ぷんぽこ

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ぷんぽこ(punpocco)です。絵を描いたり編み物したり読書したり会社員したりしてます。 割といろんなことをざっくばらんに考えて書いたり、どうでもいいことを書いたり、支離滅裂なことを言ったりしています。

最近の記事

自分を一番大切にしないと詰むという話

自分がいて、配偶者がいて、子どもがいる。 仕事をして、家族の生活があり、家族の時間がある。 そうすると自分個人の時間や優先度が下がることがある。 とにかく日々の生活を回すために、そうなる。 これを深く考えずにルーティンとして回していくと、ふと気づく。 私個人はどこへいった? また独身だった頃。 学生だった頃。 私は私のことだけを考えていた。 それはとても自由で贅沢な時間だった。 家族がいるんだから仕方がない。家族の生活がある。 子どものためにやらなくちゃいけないことが

    • 決断とは

      どうやら、多くの人にとって決断とは非常に困難を極め、長い時間を要するらしい。 ということに最近気がついた。 なぜなら、私の人生はいつも即決の連続だった。 留学すると決めた時。(誰もそんなこと信じてなかった) 長子を生むと決めた時。(当時、大学生だった) 離婚すると決めた時。(結婚して片手で数えられる月数だった) 教師以外の道に進むと決めた時。(他の職業をほとんど知らなかった) 再婚すると決めた時。(ま、なんとかなるだろ、と思った) などなど.... 悩む時間がもったいな

      • 今の不安に寄り添って

        人生でどうにも身動きの取れない局面ってありますよね。 そう言う時にかけてもらった言葉は人の心の奥に強く残ります。 約10年前、私はまだシングルマザーで、教師をしていました。 生後2ヶ月半から保育園に通っていた長子は、病気がちなため熱を出して休むこともしばしば。 その頃は小学校で担任を持っていて、私が休めばもちろんクラスの授業が止まってしまいます。 他のクラスとの進度の差、もっと生徒たちに手もかけたい、心もかけたい。 けれど、子どもが熱を出してしまうと呼び出され、帰らざるを

        • 記憶を消す子

          今でこそ、我が子は発達グレー(ASD+AD/HD)と診断され、児童精神科に通い、エビリファイとアトモキセチンという薬を処方されながら、学校生活をそこそこ・それなりに過ごせています。 でも、昨年まではずっとずっとずっと、困ったことがあっても誰にも言えず静かにパニックを起こし、トイレにこもり、頭痛を訴えて保健室で休み、(衝撃度の高い)イヤな出来事があれば記憶を消しているということを繰り返していたのです。 我が子は、学校ではいわゆる「いい子」です。世間一般から見ても「いい子」。

        自分を一番大切にしないと詰むという話

          子どもを残して

          どう言っていいか分からない。 でも一人の母親として書き残したいと思った。 もし、私が子どもを残していなくなることがあるとすれば、と考えたことはある。 普段は、まだ死ねない。やることがたくさんある。 子どもたちも育てなくてなはならないし、この子たちの成長する姿を応援していきたい。と思っている。 でも、もし、 絶望するようなことがあって。 もう生きていけないと思ったとする。 いや、そんなことは何度かあったな。 よぎったことは結構ある。 でもやっぱり、シングルマザーだった時

          子どもを残して

          五臓六腑からのリクエスト

          2月中旬から勤めている会社が自宅勤務になった。 夫の会社はそれよりも早く2月頭から自宅勤務になっていた。 子どもたちも3〜5月の間、家庭で過ごしていた。 そんなわけで、ほとんどの食事を自宅でとるという日々が今日まで続いている。 もともと外食が多い家ではない。 とはいえ、週末ランチやお弁当を作り損ねた日は外食をすることもあり、私個人でいえば月に10回程度は外食している日があったかもしれない。 (あれ、思ったより多いかも・・) というわけで、ノー外食な日々が数ヶ月続いた。 も

          五臓六腑からのリクエスト

          悲しみの受け止め方

          悲しみは誰にでも起こりうる。 それは時として突然に。 予定よりも早く。 私たちは悲しい事件や出来事を目の当たりにした時、 どうしてもその要因となった事柄に目を向けてしまう。 原因がいじめの自殺であれば、加害者は誰か、周囲の環境はどうだったか、いじめを助長するものはなかったか、もっと助けの手を差し伸べる機会はなかったのか、守る術はなかったのか・・ そうやって原因探しをして、責任の所在を問おうとする。 でも、それは何のために? もちろん、同じことが起こってほしくないから

          悲しみの受け止め方

          人間は考える葦である

          といったのはブレーズ・パスカルである。 私は、これを高校時代の倫理で知った。 人間は1本の葦である。 頼りなく弱く、ともすればすぐに倒れてしまう弱き存在。 だが、考えることができる。 弱くとも自らで思考することができるのだ。 倫理との出会いは、私にとって光明だった。 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」 ソクラテスの「無知の知」 などの学びは、それまで自分に絶対の自信があり、ともすれば周りを見下してしまう傾向のあった私に「何も知らない自身についてもっとよく考えろ」と言われ

          人間は考える葦である

          ツァラトゥストラはかく語りき

          人は経験でしかものを語れない。 つまりそれは経験していない言葉には実感が伴わないからである。 とはいえ、経験しないことでも語らねばならないこともある。 特に私は、20代の半ばを小学校、中学校の講師として過ごした。 また、同時にシングルマザーでもあった。 私の近辺には教員がたくさんいた。というか親族中が教員だらけだ。 だが、シングルマザーはいなかった。 だから誰も私に経験を伴ってアドバイスできるはずはなかったのだ。 だがしかし、両親は教員として多くの親を見てきている。 そ

          ツァラトゥストラはかく語りき