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私はケーシィになりたい-親の脇役か、自分が主人公か-

「人生の主人公は自分」とは、よく目にするフレーズですが、自分の人生の主人公は、実際に自分なのでしょうか?

J-POPには「まずは自分が変わらなきゃ」という内容の歌詞がたくさんあります。そのメッセージ自体は自分も好きですが、やっぱり、自分というものを形成するには、どうしても他人からの影響というものはあると思うのです。

まず、子供は親を選べません。産まれて初めて影響を受ける他人というのは、多くの場合は親ですから、その選択肢がない時点でもう主人公とはいえないのではないでしょうか。ゲームでたとえれば、武器も装備もなし、言葉を覚えるまで仲間も作れないから協力プレイは無理、所持金ゼロ。

どちらかといえば、オーキド博士の研究所の中で、未だ見ぬ相棒を待っているピカチュウの境遇のほうが近いように思います。

幸い、サトシくんは情に熱い実直な少年だったので、ピカチュウは旅の途中で幾度となく怪我をしても、その度に彼の優しさに触れて、心折れることなく冒険を謳歌できていますが、これがものすごく性格の悪い陰湿な少年に拾われていたら、まだレベルが上がりきる前に「コラッタも倒せねえのかよ!使えねーな!」と、捨てられていたかもしれません。

サトシくんみたいな健全な親のもとで育つか、毒親のもとで育つか。その違いで、育ちかたは変わってくるはずです。健全な親だから健全に育つとも限らないだろうし、毒親育ちでも親が好きだという人もいるでしょうが、どういう結果になったとしても、冒頭部分は親のペンによる人生なので、主人公とは呼べない気がします。 

そして、そもそも、誰もが主人公になりたいと思っているのだろうか?という疑問もあります。脇役の方が気ままにやれていいという人もいるんじゃないかなあ。 バンドはやりたいけどボーカルは絶対イヤだという人だっているだろうし、漫画家じゃなくて専属アシスタントを志望する人だっていていい。

数年前、ネット上で「俺はキムタクにはなれないがキムタクも俺になれない」という画像が流行っていました。どこかの居酒屋のトイレの貼り紙に書いてあったものだそうで、当時はただ面白がっていただけだったのですが、何気に深い言葉だなあと。

キムタクさんの人生の主人公はおそらくキムタクさんご自身だと思うし、自分はキムタク生(韓国のビールみたいな字面)においてエキストラにもなれないでしょうけども、俺の脇役芸は香川照之さんレベルなのかもしれません。

えっ、キムタクさんにも親がいる?……いや、キムタクはキムタクですよ。E.YAZAWAと矢沢永吉さんが違うのと似たようなことですよ。だんだんわけわかんなくなってきた。

うちの親は、良い親とも毒親ともいえません。虐待というほどのことはされていませんが、たぶん一般的に健全とされる家庭からすれば不健全な部分もあります。

親のペンによる自分の人生はたぶん13歳くらいまで。そこそこ長かった。自分は主人公ではないと今でも思います。かといって、親の脇役でもないけど。どっちになりたいかといえば……どっちも微妙。

えーと……、未だ見ぬ人の脇役を希望で……はい……お願いします……はい……明日の午前9時から……オーキド研究所に収容で……はい……。

ピカチュウみたいなカリスマ性はないので、ケーシィになりたいですね。ケーシィ、なんか親近感あるんですよ、自分と似ている気がして。しょっちゅう無言でテレポートするとことか……。

サウナはたのしい。