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ぷるぷるパンク - 第9話❷

●2036 /06 /17 /23:10 /川崎・浮島(旧サマージアジト)
 
 羽田空港からほど近い埋立地の工業地帯。金属とコンクリートが入り組んだ無機的な重い工場群に、光る大小のビーズをピンセットで飾りつけたような繊細な夜景が、降り頻(しき)る雨季の雨のせいで有機的に見える。まるで呼吸をする深海の未知の生物のようだ。
「東亞合成(とうあごうせい)川崎工場」の古い金属のサイネージがあるその工場の入り口ゲートには有刺鉄線が巻かれ、雨の重みでだぶついた「KEEP OUT」のテープが何本もだらしなく張り巡らされている。アサルトライフルを抱えた哨戒中の特殊部隊がマネキンのようにが突っ立ってそのヘルメットから雨を滴らせる。時折ゆっくりと歩いて移動しなければそれが本物だということがわからないほどだ。
 
 羽田空港襲撃事件からちょうど二週間。その後続いたサマージと思われる閃光事件や、腰越漁港の大爆発があり、カワサキ・サマージの施設が閉鎖されてから一週間以上が過ぎていた。
 
 都会のビル群のように林立する円柱のガスタンクの表面に、淡々と冷たい雨が当たる。一粒一粒の優しい雨音は、それが数え切れないほどたくさん集まっても、ずっと優しい音のままだ。ボリュームのある優しい音が辺り一面を覆っている。不意にずるずると重い何かを引きずるような音がして、敷地内の駐車場にあるマンホールの蓋が闇に紛れて数センチ浮き上がった。哨戒中の隊員が振り返ると、マンホールは静かに閉まった後だった。
 
「いるよ。」
 下水道官の竪穴にサウスの声が響く。サウスが金属のハシゴを一段一段ゆっくりと降りる。
「じゃあF6しか残ってないね。」
 ノースがヴィジョンに共有されているマップの別の地点にピンを立てた。サウスが竪穴の入り口から飛び降りると、ヌメヌメとした下水が四方に勢いよく飛び散った。荒鹿はノースの後ろで肩を縮め、どうにか下水の被害を減らす努力をした。
 目元まで覆うPFCスーツとヴィジョンゴーグルという出立ちの三人はサウスを先頭に、暗い下水道管をそろそろと移動する。
 双子が襷掛けで背負う大きなヘルメットバッグがぼろぼろなのは「普通」の生活では縁のないこんな場所を、ずっと一緒に通り抜けてきたからだろう。
 足首ほどまであるヌメヌメした下水の中を歩く双子とは対照的に、荒鹿は足を広げてできるだけ下水につからないように移動する。
 F6のポイントでサウスがジャンプして、コンクリートから突き出す太いホチキスの針のようなハシゴをつかむと、腕の力で体を引き上げ竪穴に消えた。
 
N[PFCスーツはSNS撥水だから汚れない、ちゃんと歩け]
 荒鹿のヴィジョンにノースからのダイレクトメッセージが表示された。SNS撥水ってなんだよ、と荒鹿は思う。
N[スーパーナノスリット。アワラの講義で聞いた]
9[え? 今、読んだ? 思考、読んだ?]
 ノースが立ち止まって後ろの荒鹿に振り返り、PFCスーツ越しにため息をついた。
「クズリュウの考えてることぐらいわかるよ。」
 
 荒鹿はめんどくさそうに頷いて、おそるおそる足を下水に入れるとすぐにサウスからの合図がヴィジョンに表示された。オールクリアー『GO』。
「行こう。」荒鹿に続いてノースが竪穴へと消えた。
 サウスがマンホールの蓋をスライドさせるとヴィジョンの暗視露出の可視光線部分の光量設定が変わり視界が一瞬ホワイトアウトする。
 
 荒鹿はゆっくりと地上に頭をだした。高度0メートルから見上げる建物や雨雲が垂れ込める低いはずの空や降ってくる雨粒の一つひとつは、どうやっても手が届かないくらい、いつもよりずっと高く感じられた。
 地上に這い出て、PFCスーツを首元まで下げ雨の匂いのする地上の空気を吸い込むと、サウスはすでに数メートル先の建物の影で、肘を張り顔の右側に銃口を上にして銃を構えている。サウスは視線だけを荒鹿に送り、首で合図をした。首の横で濡れたピアスが光る。サマージの合図だ、と荒鹿は思う。懐かしさすら感じる。荒鹿は屈んだ姿勢のまま、サウスの後ろまで走った。
 
