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究極に自分勝手に生きたら結果的に世界平和になることと、正しさなんてどこにもないということ。(転載)

2018年の8月23日に書いたブログ記事だけど、今も見事なまでに目指すところは変わっておらず、せっかくなのでnoteにも転載しておくことにする。

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伊藤羊一さんの”Lead the Self〜先が見えない時代でのリーダーシップとは〜”っていう講演会の中で、”譲れない思い=信念”を過去の経験から探る簡単なワークショップをした。
飽き性もきっと、信念がちゃんと言語化できたら、ただの飽き性でなくなる気がするので、自分の信念を知りたいので、探ってみることにする。
過去から学んだことってなんなんやろう。


前職から学んだこと
地球にやさしくても、身近な人にやさしくなかったら全然意味ない。本末転倒。
一番感じたのがこれ。”地球にやさしい(できるだけ)”を目指しすぎて、足元がちゃんと見えていなかったのが大反省。”地球”というのが記号としてのチキュウになってしまっていたような気がする。
実態がなくなっていたというか。何か、架空の存在というが定義にむかって正しくやさしくあろうとしていたような、そんな感覚。でも、商売も絡んでくるから、売上のこととかも考えなあかんし、苦手やけどせなあかんからしてきた、というのもあって、いろいろうまいことできひんかった。
だから、”自分にやさしい””人にやさしい”が抜けるとたぶんその途端に成り立たなくなる。


そして思い出した、私の信念(たぶん)”究極に自分勝手に生きたら結果的に世界は平和になる”。
できるだけ、本当に自分のやりたいことを見つけられたら、それをやったら、周りに何と言われようとも、それを貫けたら、そしてそれをみんなが実行したら結果的に世界は平和になるはず。得意分野もみんな違うから。
もう無理できひん、てなったら、”ヘルプ!”と、大きな声でちゃんと助けを呼ぶ。
そしたら必ず、その自分にとったら苦手でできひんことが、大好きで得意な人が現れるはず。
そこには、”本当に好きなこと”を探る作業が出てくるんやけど、本当に本当に好きなことを目指したら、めげそうにもなると思うけど、やっぱりおもしろいものも生まれるはずだし、そうなるとみんな楽しいはず。
そこには、「自分で生み出すのは苦手、それよりも誰かのよさを引き出すのが好き」とか「中立点を探るのに快感を覚える」とかそういうなんも含まれてくる。とにかく”好き”を極めて、実行する。


じゃぁ、私は一体、本当の本当の本当は何がしたいのか?


生きる力をつける
…作物を育てる・野草をマスターする・壊れたら直す・小屋を建てる・包丁を研ぐetc...

生きるために生きる
…①とほぼ一緒だな。暮らしをすることが仕事、ていう生き方。
たくさん梅がとれたから梅干しを漬けて、柿がなったから干し柿を作る。味噌を作り、醤油を作り、パンを作り、ジャムを作り、洗濯をして、家を建てて、直して、染物をして、みたいな・・・
そういう意味では専業主婦の暮らし?


おすそわけ
…とれすぎた梅でできた梅干し、摘みすぎた野草、楽しいダーニング作業、楽しい小屋作り、をおすそ分けしたりシェアする。
これ、まとめると、結局自給自足的な暮らし、ていう方向に行くんよな。。。
その中にテンペがある、がいいよな。


じゃぁ、自給自足的な暮らしって何なのか、というと、


小屋建てる。
自分で建てられるようになりたい。修復もできるようになりたい。
なんでか?これは単純に夢。これできたら最強、て思うからだな。どこにでも住まいを作れる、て強い。


野菜を育てる
本格的な畑はいらない。美味しい野菜を作ってくれる農家さんたちに任せたい。
家の前に、サラダ野菜とハーブと果樹だけが欲しい。
余裕があったら、トマトの苗を植えてみたりとか。
欲しいのは、果樹系で欲しいのはお茶・いちじく・月桂樹・ライム・杏・ブラックベリー・ラズベリー、
サラダ&ハーブ畑には、レタス・ルッコラ・パセリ・パクチー・バジル・タイム・ラベンダー・セージ・ディル・フェンネル・マスタードあたりは欲しいな。こぼれ種でまた新たに継いでいける仕組みで。


