虚無
『ショーシャンクの空に』(1995)を、旅行帰りの長い帰路の途中に観た。
塀の中、終身刑、という発展のない空間の中で、体の衰退を待つしかなく生き続けることが、どうにも辛くなりそうな映画だった。
この夏は虚無だった。
要因は明らかに、バイトをせずに何箇所へも旅行に行った罪悪感が、全体的な有用感に覆されることなく、勝ってしまったからだ。
それに加えて、感情の起伏が続いて、うまく人と旅行できないという罪悪感も加わって、自己肯定は霧のように消えた。
旅行に行って病むなんて贅沢な話だ、と言われながら、自分はまだ旅行ができるフェーズにいないのかもしれないと強く思った。
もうすぐ夏休みが終わる。でもこの虚無は終わるのだろうかと思うと、しばらく自分にしか目がいかなくなる。それが安心なのかもしれないが、無意識はわからない。
実習が始まれば、「今が1番大変」のおかげで予期不安がなくなり、実習をこなせていることへの有用感も芽生えて、
心身は疲弊するものの思考はヘルシーになる。
自分はやれているという自信が湧く。
そうやって過ごしていてもいいのだろうか、わからない。
また燃え尽きに繋がって、酷い鬱に落ちるかもしれない。悪夢は続くと生命力が削られる気がする。
ちょうど一昨日も、小学生まで戻って、教員や友人に暴力を振りながら喚き、人たらしめるものがなくなって、主治医にも見限られ、1人で校庭でうずくまって死ぬのを待つ夢をみた。
映画で素晴らしい希望を見せたデュフレーン(ティム・ロビンス)は、「希望はいいものだ、多分最高のものだ」と言っていた。
一方で、同じく主演のレッド(モーガン・フリーマン)は、「希望は精神の破壊、自殺へといざなう1番危険なものだ」というようなことを言った。1番共感した。
自分には多分潔癖な思考がある。白黒でしか考えられない思考と言われた。
自分は希望を持つと、多分気が散るのが嫌だから、他を排除し、目標とする内容を正義と考えて他者を犠牲にしながら進もうとする。
そして途中で身体を悪くして諦めざるを得なくなり、周囲を巻き込んだ成果もなく、病んでいく。
それでも、この虚無を覆して呼吸をして、匂う頭皮を洗い、食事を摂り、ベッドから起き上がるためには、精神論的な希望が必要なんじゃないかと思う時がある。
書いてみると普遍的な希望だ。恐れなくても良いのかもしれないと思えてきた。
映画の見どころは後半のカタルシスだと思う。
カタルシスは、精神的な圧迫を受けた後に負の感情が解放されることで得られる心理的効果で、ストレスがかけられた際にその圧力から解放されることで、解放感やポジティブな感情が湧き上がる。
自分は、治った治っていないと言っているうちはまだ自分の内側にしか目がいかない状態だから、本当の回復はもう少し先にあり、自然と「自分のことは考えなくてもいっか」に近づけた時に、症状が治ったと言えると思う。いま自分は、暇だからかもしれないが、内側に意識が向くように戻ってしまった。
それでもこのカタルシス効果は、自分に空を見上げる隙を与えてくれると思う。
だから、少しずつ文章を書いたりしながら、
モチベーションや指針で思考を縛ることを頼りにせずに、退廃した生活を立て直すために、できる時にさりげなく希望を持って、生きていきたい。
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