 建物の角から向こう側を伺っているサウスが、銃を構えたまま振り返ってマンホール付近で体を低くして待機するノースに視線をやり、首を使って合図を送った。
 ノースが合流すると双子はその場にヘルメットバッグを置き、バッグの中から別の銃やらベルトやらいろいろなものを取り出して、順番に地面に並べた。
 
「作戦通り、二手に別れる。あたしとさっちゃんが4階から、クズリュウはここを通って先にK3地点で待機。」マップにK3地点と、荒鹿のルートが表示された。建物に沿って移動できるシンプルなルートだ。
「最悪の場合を除いて、アートマンにはならない。アワラによると、周波数がモニタリングされているらしい。タコも禁止。」
「そりゃそうだね、アートマンの本拠地だもん。」
「6メートル以上離れるとBluetoothが切れるようになってるから、これ以降はK3まで連絡が取れないけど、気をつけてね。持ち物全てからSIMは抜いてあるけど、wifiも拾わないように。」てきぱきと的確に指示を出すノース。
「特殊機内モードになってる。」もう一度コントロールパネルを開き、芦原が設定に追加した特殊モードを確認して荒鹿は頷いた。
 
 サウスは銃をそっと地面に置くと、左太ももに巻いたレッグホルスターを外し銃の隣に置いた。それから地面に並べてあるベルトの一つを取り上げて、PFCスーツが顕(あらわ)にしている腰の滑らかでしなやかなくびれのラインの下あたりにそれを巻いた。
「アラシカ。」一連の動作を見つめていた荒鹿は、反射的に経験上一番確率の高い「変態」の罵声を察知、慌てて目をそらした。
「銃、撃ったことある?」突然の質問だった。
「え?」荒鹿はサウスを振り返って、フリーズした。
「じゅ、う?」
 
「だいじょうぶ。アラシカ、ちょっと強くなったから、撃てるよ。」
「グロックは二つしかないからね。」そうやって会話をしている間にも双子はてきぱきと装備を整えていった。
 
「クズリュウ」ノースが声をかけた時、荒鹿はサウスに手渡されたレッグホルスターを左腿に装着しながら、その震えを隠さなければならないほど手が震えていた。
 数時間前に姉の車で周辺を偵察した時に、アサルトライフルを持った県警の特殊部隊を見かけた。対アートマンを想定した重装備だ。あの方達と銃でやり合う? 銃撃戦? こんな裸みたいなスーツで? ライフルと? 
 荒鹿には、銃撃戦で勝てる想像はおろか、銃撃戦の様相すら想像することすらできなかった。
 
「大野ちゃん、見つけるよ。」ノースがそう言って荒鹿を励ますのは、出発の前に芦原の研究室で大野の捜索願の画像と小舟からの情報を共有されていたからだ。
 しかし荒鹿も夢のことは言いそびれていた。おそらく、共有する必要のない事項ということにしていたが、実際はただ恥ずかしかったのである。
 
 とにかく。微妙に違う理由ではあれど、今は双子が自分と同じ目的を持っている事実が力強い。荒鹿はノースの目を見て頷いた。
 
「さっちゃんの、グロック。」サウスが荒鹿に銃を手渡す。震えがおさまった手のひらにずしりと重いそのグロック22は、この冷たい雨の中でも少しだけサウスの温度を残していた。スライドにはイルカと太陽のステッカーが色褪せていて、長い時間の経過を感じさせた。
「もし、やり合うことになったら顔面か頭を狙って。見た感じクラッシュヘルメットだから。ちなみにノースのは、シロクマだよ。」
 サウスにシロクマを紹介された時、すでにライン・スロワーを構えていたノースは、太もも辺りを指差し、自分のグロックを荒鹿の位置から見えるようにお尻を突き出す姿勢をとったから、荒鹿はゴーグルの中で目を閉じて深呼吸をしなければならなかった。
「頭か顔面ね、狙ってみる。シロクマね、ノースだからね。いいと思う。」目を閉じていてもノースのお尻の形が瞼の裏にくっきりと見える。
 
「さあ、撃ち方教室だよ。構えはこう。左手は添えるだけ。」サウスが小型のライン・スロワーを構えて見せる。
「さっちゃんはね、だいたいこうやって顔の横のところで構えておいて、撃つ時は、こう、まっすぐ。」そういって体の前方に突き出したライン・スロワーを、突然上空に向けて打ち上げた。ぷしゅーと圧の抜ける音がして、ナノカーボンのロープが真っ直ぐ上昇して、建物の梁の部分にくっついた。ほぼ同時にノースもロープを打ち上げた。
 突然のことだったから、荒鹿は驚いて後ずさった。二人はロープの残った端を腰のベルトのカラビナに接続した。
 
