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【読書感想文】騎士団長殺しを読みまして

このお盆休みを利用して、村上春樹の騎士団長殺しを第1・第2部共に読みましたので、記憶が温かいうちに感想を残したいと思います。
※本編のネタバレとなりますので未読の方はご注意ください。

総評:中途半端だからこその不完全燃焼さとそれが生む面白さ

物語全体を読んでの素直な感想は、「全体的に中途半端でモヤモヤが残る」です。本物語は、序盤からミステリーもの顔負けの謎や伏線が随所に張り巡らされる構図となっています。まずプロローグの時点でかなり難解です。そして何よりも不完全燃焼で終わらせる要素が、物語の全体を通して描かれていた「現実と非現実の入り混じる世界」についてです。
騎士団長という名のイデアの正体も、顔ながというメタファーの正体も、二重メタファーとして恐れていた白いスバル・フォレスターの男も、その存在に対する真相・真意は結局語られることなく物語は閉幕してしまいます。なぜこの「現実と非現実の入り混じる世界」に対してはっきりと答えを出さなかったのか。
これは作者村上春樹から、我々に提示する本物語のメッセージ性なのではないかと俺は思います。本物語は全体を通して、率直に読み取れるメッセージ性がはっきり言ってありません。そのため、あえて物語のもう一つの舞台である「現実と非現実の入り混じる世界」に対してはっきりとした答えを出さないことで、あの世界は何だったのか?と読者に対して読後も思考の余地を与えているように思います。要するに余韻を出すためということです。
この中途半端さが、読後すぐにはモヤっとした気持ち悪さに感じましたが、"では自分なりに考えるとしたら"と考察を行ってみると非常に楽しい要素だったなと思います。

騎士団長たちの居た世界は何だったのか?

物語の序盤から主人公にのみ見えるイデアとしての存在で登場した騎士団長。中盤で主人公が東北を巡っていた記憶からやってきた白いスバル・フォレスターの男。終盤、騎士団長を殺すことで現れた顔なが・その顔ながが居た世界のほかの住人達。一体これらの居た世界は何だったのか。俺なりの考えを述べたいと思います。
一言で表すなら「仮想世界とその住人」です。

少し話を物語から逸らしますが、私たちが普段目で見ている世界は仮想でしょうか?現実でしょうか?
俺はどちらでもありどちらでもないと思います。
錯視というものがありますよね。実際に存在している事柄とは違ったように物が見える現象のことで、youtubeの動画でよくある画面がゆがんで見えたり同じ長さの棒なのに長かったり短かったり見えるヤツです。なぜこんなことが起こるかといえば、目で見た情報はそのまま理解するのではなく、脳に送られたのち情報処理を行うからであり、その過程で起こる一種の不具合のようなものが原因だと言われています。このような現実と異なるものが見える不具合を人は仮想と呼びます。
人間の脳の仕組みを模倣して作られたコンピュータが構築する世界「インターネット」を私たちは現実の世界とは言わないですよね。何ならバーチャル世界、つまりは仮想世界なんて呼ぶこともあります。
要は人が目で見ている世界も現実ではない、目の色覚細胞や耳、鼻等五感で感じ取った電子情報を脳がコンピュータのように情報処理した結果を出力した結果を見ているに過ぎないということです。ただしコンピュータと違い人間の脳の情報源は、現実の物理現象に起因しているので全く現実が見えていないわけでもありません。そのため、我々人間が見ている世界は「仮想と現実がいり混じった世界」なのです。

主人公が見ていた騎士団長や顔ながは、現実の情報源からもたらされた情報を処理する段階で生まれた不具合、つまりは仮想。そしてそれらが介在する、終盤主人公が懐中電灯を持ち探索した世界は仮想世界なのです。
その不具合を引き起こすトリガーになったのが雨田具彦の絵「騎士団長殺し」を見たこと。同じ絵を見た秋川まりえも騎士団長を見ているので間違えないと思います。

騎士団長殺しの絵に秘められたもの

ではなぜ、雨田具彦の絵「騎士団長殺し」がそんな仮想を見るトリガーになったのか。それは雨田具彦が仮想世界に行った際、顔のない渡し守に対価として支払う予定の絵だったのではないでしょうか?
雨田具彦は、主人公が秋川まりえを助けるために仮想世界に赴いたように、ウィーン留学中にナチスに処刑されそうなガールフレンドを助けるべく仮想世界へと足を踏み入れた。しかし彼は渡し守に対価を差し出すことができず、主人公同様「絵描きだから絵なら描ける」と提案した。しかし描いたその洋画を渡し守が受け入れることはなく、何か別の(おそらくガールフレンドの大切にしていたお守りのような)対価を取られてしまった。帰国したのちプロローグで描かれていたように、仮想世界から「絵が描けたなら対価として没収したものを返してやる」と渡し守が時より雨田具彦の下に来ており、そこで対価として渡そうと描いた絵が「騎士団長殺し」であった。雨田具彦が帰国後急に画風を日本画に転換したのは、仮想世界の渡し守に洋画を受け取ってもらえなかったため他の画風に挑戦した、と考えるとこの考察も合点がいくように思えます。結局その際に「騎士団長殺し」を渡し守が受け取ることはなく、雨田具彦はガールフレンドの大切なものを差し出してしまった後悔の念に駆られていた。だから、伊豆の療養所でイデアとして現れたそれを見た際にようやく受け取ってもらえたのだと、ガールフレンドの大切なものは返してもらえたのだと思い、安堵の表情を浮かべたのかと思います。
絵は時として現実を飲み込んでしまう、と主人公と秋川まりえの二人で話しているシーンがありましたが、「騎士団長殺し」の絵はまさに雨田具彦の生んだ現実から仮想への不具合を飲み込んでしまった。そしてそれを見た主人公はその仮想に引きずり込まれてしまった。そこに主人公なりの不具合である、ユズやコミに関する記憶を飲み込み膨張していった。
俺は、この物語の中途半端な「現実と非現実の入り混じる世界」にそんな答えを出しました。

残る謎

しかしこの考察でもユズが妊娠した理由や、主人公が伊豆の療養所からどうやって庭の穴に移動したのかなど「現実と非現実の入り混じる世界」に関する謎は結局すべて解決できはしません。なんだか謎を突き詰めようとしすぎると俺自身も「騎士団長殺し」の絵が生んだ仮想の世界に引きずり込まれてしまうような気がしてなりません。そして結局免色の過去ははっきりしないまま。彼は悪人だったのか善人だったのか。ミステリー小説ではないのに、ここまで読後謎に引き込まれる世界線を描いている本作のエンタメ性は、本当にすごいなと痛感しました。日光東照宮は、芸術品は完成した瞬間から崩壊が始まるためあえて未完成にしている、という話を聞いたことがありますが本作もそんな芸術的感性を感じる一作でした。


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