③野草を摘む


④できれば雨水・湧き水など自然と寄り添う暮らし


⑤できればコンポストトイレ


⑥他
たまに服は自分で作る。手作りのヨーグルト。ジャム。パスタ。パン。
包丁研ぐ。染物をする。繕う。
風呂は最低なくてもしばらく生きていける。
銭湯と、川があれば。
洗濯機も、コインランドリー使えたら、なくてもいい。
オーブンあったら最高だけど、なくても生きてはいける?
(オーストラリア車旅時代は、パンケーキやクレープ、ドーナッツにかりんとう、ポテトチップスなどを作ってデザートを楽しんでいた)
暮らしの中心はあくまでも台所。
たくさんの保存食、スパイス、ハーブ、吊るされたにんにくやたまねぎや鷹の爪、ハーブのリース。
自宅キッチンとテンペ工房の間にパントリーがある。
たまに工房オープン日としてささやかなパーティー形式のイベントを開催。
テンペだらけ、野菜だらけのご飯を楽しむ。
会費制orドネーション
少人数でテーブルを囲み、キャンドルをつける感じで。
一緒に食卓を囲む時もあったり、みんながおしゃべりに興じているところをニコニコしながら(ワインでも飲みながら)眺めたい。


そして、もうひとつの信念が、
「正しさなんてどこにもない。」
ということ。

人にはいろんな考え方があって当たり前。
状況によっても、見る角度によっても、立場によっても、語り方は変わってくる。それぞれに正しい。
正しさを基準に考えると、それに囚われてしまってうまく動けなくなる。
本当は最初から正解なんてないのだ。
正解は作る。考えて経験してそれで初めて正しさの端っこをつかめるだけで、でもたとえ端っこをつかんだとしても、それはあくまでも個人としての正しさでしかない。
でも、本人が握っていたらそれでよい。押し付けるものでもない。議論したり、意見を交換して分かり合うことは必要になってくると思うけど、押し付けるのは絶対にちがう。
それぞれのいうことに、耳を傾ける。自分と違う意見があったら、ただそれを伝える。
が、できている人間になりたい。
でも、その人の正しさに耳を傾けすぎると、自分を見失う。
流されやすい・影響を受けやすい性分だから、これ忘れると、本当にあぶない。
人の正義を傷つけたくない。でも、もし視点が違うだけだったら、お互いに違う視点を与え合いたい。
そう、視点。たぶんここに、私がしたいこと、伝えたいこと・前職で伝えようとしてきたことのヒントがあるっぽいことが最近うっすらわかってきた。
(テンペも、自給自足も、着物も(ここ何年も着てないけれど)、ヴィーガンも、自家製のいろいろも、キャンドルナイトも、グルテンフリーも、Farm to Tableも、オーガニックも、野草も、琵琶湖フィッシュアンドチップスも、たぶん全部ここに集約される。)
視点を与える、じゃなくて、視点の提案
”こんな見方をしてもおもしろいんじゃないですか。”てヤツ。
こんな生き方でもいいんじゃないですか。
スーパーで買うものだけがすべてじゃないですよ。
地元にはこんなにも美味しいものに溢れてますよ。
小麦の力を借りなくても、こんなにも美味しいものが作れますよ。
世の中にはさまざまな理由で食の制限がある人がいるんですよ。
価値観なんて本当にいろいろあるんですよ。
作れへん・買うのが当たり前、てなってるものも、実は作れるんですよ。
雑草って思ってる草、実は食べたら美味しいんですよ。
琵琶湖の魚、泥臭いこと全然なくて、美味しいんですよ。
獲れたての野菜はこんなにも美味しいんですよ。
こんな素敵な農家さんたちがいるんですよ。
安定はしていなくても、人それぞれいろんな生き方があってもいいんですよ。
家、自分で建てられるんですよ。
ゴミって思ってるもん、実はむっちゃ使えるかもしれませんよ。
実は身近にあるもので、だいたい作れるんですよ。



押し付けるの嫌いなので、あくまでも提案。
気付く人は気付いたらいいし、もしそこに共鳴してくれる人がいたら嬉しいな、ていう提案であり、希望。
たぶん、そこには、
前述の「究極に自分勝手に生きたら結果的に世界平和になる」とか、「正しさなんてどこにもない」につながってくるんだな、今気づいた。
そういうことみたい。
32歳、まだまだ悩みます。
Aug 23, 2018

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