「大丈夫。すぐに帰ろう。」
「大丈夫。アラシカ、強い強い。」そう言い残して二人は建物の壁面に沿って急上昇し、荒鹿の前から消えた。
 
 上昇を終えた二人が降りしきる雨の音に紛れて窓ガラスを破り、部屋の中に入るのを見届けてから、前に向き直りマップを拡大する。動き出さなければ緊張に押し潰されてしまう。荒鹿は少し弱まり始めた優しい雨の中をとぼとぼと歩き出した。
 
「左手は添えるだけ。左手は添えるだけ。」ぶつぶつと口の中で繰り返しながら、双子が生きて来た世界や、芦原さんがくぐり抜けてきた世界、まるで「普通」じゃない世界を想像する。
 生と死が近い。というよりもそれが隣り合わせで存在する世界。コインの表と裏に例えると、どっちが出るかわからないってことだろうか。いや、そこまでギャンブルな訳でもないだろう。アートマンの力を手に入れてから移り変わってしまった世界に自分は直面している。小舟がいない方の世界だ。
「安全でいてほしいの」という彼女の言葉が荒鹿の耳に届く。きっと小舟がいる方の世界から届いたんだろう。荒鹿は自分の手が握っている銃を見つめた。
 
「いや、さすがに『左手は添えるだけ』じゃないだろう。」例えば、安全装置とか、装填とか、いろいろあるはずだろう。だいたい、この辺りが安全装置なんじゃなかってことは想像できるものの、それがオンなのかオフなのかすらわからない。そもそも、そういう仕組みかもわからない。
 もうここまできたら、双子と合流するまでは絶対に特殊部隊と遭遇しないことを祈る。それしか、荒鹿にできることはなかった。
 
 息を殺したまま、建物の最初の角にたどり着くと、先刻サウスがやっていたように顔の横で銃を構え、建物の向こう側を確かめる。建物のあちこちに設置されたCCTVが視界の中に赤い光でポイントアウトされる。芦原さんの言葉を信じるなら、PFCスーツが電磁波を干渉させないから、ぼくらはCCTVには捉えられないはずだ。信じるしかない。「イエス。オールクリアー。」荒鹿はため息をついて、やっぱりこれはギャンブルだな、と思う。
 雨降りでしかも夜だけど見覚えのある景色が荒鹿の視界に入った。背の低い建物とその向こう側に見える巨大な球体のガス貯蔵タンク。晴れていたら、あのタンクが並んだ辺りに地球環が見えるはずだ。
 
 ゆっくりと歩を進めながら荒鹿は自分がこの場所に見覚えがある理由を思い出そうとしていた。
 
「クズリュウの考えてることぐらいわかるよ。」
 
 耳の中に響いたのは、小舟がいない方の世界からの声だった。雨降りでしかも夜だけど、ヴィジョン越しにロングスケートで踊るように地面を滑るノースが見えた。春に咲き始めた花々の間を行ったり来たりする蝶のように、自由で、儚くて、美しい。
 あの動画を撮影していたのはサウスに決まっている。荒鹿は何度も見たその映像をBGMと共にはっきりと思い出すことができる。
 今となっては映像には入っていない撮影時の二人の会話だって再現できる。
「やめてよ、もう。撮らないで。」「だってノース上手いもん。」「恥ずかしいよ。」「はずかしくないよ、可愛いもん。でも、次はさっちゃんの番だよ」ってところだろう。
 暗視ヴィジョンの片隅に、ちらちらと揺れる光の粒が見えた。本当に蝶のようだ。
 いや、違う。敵のウェポンライトだ。荒鹿は咄嗟にその場に突っ伏して、瞬時にマップ上に光の位置を照合させた。
 
「ちくしょう。オールクリアじゃねえ。K3の真ん前だ。」
 荒鹿は地面に突っ伏したまま、植え込みの陰を匍匐前進で進む。その後ウェポンライトの光は確認していないものの、K3は荒鹿の直線上に位置している。
 K3地点は建物がコの字型に奥まった部分で、その左右からは死角になっているが、正面からは腰の低さよりも低い植え込み以外に視界を遮るものはない。とにかくたどり着くしかない。
 双子は上から降下してくるはずだから、哨戒の特殊部隊がいれば二人が見逃すことはないだろう。荒鹿は全身が熱くなるのを感じる。あと5メートル。熱くなった体が、自分の体じゃなくなってしまったかのように重い。3メートル。
 一度ごろりと仰向けになって、建物の上部を確かめる。二人はまだいない。予定の時間まではまだ少しある。うつ伏せに戻って上体を起こし、植え込みの向こう側を確かめる。ため息。今のところオールクリアー。
 どうにかこうにか漸くK3地点、コの字型の内側にたどり着くことができた。荒鹿は再び仰向けになって、長い息をついた。
 
