女とか男とか
テレビをつけていたら女性の私生活にフィーチャーした番組が流れ始めた。何だかそれが嫌に私をもやもやさせて、もやもやしたままnoteを書き始めた。
noteのような媒体で、自分の考えを発信するということはすなわち、自分のことばで世界の誰かが傷つくかもしれない可能性を受け入れるということだと思う。人を傷つけてしまうことは本当に嫌だけれど、どんな意見も言葉も、人によって捉え方は絶対にさまざまで100人いたら100通りあって、その1つ1つにまで責任を(取りたくなってしまうけれど)取らなくてもいいんだよ、と最近は自分に言い聞かせている。
話を戻そう。女とか男とかって言葉に私は敏感に反応してしまう。『男の料理』とか『女の私生活』とか。『男ウケ』とか。…苦手だ、そういう表現。分類の仕方。理由は何か、まだ分からない。
それから、私は自分が「女」扱いされることも好きじゃない。「女の子だから重い荷物は男に持たせな」とか、言われるのが好きじゃない。嫌い、と言ってしまえるくらい。
可愛いカフェを指さして「女の子だからこういうの好きでしょ」。
絆創膏を取り出した時に「女子力高いね」。
あまり言われないけど「女の子なのに珍しいね」。
ぜんぶ、全部もやもやする。私の価値ってそんなもん?私の個性って「女」でしかないの?私の行動趣味嗜好全てを「女」ひとつに集約させるつもり?
世界中に「性別」という呪いのようなものに苦しめられている人達が大勢いるのを知っている。「女」に、「男」に、それ以外に、"なろう"として血のにじむような努力をしている人達がいるのを知っている。応援したいと思う。味方をしたいと思う。でもきっと私は、彼らの気持ちを理解はしてあげられない。私が彼らに心を寄せるのは彼らが戦うマイノリティだから。それ以上の共感はきっと出来ない。むしろ傷つけてしまうかもしれない。今日の私の言葉は、「性別」と戦う人達を、傷付けるかもしれない。
私は、たぶん、「性別」なんて心底どうでもいいと思っている。
だからパンロマンティックなんだろう。
私は女だけれど、「女」は私の数ある所属の中のひとつに過ぎない。
同性愛が理解できないとか受け入れられないとか聞くけれど、「異性愛」とか「同性愛」とか性別に絡めて考えること自体やめちゃえばいいのにと思う。何がそんなに気に食わないんだろう。
女であることが嫌な訳じゃない。むしろ好き。
でも、「女」というグループ評価しかされないのは嫌。結局、「人」として見てほしいってところに行き着くみたい。
あー、よく分からないままだ。
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