

 タカフミとヒロコは、マナトの能力がなぜ消えたのか不思議だった。確かにマナトに能力はあったし、自分たちは噓をついたわけじゃない。それでも、自分たちの言葉を信用してくれたのにこうして面目を失ってしまった守川に対して、何だか申し訳なくも思った。

「ま、この金貨があれば、新生山の橋の修理代くらいは賄えるかもしれませんな、ハハハ……。」

 署長は冗談でお茶を濁そうとしたが、気まずい沈黙が流れただけだった。どうしたものかと残された者たちが所在なさげにたたずんでいると、一人の警官が、勢いよくドアを開けて入ってきた。

「署長、事件です! 大福銀行の金庫に忍び込んだ男が二人逮捕されました。今朝、銀行に出勤した銀行員が発見したらしいです。その証言によると、金庫は外側からは開けられた形跡がないにもかかわらず、男たちは金庫の中にいたそうです。いつ、どうやって金庫に入ったのか、分からないと言ってます。」

「なんだなんだ? 今年は妙な事件ばっかり起こるな。」
 守川署長は、ため息をついてかぶりを振った。
「わかった、すぐ行く。」
 署長はタカフミたちに向き直った。
「では、ここで私は失礼します。皆さんはもうお帰りになっても結構です。今日はどうもお疲れさまでした。」
 署長はそういうと、知らせに来た警官とともに、慌ただしく出ていった。

 部屋に残っていた若い警官二人が、別沢家の三人を出口へと案内した。
「今日はお疲れさまでした。研究員が言ったことは、気になさらないで下さい。」
 警官の一人が三人を気遣うように言った。
「私個人としては、マナト君に超能力はあったと信じていますよ。」
もう一人の警官がそう言って微笑み、タカフミに抱かれているマナトを見た。マナトは検査で疲れたのか、もう眠っていた。

「あの……、マナトを誘拐した犯人の部屋に、魔法使いが出てくる絵本があったって言ってましたけど……。」
ヒロコは遠慮気味にたずねた。
「え、ええ。魔法使いが登場する場面は確かにありましたが?。」
 警官は怪訝そうに答えた。
「さっきの銀行強盗の事件の犯人たちは、どうやって金庫に入ったのか分からないんですよね? もしかしたら、その絵本の魔法使いが出てきて魔法で――。」
 警官たちは顔を見合わせた。
「まさか……。」

 別沢家の三人が新生山の駅から出ると、午後の陽ざしが照らす雪に光が散りばめられ、街全体が澄んだ青空に輝いていた。雪が解けて濡れた路面が黄金色に輝いている中を歩いていくと、新生橋が見えてきた。新生橋を渡っていると、向こうから歩いてくるマージばあさんにばったり出くわした。

「あら、こんにちは。」
「おや、お出かけかい?」
 マージばあさんは白い息を吐いて、笑顔を見せた。
「いやいや、大変だったじゃないか。」
 マージばあさんは、タカフミに抱っこされて眠っているマナトをちらりと見た。マナトが無事に保護されたのは、昨晩のニュースですでに知っていた。

「しかし、あたしゃ、ショックだよ。すぐそばで、こんな大事件が起きていたのに、全く気づかなかったなんて。あたしも焼きが回ったね。」
 ヒロコは、警察が家を訪ねてきた時のことを思い出した。あの時、マージばあさんは警察とは何も関係はなかったのだ。
「でもまあ、あたしが犯人の第一発見者だから、よしとするか。」
 マージばあさんはひとりでウンウン頷いた。
「えっ、そうなんですか?」
 ヒロコはびっくりして聞いた。

「そうさ。昨日の朝方、お宅のアパートの前に止まった車の情報を警察に教えたのは、何を隠そう、あたしなんだよ。」
 マージばあさんは、得意げに言った。
「それはどうもありがとうございました。おかげでマナトもすぐに発見されて、なんとお礼をすれば良いやら……。」
 ヒロコはマージばあさんを疑っていたので、ことさら恐縮した。
「お礼なら、記者会見や警察とのやりとりの裏話が聞きたいね。今度、ゆっくり聞かせておくれよ。」
 マージばあさんは内緒話でもするように、口に手を当てながら言った。

「そういうことなら、いつでも家に遊びに来て下さい。」
 マージばあさんらしいリクエストだと、ヒロコとタカフミは顔を見合わせて笑った。
「そうかい、そうかい。ありがたいねぇ、滅多に聞けない話だからね。よしよし、じゃあ、また今度。」
 マージばあさんは満足げににっこりと笑うと、手を上げて駅の方へ去って行った。

 マージばあさんを見送ると、ヒロコはふと思い出した。そういえば、明日、糸井カオリとハルカちゃんに会う約束をしてたんだった。午前中に何かハルカちゃんにプレゼントを買わなくちゃ。

