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信仰が人を殺すとき

読了。

『イントゥ・ザ・ワイルド』として映画化もされた『荒野へ』、『空へ』など、クラカワーの本に一時期ハマっていた。図書館でこの本を見かけ、クラカワー懐かしい、って手に取った。

この本は、弟の妻と幼い姪を「神の命令」に従って殺害したモルモン教徒ラファティ兄弟を取りあげたもの。その事件だけではなく、モルモン教の成り立ちにまでさかのぼって、綿密な取材がなされている。

モルモン教、というと、自転車に乗った白人青年が布教していた記憶くらいしかなかった。ユタ州に多い、ということも知っていたけど、そもそもユタがアメリカの州になる前から、モルモン教徒は安住の地を求めてそこへ移り住んできていたのだという。

モルモン教の教義には一夫多妻があり、それが議論を呼んで教団は分裂。一夫多妻は合衆国では違法のため信徒はその管轄外へ逃れたり、地下へ潜ったりした。弾圧されればされるほどに、「私たちは正しい」という信念は強まってゆく。

そもそも何の宗教にも帰依しない私としては、敬虔な信徒というのは「神依存」にしか見えない。

軽い依存は別に悪いことではなくて、たとえば珈琲でも甘いものでも、ある程度の依存(嗜好)は誰しも持っていると思う。珈琲飲んでがんばろう、とか、ごほうびに少し甘いもの、とか、うまく利用できていれば問題ないと思う。

宗教もそうで、誠実に生きる指針となっている分には問題ない。でも、甘いものだって食べ過ぎれば肥満や糖尿などになり、アルコールや薬物は適量を超えると悲惨なことになる。それは宗教もまったく同じで、度を超えた人たち(原理主義者)は、正義のために人を殺すことも厭わない。

依存が度を超えると、自分<対象になってしまう。「酒に呑まれる」という感じ。自分のためのツールではなく、自分が消費される側になってしまう。そうなると、鉄砲玉にでもなれる。

誰しも、自分自身が神だと思うんだけどね…… 

他者を支配するということではなく、外なる「神」に頼らず、自分のことを自分で決めるという意味で。

皆がそう考えるようになれば、正義の押し付けとかなくなるのになー、といつも思う。

以下、響いた言葉たち。

 神の声に従ったから、ロン・ラファティは精神的に病んでいるということになれば、神を信じ、祈りをとおして導きを仰ぐ者は皆、精神的に病んでいるということではないだろうか? 信教の自由を守ることに熱心な民主主義社会で、ひとりの人間の非理性的な信仰は賞賛に値する合法的なものであり、べつの人間の信仰は常軌を逸していると断定する権利が、誰にあるだろうか? 社会は、積極的に信仰を奨励する一方で、他方では、過激な信仰者に有罪の判決をくだすことが、どうしてできるのだろうか?
 結局、ここは、生まれ変わったキリスト教徒ジョージ・W・ブッシュ大統領によって率いられている国なのである。ブッシュ大統領は自らが神の使者であると信じ、国際関係を善と悪の力の聖書的な衝突と見なしているのである。国の最高の法務官である司法長官ジョン・アシュクロフトは、根本主義宗派ーーペンテコステ派のアセンブリー・オブ・ゴッド教団ーーの筋金入りの信奉者である。司法省では、毎日、側近たちの敬虔な祈祷会から一日がはじまり、彼自身は定期的に聖油を塗って自らを清めているし、終末論的な世界観を本気で支持している。その世界観は、ラファティ兄弟やコロラド・シティの住民たち(引用者注:モルモン教徒)が奉じているきわめて重要な一千年至福説の信仰と共通するところが多い。

デロイが結局、信仰を棄てようという気になったのは、文化的な性の慣習のせいでも、束縛の多い生活スタイルのせいでもなかった。むしろ、彼に言わせれば、「ただ、ここにきて、私は宗教が偽りであることをもう無視できなくなったのです。全員を支配することは、人々を故意に騙すことです。……偽りなのは彼らの宗教ではありません。すべての宗教が偽りである、と私は実際信じるようになったのです。どの宗教も、そうです」

「宗教はあらゆることに答えてくれます。人生を簡素なものにしてくれます。預言者から命じられたことを実行するのですから、これほど気楽なことはありません。……預言者の言われたとおりにすれば、その行動の全責任はすべて預言者にあるわけです。返済を拒否してもいいし、相手を殺したってかまわない。つまり、なにをしても、まったく平気でいられるのです。この宗教を結束させているのは、そうした部分が実際、大きいのです。多くの人々がくださなければならない重要な決定を自分でしなくてもすみますし、その決定にも責任がないのです」


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