天才の自覚
今まで会った中で天才だと思う人は何人かいるのですが、昔のバイト先にいたお姉さんがそのひとりでした。
彼女は美術の専門学校を卒業していて、絵がとてつもなく上手かったのです。
大学では漫画研究部や美術部の友達がいたので、絵が上手い人はすでに何人も見ていましたが、較べるのは申し訳ないのだけど、当時のどの友達よりも、彼女は絵が上手かった。
というより、語彙力がアレでスピリチュアルまがいの表現しかできないのですが、絵から放たれるオーラが異彩を放っていた、としか説明しようがない。
だけど彼女は、自身の絵を上手いとか凄いとか思ったことは一度もないらしく、こちらからすれば何がどうダメなのかさっぱりわからん絵を「反省点だらけ」だと言う。本当の天才というのは、自覚がないのだろうか。そう思った出来事でした。
先日に亡くなられた藤子不二雄A(Aは本来は○で囲まれた文字)先生の代表作のひとつ『まんが道』は、富山県の小学校で出会った友人ふたりが手塚治虫先生に憧れて漫画家を目指し、後にトキワ荘というアパートで赤塚不二夫先生や石森章太郎先生など同世代の漫画家たちと過ごした青春の姿が描かれた、自伝的な作品です。
『まんが道』の主人公は、A先生がモデルの満賀道雄という人物。そして、相棒であるF先生は、才野茂として登場します。さいの・しげる。さいのう・しげる。才能が茂りまくっているのです。
物語はA先生が投影された満賀道雄の視点で進んでいくのですが、そこから見た才野茂、つまりF先生は、子供の頃からとてつもなく絵が上手くて、頭が良くて、決断力もあって、根性もあって、同い年の親友でありながら、到底かなわない天才として描かれています。
しっかりしている才野茂に対して、満賀道雄は優柔不断で調子に乗りやすいという欠点が目立つ。
まあ確かに、自分を主人公にした漫画を描く時に俺は史上最高の存在であると描く人はたぶんローランドさんくらいでしょう。ローランドさんが漫画を描いたことがあるのかどうかは知らんが。
とはいえ、A先生だって客観的に見れば、F先生に並ぶ偉大な方なわけで。
謙虚でいらしたから……というのはもちろんあるでしょうし、手塚治虫先生を漫画の神様として尊敬していらしたから……というのもあるでしょうが、そもそも、ご自身のことを凄いと思っていなかったのではないでしょうか。
結果的に遺作となったエッセイ漫画『PARマンの情熱的な日々』では、漫画家さんとの会食や、奥様との散歩を楽しまれる姿が綴られていました。
キャラクターの誕生秘話などもあるのですが、どちらかというと、特急のロマンスカーに乗って飲みに行ったり、くだらないことで奥様に嗜められたりする、まったりとした老後を描いた日常の回が好きでした。
登場人物が大御所すぎることを除けば、昔ながらの友達と久しぶりに酒を飲んだとか、ちょっと妻と一緒に旅行してみたとか、ゴルフは実に楽しいとか、実に素朴な内容。
2015年からは体調不良により休載されていたのですが、その時のメッセージには「若い人の中にまじって、このジイサンが一緒に連載するとはとても楽しいことでした」とあります。いやいやいや。ジイサンではなく仙人ですよ。
でも、ご自身ではあくまで、ただのゴルフと酒が好きな漫画家の爺さんで、それ以上でもそれ以下でもなかったのでしょう。
もう絶対に叶わないことですが、F先生の視点からのA先生を描いた漫画を読んでみたい。つまり『まんが道』の逆バージョンですね。
そこではむしろ、A先生はとてつもなく絵が上手くて、機転が利いて、社交的で、ユーモラスで、親友でありながら到底かなわない天才として描かれているような気がします。
サウナはたのしい。