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【小説】ダイアログ(2)

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 机に空いている小さな穴に、定規の角を刺してみる。対角を人差し指で抑えてクルクル回してみると、窓ガラスから斜めに切り込む銀杏みたいな黄色の日光に透かされた、ブルーハワイ色の影が机の上を踊る。キラキラと回るそれが、昔母と一緒に見た青い衣装のバレリーナを思い出させて、段々と脳みそが痒くなってくる。十回目を回ったところで、パタリと定規を倒した。

「何?今の」

 隣の席のミヤコが無表情で聞いてくる。ノートは開いてるけど、数Aの教科書は閉じたままで、その上にうつ伏せた状態でこちらをボケっと眺めていた。私も左耳を冷たいノートに近付けて同じ姿勢を取ってみると、ミヤコの顔が真っ直ぐになる。前髪をメタリックな紫色のヘアピンで固定していて、その整然と立ち並んだ黒い前髪を見る度に巨大なツケマみたいだなと思っていた。半分風通しの良くなっている額の生え際にふわふわした産毛が群がっていて、すぐ横の人工的に真っ直ぐな前髪とはまるで別物のように見える。多分スプレーで固め過ぎなんだけど、前髪命をモットーにしているミヤコに余計な口出しはしないほうがいいことくらい、私もわかっていた。別に何がおかしいわけでもないのに、お互い自然に吹き出す。

「真似すんなし」
「いや、授業聞けよ。しかも教科書」

 笑い声が大きくなり過ぎないようにしながら言うと、ミヤコの手がこちらに伸びてきて私の肩を強めに叩く。思わず痛っ!と声が出てしまい、おいそこ、なんだ、と高橋先生から睨まれてしまった。

「おまえもじゃん」

 ミヤコは小さい声でそう言うと、まだ笑いを堪えていた。教室のあちこちから放たれる冷ややかな目線や、合間に聞こえてきた舌打ちの音ですら、私達には何かのギャグに思えて更に止まらなくなる。そのままお互いに伝染させあって、結局三限の終わりのベルが鳴るまで、私達はクスクス笑い続けていた。


「ちょっとあんたら、マジないでしょ」

 サエが購買のたまごサンドとポカリの入った袋を、私の机に無造作に置きながら言った。私の前は平田さんの席だけど、彼女は茶道部の部室でお昼を食べるらしくこの時間はいつもいないので、戻ってくるまでの間はサエが占拠している。両足を開いて背もたれを抱えるように座り、ガサガサと不愉快な音を立てながら袋の中のたまごサンドを取り出していた。

「は?違うから。リツが定規で遊んでたのがそもそもじゃん」

 ミヤコはいつもお弁当を持参していた。母親が作ってくれるらしく、蓋を開けると「げ、また夕飯と一緒」とか「はぁー?ピーマン!臭っ!」とか毎回何かしら文句を言いながらも完食している。今日も「マジ茶色。マジばばあなんだけどこの弁当、笑う」と独り言のように漏らしていた。

「だってさ、数学わかんないもん、聞いてても。ケータイばれるし、やることないじゃんあの時間」

 私はいつも自分で作ったお弁当を持ってきていた。以前は父が自分の分と一緒に作ってくれていたけれど、ちょうど一年くらい前の十月の朝、蓋を閉める前にお弁当の写真を色々な角度から撮っては真剣に画面を見つめる父の姿を目撃してしまい、反射的にその場で明日からは自分で作ると宣言した。あの写真を、父は一体何に使っているのだろう。SNS用だとしたらマジで気持ち悪い。一人でやれよおっさん、私を巻き込むな。その日の通学電車の中で、今朝の光景を思い出してはおぞましさでジーンと背中を震わせて、頭の中では悪態をついてばかりいた。
 それまでは食欲をそそる彩りと季節の野菜を使った和洋中様々な種類のおかずで賑やかだった私のお弁当は、夕飯の残りと焦げが多めの卵焼きと白米ばかりになった。せめて彩り豊かになるように、毎回ふりかけを持っていってご飯にかけているけど、今日はのりたまにしてしまったので、私のお弁当は黄色と回鍋肉の茶色だけで作られていた。ミヤコのばばあ弁当も彩り的には大差ないのに、何故か私のものよりも品のある「良い家庭」の食べ物に見えて、少し羨ましいのと恥ずかしいのとで、それとなく右腕でミヤコに見えないように自分のお弁当を隠した。

「だから授業聞けよっつったじゃん。やることそれでしょ。マジでリツうけんだけど。さっきも超声でけぇし」

 ミヤコは特に人のお弁当の中身なんて気にしていない様子で、筑前煮の人参を頬張りながら先程のことを思い出したのか笑っていた。

「あれめっちゃ痛かったからね?外れるかと思ったんだけど」

 大袈裟に右肩を擦りながらガクッと肩を下げて見せると、サエもミヤコも笑っていた。たまごサンドには絶対合わないだろうなと思うポカリを一気に飲み干して、サエが少し顔を近付けてきたので、私もミヤコも引き付けられるように顔を近付けた。

「あの後舌打ちしてたの、堺だよ」

 堺さんの名前を聞いて、ミヤコの顔が真顔に戻った。サエが顔を近付けてくるときは大体堺さんの話題で、ミヤコが彼女を毛嫌いしているのも当然わかってのことだった。わざわざ言わなくてもいいことを伝えて、それを傍から見て楽しんでいるサエの顔は、いつも口が三分の一くらい開いていて笑っているのかどうか分からないくらい微妙に口角が上がっていた。きっと「意地悪な顔」ってこういうのだなと思いながらも、特に咎めたり一緒になって楽しんだりもせず、毎回話題が過ぎるのを待っていた。

