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「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」~心の中の闇を見つめて


1.村上春樹が小説を書く理由

河合隼雄はユング派の心理療法家であり、京大名誉教授であり、文化庁長官を三期務めた文化功労者もある。彼によってユングの心理療法やその思想が国内に広められた。

1928年〈昭和3年〉6月23日 - 2007年〈平成19年〉7月19日


村上春樹は河合と以前アメリカの大学で対談をした。村上春樹は長編小説の執筆途中で頭の中が片付けれられない押入れのような状態だったが、河合と話しているうちにすっかり整理できた、と前書きで書いている。


帰国した村上は河合にまた会いたくなり、京都に会いに行きテーマを決めず二晩雑談をした。その内容は村上が小説を書き始めたいきさつ、日本人特有の個のあり方だったり、夫婦の在り方、村上が出会った不思議な出来事等多様な分野に広がり、ユング心理学のエッセンスでもあった。

村上は自分の心の欠落した部分を埋めるために 小説を書くという 。

2.心の闇を表現する技術


芸術家は皆、闇や欠落した部分を心に抱えており、それを癒し、埋めるために作品を作る。彼らにとって作品を作るのはまさに生きることそのもの。
中にはモーツァルトのように作品の犠牲になってしまう者もいるが、

音楽家は作曲をせずにはいられず、画家は絵をかかずにはいられないし、小説家は物語を書かずにはいられない。更には時代の病、例えば戦争や文化の病を時として背負う必要もある。それが、やがては普遍的な作品となり世界的に有名になったりする。

かれらはそうして自分の闇を見つめ、欠落を埋め、それを表現する技術で作品を作り、正気を保っている。それができない者が闇に落ち病気になる。

箱庭療法というのがある。心理療法の一つで、箱庭に砂やおもちゃを置いて
精神的な病気を抱えた患者が自分の闇、心の中のメッセージを表現する行為であり、それが上手く表現できた作品はとても感動を与えると言う。


村上春樹も小説を書き始めたのは自己治療のステップだったと述べている。自分の中にどのようなメッセージがあるのか探求する。

非常に内的なイメージがあったとしてそれを他者に提示しようと思ったら物語にするしかないんです。

「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」より

心の傷は物語に入る入口であり、出口でもある。物語が出来上がったときに傷は癒される。あまり傷のない人は幸福に生きられるので周囲が傷つく。

村上は自分で作った作品の意味が自分でもわからないことがあるという。自分の内部からのメッセージを探っているうちにそのような作品となったと言う。自分の作品であってもそれを論じる際には一読者としてでしか論じられない。河合は頭で考えたことは作り話で面白くない、内部から自然と浮かび上がった物語こそが人を感動させると指摘する。

3.人を殺さないと生きていけない者


心理療法家は他人を治療することで自分も癒される。河合隼雄はこの仕事をやっていなければおかしくなっていただろうと話す。
そのために患者と向かい合う。

人殺しにもそういう人がいる。人を殺さないと生きていけない。

村上春樹はゲイリーギルモアという連続殺人犯「心臓を貫かれて」の伝記を翻訳した。


100年以上前の迫害され、復讐のため虐殺事件を起こしたモルモン教徒の末裔で、父親の虐待を受け 一族の忌まわしい歴史が親から子に伝えられ、根深い暴力やトラウマというまさに呪いを受けて、彼は人を殺さないと生きていけない人間になっていく。彼の心の傷は親から子に伝えられた百年に及ぶ一族の怨念が積もり積もったもの。彼は最後には死刑廃止の風潮の中、銃殺刑を希望し処刑された。生き残った彼らの兄弟たちは一族の呪いを断ち切るために誰も子供を残さなかった。

4.癒しによって失う物


河合隼雄は殺すことで癒される人がいて、その中に自殺をしようとすることで癒される人がいたという。この患者が治癒されたときに、自殺という癒しの手段を失った患者がそれを最大の不幸と嘆いていた。

「治す」ことが本当に良いことなのかどうか河合の心の中に患者の言葉がずっと残っているという。

私も以前、仕事の面では様々なストレスを抱えていた。そのうちに会社は潰れ、生活のストレスがのしかかった。不眠症に悩まされ、うつになりそうなある時天啓のようなイメージが浮かび、それをCGを使って絵にした。そこから物語を書くようになっていく。

そのうち登場人物達が自ら台詞を喋り出し、全く予期しないような展開になり、私は一人感動した。ここには私が現実に求めても得られなかった絆の物語があった。しかしそれが登場人物の死によって途切れて行く。

振り返ると私はこの物語を作ることで救われていたのかもしれない。誰もが生涯で一冊は傑作を書けるという。私もこの物語(絵で表現された700ページもの物語)を書き続けたいと思うが、最近描く気力がなくなった。今は以前のようなストレスだらけの生活から脱することができ、のほほんと自由な生活を続けているせいかもしれない。

いずれにせよ、これは自分のための物語であり、他人にとっては全く意味のない物語、決して他人が読むことのない物語なのだ。そんな作品があってもいい。

人はそれぞれ自分の責任において自分の物語を作り出していかなければならない。

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