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【小説】ダイアログ(1)

 助手席に座ってから四十分が経過した。そろそろ朝日が昇ってくるみたいで、真っ暗な深海から浮上していくみたいに空の色が黒い青に近づこうとしている。今は水深何メートルくらいだろう。プランクトンの光合成限界点だかについてやってたのは、地理の授業だっけ?生物?なんて考えていたら、後ろから「この隙間かな?」という父の独り言と、折り畳まれた焚き火台がコンテナの間に押し込まれて擦れる音が聞こえてきて、もう少し空が水色に近付かないと出発できそうにないことを知った。

 毎回のことだから、さすがに私もある程度予想はしていた。荷物の積み込みなんて前日に終わらせておけばいいのに、父はいつも当日早朝に行う。「積み込みで目を覚ますんだよ。」と昔言っていたけど、非効率的だし出発も遅くなるし、待たされるこっちの身にもなってほしい。じゃあもう少し部屋で寝てれば良かったじゃん、パジャマ着たまま温かいベッドの中でぬくぬくするのと、エンジンのかかってない冷え切った車の中でもっさりしたダウンコート着たままじっとしてるのと、どっちが幸せだと思う? 誰ともわからない声が呆けた頭の中で響くけど、それでもこうして、積み込みの時には自分の準備を終えて助手席で待機しているところを見るに、私もどこかでキャンプへのわくわくした気持ちが残っているのだろう。そしてそんな自分に気付いてとても不愉快な気持ちになるから、やっぱりもう少し寝ていれば良かった。

 道沿いに植えられているハナミズキの枝が、夜の闇をくり抜いたみたいに黒く見え始める。空は濃いデニムくらいには青みを帯びてきているから、多分これなら光合成できる種類のプランクトンもいるだろう。そうだ、確か二百メートルだった気がする、光合成限界点。大体校庭のトラック半周くらい?海溝とかもっともっと深いのに、たった二百メートルより下には光がほとんど届かないだなんて。海のほとんどが暗闇で、つまり地球のほとんどが暗闇でできてるってことになる。何それ、何気に怖くない?

 馬鹿みたいな考えが頭の中でくるくる周り続けていると、ケータイが一回短く震えた。

『起きてる?』

 ミヤコからのメッセージだった。返信する気になれなくてそのままシカトしていると、また一回、もう一回と短く震えた。

『やっぱサエと、も一回話合わない?』
『こうやってケンカしたままなの、やっぱやな感じじゃん?』

 別に喧嘩してるわけじゃないんだけど。と呟いたあと、小さくため息を吐いてケータイの電源を切った。もうこれ以上、誰とも連絡を取りたくない。少しでも現実逃避がしたかったのはもちろんだけど、何よりここから先は、父がいる。父の一挙手一投足にイラつく二日間が待っているのを思うと、それ以上の煩わしいことなんて私には手に負えない。

「よっし、完了っ」

 誰に向けて話してるのかわからないような父の声の後、バックドアを閉める音が車内の空気全部を弾けさせて、早速イラっとした。車もトイレのドアも冷蔵庫の扉も、父はいつも閉める力が強い。そしてその度に過剰なアクションが付いている。腕を必要以上に振ったり、何故か片足が上がったり、時には「ほいっ」とか「バターン」とか、掛け声なのか効果音なのかわからない擬音を発しているときもあって、それが自分の部屋にいるときに聞こえてくると、私はその度に拳で壁を殴っている。『自分はここにいますよアピール』にしか思えないから、本来なら無反応でいる方がいいはずだけど、それ以上に『私はイラついてますよアピール』をしたい気持ちが優先されてしまう。そういう自分に対してもまた不愉快になってイライラして、だから私はここ最近、とにかく何に対しても憤っている気がする。

「お待たせしましたー。出発しまーす」

 呑気そのものな声を出しながら父がエンジンをかける。車の鍵にはレジンで固めた枯葉のキーホルダーが付いていて、鉄棒にぶら下がってるみたいにフラフラと揺れていた。ドライフラワーにしてはセンスが悪く、本当にただの枯れてしまった葉っぱが閉じ込められていた。気付いたら付けていたのだけど、恐らく父が自分で作ったものだと思う。手作りなのも気持ち悪いし、中身も気味が悪いしで、私はいつも目にすると眉間に力が入ってしまう。

 国道に出ると、父がナビを操作してカーステレオからベックの曲が流れ始めた。「Morning Phase」というアルバムで、最近のキャンプではいつもこれがかかっている。もう二十メートルの水深くらい(多分それくらい、知らないけど)までは空が水色に変わってきているから、朝を歌う曲の雰囲気と合っていて少しだけ気分が落ち着いていく。車が走り出してしばらくすると、登り始めた朝日が車の中を横切って、フロントガラスに写りこんだ自分の顔がオレンジ色に染まっていた。少しずつ日常から離れ始めていることが嬉しくて、ついニヤリとしてしまう。秋が終わり始めているこの頃の気候が暗く重みを増していく自分の心とリンクして、そのまま冬眠、もとい永眠しそうになっていたけれど、こうして朝日に照らされていると、心身共にじんわりと氷解していくのを感じられる。早起きして良かったのかもしれない。寝ぼけた頭で取り留めのないことばかり考えてしまうあの無駄な時間も、ちょっとは意味があったのかと思うと、ニヤリとした顔は崩れないままだった。

 ふと隣で運転している父を見ると、ゆらゆらと曲に合わせて上半身を揺らしながらリズムを取っている。拍子の頭で微妙に首を前にかくかくと動かしてもいる。口元に視線を向けると、歌に合わせて開いたり閉じたりを繰り返している。絶対に英語なんて喋れないし理解もしていなさそうなのに、それっぽい動きをしている。ミニバンを運転しながら娘と二人でキャンプ場に向かう四十代のおっさんが、世界中にファンのいるかっこいい外国人のおじ様ミュージシャンになりきって悦に入っている。それを見た瞬間、落ち着いていた気分がまたがたつき出して、透き通り始めた青空も目に刺さる太陽の光も緩やかなベックの声も、一気に全部嫌いになった。父に聞こえるくらいの大きなため息をついてから、ダウンコートのフードを被って乱暴に目を閉じた。瞼越しに見える黄色い光に眉間を寄せて、やっぱりぎりぎりまでベッドで寝てればよかった、次からは絶対にそうしよう、と心に誓った。


(2)へ続く


食費になります。うれぴい。