ヒロコはプレゼントによさそうな新生山の店をあれこれ思い浮かべて、大きく息を吸った。新鮮な空気がヒロコの胸に広がった。

 夕方のニュースでは、警察が会見を開いて事件の結末を説明した。誘拐事件の犯人の行方は判明していないが、別の銀行強盗の事件で逮捕した男たちに特徴が似ているため、指紋の照合など、特定を慎重に行っているとのことだった。

「被害者の男児は、本当に恐竜事件と関係がないんですか?」
 記者はしつこく問いただした。
「我々警察も、ご両親の立ち会いのもと検証しましたが、被害者にそのような能力がないことは確認しました。いたって普通のお子さんであるのは、間違いありません。」
 警察はきっぱりと答えた。
「いわゆる恐竜事件と今回の誘拐事件は、まったく別の問題です。」
「では、恐竜事件はどうなるんです?」
「我々としても調査を続行するつもりですが、これ以上の捜査の進展は望めないでしょう。」
 こうして、記者会見は終了した。

「これで騒ぎも収まっていくんじゃないかな。」
 夕ご飯を終えた別沢家の三人は、リビングのソファーでひさしぶりにゆっくりとくつろいでいた。この三か月間、二人には気の休まる時間がなかった。
「ようやく、もとの平穏な生活に戻れるわね。」
 ヒロコも穏やかに微笑んだ。
「今思うと、絵本の中に入り込んでしまったみたいだったわ。」
 ヒロコも感慨深げに言った。どうしてマナトの能力がなくなったのかは結局分からないままだったが、マナトが無事に戻ってきてくれたことに比べれば、もうどうでもよいことだった。

 タカフミは立ち上がってダイニングから赤い包みを一つ持ってきた。
「マナト、プレゼントがあるよ。」
「あら、いつの間に用意してたの?」
 ヒロコは驚いた。何しろ今年はクリスマスどころではなく、プレゼントのことなど頭になかった。
「ほら、パパがプレゼントをくれるって。」
 ヒロコはマナトを二人の間に座らせた。

「パパとママからのプレゼントだよ。」
 タカフミはプレゼントを手渡すと、マナトの頭をなでた。
「え? わたしは用意してないけど……?」
 ヒロコが不思議み思っていると、マナトがさっそく赤い包装紙を破いて開けた。
「あ、それは……。そうね、もう見せても平気なのね。」

 中から出て来たのは、タカフミとヒロコが一緒に作った絵本だった。ヒロコは自分も描いた絵本のことをすっかり忘れていた。
「ようやく、この絵本の出番ってところさ。せっかくのクリスマスだしね。」
 マナトはページをめくった。以前は絵本を見せると食い入るように見ていたのだが、もうそれほど夢中になる様子はなかった。

「ほら、これがパパの子どもの頃だよ。」
 そこには、子どもたちが野球をしている場面が描かれていた。
「パパは子供のころ、野球が好きだったんだ。近所の友達とよく野球で遊んだんだよ。」
マナトは描かれたボールを指先で触った。タカフミとヒロコはそれを見守った。もう実体化の能力がなくなったことにほっとしつつも、どこか寂しい気もした。

「これがパパだよ。この赤い帽子をかぶっているのがパパ。」
 タカフミがを指さすと、マナトも同じ絵に指を置いた。
「そう、パパだよ。」
 タカフミがもう一度マナトに言った。
 マナトが顔を上げてタカフミの口元を見ると、絵本を見てタカフミの絵を指で叩いた。

「パッ……パ。」
 タカフミはビックリした。マナトが初めて言葉を発したのだ。
「しゃべった! ママ、マナトがしゃべったよ!」
 ヒロコも驚いてはっと息を飲んだ。一瞬、空耳かと思った。
「ええ、確かにパパっていったわ!」
 タカフミは興奮して、今度は本物の自分を指さした。
「パパ、パパだよ!」
 マナトはタカフミを指さすと、
「パッパ。」
 と言った。ヒロコも自分を指さして叫んだ。
「ママよ! ママ!」
「マッ、マ。」

 マナトが言葉を発するたびに、タカフミとヒロコは大騒ぎをした。星の瞬く夜空に、二人の歓声が響いた。二人にとっては、これ以上ない喜びだった。まさに奇跡が起きたようだった。

 やがて二人はペンを持ってきて、絵本のちょうど真ん中の、三人が描かれているページに吹き出しを付け加え、それぞれその中に書き足した。タカフミとヒロコがずっと待ち望んでいた二文字を。マナトへのプレゼントだった絵本が、まるでマナトからのプレゼントのようにさえ感じられた。

 今夜ばかりは二人が狂喜乱舞して騒いでも責められないだろう。しかし、明日マージばあさんに根掘り葉掘り〝事情聴取〟されるのは、間違いない。


おわり

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