見出し画像

11/2/2002

あの日から22年の月日が経った。
父がこの世から旅立ったあの日から。

今でも鮮明に覚えてるあの日の記憶。
あの日が来るまでの半年ちょっとの家族内のドラマ。

今日ばかりはあのときの記憶や父に思いを馳せてみよう。


厳格ながらも個々を尊重してくれた父。

好きなものや欲しいもの、行きたいところには我慢せずにお金を使ってた父。

おかげで一緒にいた時間は8年ちょっとだったのに、国内・国外、いろんなとこに連れて行ってくれた。

そんな父のフットワークの軽さが、後の自分にも活きたのかもしれない。

父が去ってからの人生は、個人ベースでも、家族それぞれも、変化が耐えなかった。👣

私は好奇心の赴くまま、なんとなく小4から英語を勉強仕出したのと、
当時のハリポタブームに乗っかって小6の時に初めて短期ホームステイで英国に行ったのをきっかけに、完全に視点が国外に向いた。👀

英語勉強仕出したぐらいから、日本の「右回れ右」的な教育が居心地悪く、義務教育終わったら高校も行く気なかった私に、学びの場の可能性を与えてくれたのは、英語ってツールを使うことに対して楽しめた自分がいたから。

「高校生で留学って大変だったでしょ?」
って質問は数え切れないぐらいされてきたけど、そりゃ大変ですよ笑

大変じゃない留学ってそもそもあるのかな?

ただ、なんだかんだ100%自分で決断して、
母子家庭なのに大分の無理を言って実現させてもらった高校留学なので、諦めることはまずない。

他の留学生と比べると成績上げるのに時間はかかったけど、自分なりに先生にアプローチしたり、留学生グループの輪から出てアメリカ人の友達増やしたり、いろいろやりきった3年間に後悔はない。

高3の時、ほんとは大学行きたかったけど金銭的に難しいってことが分かって、
「なんでなんとなくでも大学に行ってる同級生がいるのに、学びたい自分は行けないんだ…」
と大号泣した日もあったけど、
アメリカじゃギャップイヤーとって大学の行くも当たり前なの目の当たりにして、ちょっと心が晴れた。

帰国後は好き勝手やってるようで、思うように行かないことの連続。
遠回りいっぱいした。(むしろ遠回りしかしてない笑)

まず、高卒で何の職歴もない、TOEICは高校生にはミスマッチ過ぎてスコアも取れずで、当時なりたかった留学エージェント職には付けず。

中学生の時に参加した英語サマーキャンプの存在思い出して、そのサマキャンの運営スタッフやってみたり、
「バイトするにしても外資がいいなー」ってだけで応募したスタバがめっちゃ楽しくて大好きになったり、
知り合いの紹介で、子供英会話や塾で英語の先生する機会をいただいたり。

人とのつながりの大事さを学んだフリーター時代。

そして24歳になる年、
初めての正社員雇用してもらった会社はまさかのセブ島。🌴
異国の地で、かけがいの友ができて、
いっぱい遊んでいっぱいボランティアもした。

1年で帰国して、その間、日本人力上げるために日本語教師養成講座なんて受けてみて言語学の面白さ再確認。

セブ生活第2弾は、言語学習ととことん向き合う1年3ヶ月でした。

ほんとはもう1年ぐらいいるはずだったセブを、だれも予想してなかったコロナ禍到来で緊急帰国。

それまで英語学習に広く浅く、でも言語への情熱は持って歩んでいましたが、
「私のパッションって他にもあるのでは…?」と考え、学び、放浪してたら行き着いたニュージーランド。

とりあえず引き寄せられるがままに心の声に従ってみる。そんな人生を送ってるよ、お父さん。

日本、そして世界を救えるHEROのような人

中学の卒業文集に書いた、理想の大人像。

当時の夢が国連職員だったからこう書いたのかもしれないけど、
回り回って「より良い世界」にするために、微力でも力を注げる大人でいたい。

と、この22年で感じたたくさんの刺激や学びから、改めて思う。

父が生きていたら、
金銭的には楽だっただろう。
いろんな経験する機会をもらえたかもしれない。

でも、

自分で決断して、ここまで試行錯誤しながら生きることはあっただろうか?とも思う。

そういう目線でいうと、

あの日、父が亡くなったのは意味があるのかなと。

今また今後の道をどう歩むか模索してるように、これからもたくさんの選択の場面をすることがあるだろう。

HSPが故に考えすぎて、
悩みすぎて、
フットワーク軽そうに見えてめっちゃ重くなることもあるけど、

これまで自分が出した決断たちに誇りを持って、自信持って、
生きていった先に、
Better daysがあることを信じ、

歩んでいこうと、切に思う。

そんなことを思う、
30歳の初夏の夜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?