詩心と生活と・・・・エンドレス落ち葉拾い
散りゆく姿を見るのが好きです。
春は桜の、秋は落ち葉の散りはじめ。
ほんの1〜2枚がヒラヒラ散っているところに遭遇すると、あまりの美しさに息をのんでしまいます。
こういうのを見るときは、独りきりが良いですね。
誰かといると、つい話したくなるから。
でも言葉にしちゃうと、この気持ちが消えてしまう気がするから。
ところで、うちのマンションの入り口にも落葉樹があります。
今年もなかなかの色付きを見せてくれました。
現在は1〜2枚を超えて葉を散らしております。
そう、大量の葉を。
マンションには定期的に清掃の方が来てくださるのですが、毎日ではありません。
そんなわけで時々、ソロ落ち葉拾いをやっています。
直近では22日にやりました。
そして24日、マンションを出ると・・・
わたしの労力を返してください。
こうなると、もう「散りゆく葉を眺めるのがスキッ❤️」なんて気持ちは、ぶっ飛びますよね。
いらだちMAX1000%って感じ。でも当然にぶつける先はなく。
このようにして詩心は、現実の生活にかき消されていくのです。
フランスのとある作家(お貴族さまです)は、自身の戯曲で
「生きること? そんなことは召使いどもに任せておけ」
というセリフを書いています。
これを知った時、うまいこと言うよなあと思いました。
生活と芸術って真逆ですもんね。
美しく装ってお出かけすれば、夜にはメイク落としが待っている。
恋に落ちて一緒に暮らせば、家事の嵐にみまわれる。
紅葉は燃えるように美しい。けれどその後には大量の枯葉が・・・
そりゃ貴族ならメイク落としだの後片付けだの、面倒なことはぜーんぶ召使いにやってもらえますもんね。
自分はマドレーヌなんぞ食べながら、思索にふけっていられるでしょうよ。
でもこちとら一般庶民、何もかも自分でやらなきゃいかんのです。
詩やロマンの後には、いったん舞台裏に突っ込んでおいたものを、洗ったり片付けたりしなくちゃ、生きられないのであります。
ただ、最近思うのですよね。
結局のところ生活を召使いにやってもらっているうちは、「本当の詩心」を体感することなど無理ではないか?と。
わたしは「詩」を詠みませんが、「詩」が人生そのものだとしたら、やはり裏表の両方を知らずには作れない気がします。
noteで「この創作いいな」と思うのは、やはり人生の裏側も感じる作品ですから。
舞台裏あってのステージ。生活あっての人生。死があっての生。
落ち葉ひっくるめての「紅葉の楽しみ」なのですよね。
つまりわたしこそが落葉樹の暗黒面を忘れ、散りゆく姿にうっとりしていた愚か者だったのです。
だとしたら今後は嫌がらず、落ち葉拾いをしなくては。
散りゆく葉に美を感じるのならば。
真の詩心を感じたいのであれば!!!
たとえ拾えども拾えども、落ち葉が一向に減ることがなくても・・・・
たった1日で可燃袋いっぱいの葉が、新たに溜まるとしても・・・
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