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【小説】夢の中の馬(1303字)

夢の中でおれは馬だった。白馬の王子だったらかっこいいが、正直言って馬は御免こうむりたい。ただ胸は轟いている。おれの背中に乗っているのは森さん。職場の同僚で、憎からず思っている相手。

彼女の泣き声が聞こえる。泣き声で彼女だと分かったのだ。泣くというより叫ぶようでもあり、彼女の悲しみの深さに胸が痛くなる。夫から暴力を受けていると聞いた。顔に青あざをつけたまま会社に来たことがあった。

おれと彼女の立場は似ている。おれの妻はアルコール中毒だ。授かりそうになった子供を流産した時から飲み始めた。だらしないおれは何もできなくて、仕事に打ち込むふりをするだけ。おれも子供が死んだことを忘れたかったのかもしれない。

おれたちが走っているのは夜道だった。わずかな星明りで、道のまわりが見える。深い森が続いていた。時々何かの羽ばたきが聞こえる。不気味な音で、背が総毛立つ。

会社の忘年会で酔いつぶれた森さんを、家まで送っていったことがあった。泣き始めたので、どうすることもできなくてタクシーの中で背中をさすった。その時からお互いを意識するようになった気がする。こちらを見上げる黒目がちの彼女の瞳は美しかった。

と言っても、深い関係になりたいわけではない。子供の時に親のセックスを見てしまい、その行為はグロテスクなものという意識が頭を離れなくなった。性欲がないわけではないが、セックスは苦手だ。妻とはセックスレスの状態が続いている。

泣いている森さんの手を取って、辛いねと言ってみたい。彼女がうなづいたら、おれも苦しい胸の内を話す。それだけのことで、二人はお互いを慰め合えるだろう。心のつながりができれば、十分だ。苦しんでいる妻を見捨てるのも嫌だった。

ひたひたと後ろから大きな足音が聞こえてきたので、おれは激しく足を動かして前へ進もうとした。森さんが振り落とされないように、背中にしっかりとしがみついているのが伝わってくる。

何か恐ろしいものが近づいてくるのを確信した。この人を守れたら、死んでもよい思った。人間のおれは腕っぷしが弱い。馬になったときはどうだろうか?自分を盾にして、森さんを守ると決めた。

後ろ足に鋭い痛みが走る。おれたちを追いかけているのは竜だ。竜が火を噴き、おれたちを焼こうとしているのが、目の端に見えた。走る速度を徐々に落として、やがて止まった。

「森さんは逃げて」馬なのに人間の大きな声が出た。森さんは息を呑み、おれの背から降りた。そして走り出す。彼女の足音を聞きながら、おれは突進してくる竜に向き合った。炎が体を焼いても、おれはその場に立ち、竜をにらみつけるのをやめなかった。目が覚めた時、汗をびっしょりかいていた。

森さんは会社に来なくなった。3日ほどたって会社で仲の良かった女性から森さんが離婚したことを聞いた。子供を連れて、田舎に帰ったそうだ。

1ヶ月ほどして、彼女のことをあまり考えなくなった頃、メールが来た。以前相談に乗ったときに、旦那の問題に向き合った方が良いよ、と言ってもらったことが嬉しかった、書いてある。

あれは自分に言い聞かせる言葉でもあった。実際その時から妻の話をできるだけ聞くようになった。森さんのことは思い出だけにとどめよう。彼女の幸せを祈った。

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