見出し画像

【ショートショート】香水トラベル

 商店街を歩いていると、見覚えのない店を見つけた。小さな看板には「旅できる香水」と書かれている。誘われるように私は引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
 出迎えた店主は、想像とは違って渋い顎髭を持ったおじいさんだった。
「旅できる香水屋にようこそ」
 店主は私に、目の前にあるソファーに座るように促した。
 店内はずいぶんと殺風景だった。無機質な空間に不釣り合いなほど柔らかなソファーが私を包む。ほどなくして、店主が棚から小瓶を取り出し、私にそれを渡してきた。
 コルクを開けると、それは私が求める甘い香りではなかった。
「私の好きな香りではありません」
 私が言うと、店主は答えた。
「君は嗅ぎ方を間違えている」
 私は店主の言葉にならうように、深くソファーに腰をかけ、目を閉じて、全体重を香りに染み渡らせていくようにゆっくり息を吸い込む。するともう一つの重力が生まれて、私は引きずられるようにひとつの空間へと吸い込まれていった。
 風鈴の音が聞こえる。生温かい風が吹き抜ける縁側、切り分けられた甘いスイカ。寝転がった畳が汗ばんだ手足をちくちくと刺した。
 縁側に座る小さな丸い背中。
 ――おばあちゃん
 思わず呼ぶと、丸い背中が振り返り、しわくちゃの笑顔を見せた。
 ーースイカ食べすぎるとお腹痛くなるけん、ほどほどにしときんちゃいね
 乾いた風とともに草木が揺れる。そうだ、ここはおばあちゃんの家だ。おばあちゃん。思わず手を伸ばした拍子で、私ははっと我に返った。私を包むソファーの感触がリアルだ。
「いい旅はできたかい?」
 小瓶を持った店主は微笑む。私は促されるままソファーから立ち上がった。旅から帰ってきたばかりのように、頭の中は夢と現実の狭間をふわふわと揺れている。
「またのお越しを」
 店主に見送られて引き戸を開けると、そこには普段と変わらない商店街の景色が広がっていた。
 記憶と香りは直結する。私は香水と共に、思い出という名の旅に出ていたのだ。



第1回ちくま800字文学賞に応募した作品でした。
有難いことに4次選考まで残していただけました。
ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?