 すぐに、荒鹿は起き上がってサウスがやっていたのを真似てマンホールの蓋を引き摺り開けた。
 しかしすぐに視界の中にウェポンライトの光が再び現れた。ヴィジョンゴーグル越しの緑の光の点はK3から見て右側の背の低い建物を照らした。その光源の場所からはコの字の内側は死角になっているはずだ。荒鹿は立ち上がって、コの字の左側の壁に背を付けて銃を構えた。安全装置がオフになっていますように。
 
 だんだんと輪郭がはっきりとしてくるウェポンライトの光が左側に逸れた瞬間を狙って、壁から少し首を出して相手の位置を確かめる。ヴィジョンゴーグルには何も映らない。
 今の荒鹿に明確にわかっていることが一つあった。その瞬間になったら、自分は引き金を引くことに躊躇するだろうということ。相手はアートマンではない。武装していると言っても生身の人間だ。そして芦原さんの戦争の話と違うポイントを挙げるとすれば、相手は同じ日本人なのだ。神奈川県警に所属する同じ神奈川県民ですらある。
「よし、もう先の分の躊躇はした。」
 荒鹿は思う。アートマンは躊躇を力に変えるらしい。しかし、人間同士ではそういう訳には行かない。
「頭か顔面。生きるか死ぬか。」これは殺すか殺されるかではない、生きるか死ぬかなのだ。ウェポンライトの光が途切れ途切れになり、ふっと消えた。荒くなっている自分の呼吸を感じる。コインの表か裏。
 
 顔の近くで銃を構え、ゆっくりとコの字の凹みから出る。ヴィジョンに緑の人影が映る。距離10メートル。まだこちらには気がついていない。心臓の鼓動が極限を越え、今にも口から出てきそうだ。距離5メートル。
「撃つ時は、真っ直ぐ。」
 
 パンッ。荒鹿がトリガーを引いたのは、相手が荒鹿に気がついた瞬間。グロックのスライドが高速で動いて手のひらの中に衝撃が跳ね返る。その瞬間、荒鹿の胸元にウェポンライトがくっきりと光り、向かいの通路沿いに停めてあった軽トラのフロントガラスが割れ、その破片がスローモーションのように車内に崩れ落ちる。
 その少し前、4階からロープで急降下するサウスがライフルを撃つ低い連続音が聞こえた。ほぼ同時に、最初の弾丸を外したことに気が付いた荒鹿が続けてトリガーを2度引く。どさっという音と共に隊員は声も出さずに後ろ向きに倒れた。
 
 地面に降り立ったサウスがそのまま荒鹿に向かって飛び込み、その勢いで二人は植え込みの手前に倒れ込んだ。PFCスーツ越しに雨で濡れた冷たくて、だけど柔らかくて張りのあるサウスの身体が押し付けられた。
 荒鹿に身体を押し付けながら、サウスは荒鹿のゴーグルを外して放り投げた。
 そして突然、荒鹿の冷たい頬に、雨に濡れて冷たくて、それでもしっとりと柔らかい唇を押し付けた。
 
 続けて地面に降り立ったノースが、倒れて抱き合っている二人と植え込みを同時に飛び越え、仰向けに倒れている隊員のもとに駆け寄った。
「さっちゃん、クズリュウ。」
 
 荒鹿とノースが二人がかりで死体の後ろ襟を掴んで引き摺ると荒鹿のゴーグルの外の荒鹿のリアルな視界に、暖かいトマトジュースのような赤い血の跡が鮮明に現れた。死体を植え込みの上に引っ張り上げると、枝がバリバリと引っ掛かって折れた。
「少ししか時間稼ぎにならないと思うけど。」マンホールの前で死体を方向転換して、頭じゃなくて足元から落としたのは、せめてもの気持ちだ。
 サウスがパンパンに膨らんだヘルメットバッグを合わせて4つ、マンホールに落とした。地面の下からの衝撃音が鈍く響いた。
 ノースがヴィジョンゴーグルを植え込みの影から拾い上げて荒鹿に渡した。
「クズリュウ、ありがとう」

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