「なんなの?あいつ。舌打ちするくらいなら直接うるせぇって言えばいいじゃん。うざ」

 ミヤコが鞄の中から今朝のHRで配られた学年だよりを引っ張り出すと、そのままくしゃくしゃと丸めて、机に俯せている堺さんに向かって思いっきり投げつけた。ヘルメットみたいに黒光りしている堺さんの頭に当たると、サエが「ナイッシュー」と言ってミヤコとハイタッチをする。後ろの席にいた地味目の女子二人組(もう二学期なのにまだ名前がわからない。喋ったことないし)が嫌悪や軽蔑や恐怖の目で私達を見てきても、二人ともそれを感じていないかのようにまるで気にしていなかった。居た堪れない気持ちでこの場から逃げ出したくなっているのは私だけで、急に二人と私の距離が百メートルくらい離れてしまったように感じた。

「さすがバスケ部、二人とも」

 他のクラスメイトや私のいるこの教室のこの席に二人を戻さなきゃと思い、堺さんの話題をどうにか消そうと考えた結果、かなりどうでもいいことを言ってしまった。投げたのはミヤコなのに、二人ともって、何だ。百三十メートル先からサエが眉間にシワを寄せてこちらを睨んでいるのがわかる。

「でしょでしょ?あたしゴール絶対外さないから、ね?サエ」

 ミヤコはいつも単純で、そういうところが可愛らしい。あたしもサエも、だからミヤコを好きなんだと思う。

「そう、ミヤコいつも決めるときちゃんと決めてくれんの。リッちゃん試合見たことあったっけ?」

 一気に五十メートルくらいの距離に近付いてきたサエが誇らしげに訊ねてくる。マウントを取られているのを分かりながら、私はそれにいつも乗っかる。

「見たことない。かっこいいんだろうなぁ。いいなぁ」
「そ、半端ないから。絶対見に来た方がいいよ。あたしは毎回同じコートに立ってるけどさ、マジで見ててスカッとすんの。客席からでも一緒だと思うよ」
「ちょっとー、なになに?もっと言ってよ」

 ミヤコの言葉で二人とも元の席に戻ってきた。安堵のため息と一緒になって、はははと笑い声が漏れる。目があったサエも、元の席で自分のことのように得意な顔をして笑っていた。私は私で、この瞬間きっと満足そうな顔をしているんだろうなと思う。私がこうしてバランスを取ることで、二人が周囲の目を気にせずに行った過ちを正すことができている。暴走してここから更に浮いた存在になってしまわないように、私が二人を引き止めている。実際、二人とも一部の地味目な女子達からは取っ付き難いと思われているようで、委員の仕事のことだったり、課題の提出についてだったり、何か用事があるときなどは私を経由してくる。ミヤコは特に気にしていないとは思うけど、少なくともサエの中での序列は私が一番下で、ミヤコが私と仲良くしているから仕方なく三人で一緒にいるのもわかっている。だから時々こうして、二人の間の絆のようなものを再認識させて私を排除する場面を作ってあげないと、サエの機嫌は持ち直さない。傍からみたら馬鹿みたいなことに見えるかもしれないけど、私はこうやって二人をコントロールすることで私自身の存在意義を示そうとしている。

「あの、ごめん」

 お昼を食べ終えて戻ってきた平田さんがおずおずと声を掛けると、サエは一瞥したあと無言で立ち上がり、じゃね、と言って私とミヤコの肩を叩いた。

「ごめんね。戻るの早かったかな」
「いいよ別に、あんたの席じゃん」

 申し訳なさそうな顔をしている平田さんに、ミヤコが無愛想に答える。ミヤコとしては普通に答えたつもりだろうけど、平田さんは明らかに怯えていた。

「ごめんね、いつも」

 私もフォローの一声をかけておく。平田さんはううん大丈夫と言って少し微笑んだ。彼女は地味だけど、顔は整っているし清楚な雰囲気で男子からも人気が高い。いい子だなと思う反面、私はこういうキャラの子とは仲良くなれないなとも思う。別に嫌いなわけではないけど。
ちょうど昼休みの終わりを告げるベルが鳴り、みんな慌ただしく着席をする。次は世界史の授業だったので、また私はやることのない六十分をどうやり過ごそうかと考えながら、世界史では絶対に使わない定規を再びペンケースから取り出して真っ直ぐに立ててみた。三限のときよりも西寄りに移動した光が、定規の影を私の胸元辺りに写して止まった。誰かがカーテンを閉めたから、ブルーハワイ色だった影は少し薄まって、ちょうど開いていた資料集のインド洋の色と同じくらい緑がかった水色に変わっていた。

「りっちゃん、バレエやらない?」

 母に聞かれたとき、私は一瞬躊躇った後、やらないと答えた。口角が下がり、ため息に似た吐息を漏らす母はそれでも相変わらず美しい顔をしていて、その表情を見てごめんねと思う以上に、私はどうしてこの人に似ていないんだろうという気持ちのほうが強くて、ママみたいに綺麗じゃないもんという言葉の代わりに「やなんだもーん」とふざけ気味に叫んだ。
 私だって本当はやってみたかった。でも、あんな綺麗な衣装を着て踊れるなんて!と思った瞬間、かわいいというカテゴリーには一生入れないぼやけた笑顔と、大して長くもない手足を懸命にばたつかせながら「踊りのような何か」をしている無様で可哀想な自分を想像してしまったのだ。

 人には人の役割がある。それを間違えると、目をつけられて排除されたりいじめられたり、何かしらの傷を負う。昔も今も、私は身の程くらい弁えているつもりだ。


3へ続く



食費になります。うれぴい。