キリスト教は宗教じゃなくて真理なのか

世の中には無数の宗教があります。

しかし本当の神は唯一で、救いに通ずるのはキリストだけです。だからキリスト教は、世にある無数の宗教の中の一つ、人が作った神を信じるものなのではなく、世の初めから終わりまで永遠にある真理である。

1+1=2 や万有引力は人類にとってある意味真理で、それら物理法則を「宗教」と捉える人はいないと思います。神はそれらを作った方で、それらを押し曲げることもできる方、数学や物理法則よりも確かな真理。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

これはキリスト教の世界観です。ユダヤ教やイスラームには違う世界観があると思います。

別に熱心に礼拝にでかけ、そのための奉仕をおこなうクリスチャンの方が真理の近くにいるとは思いません。

仏教の世界観があり、信者がいる。おそらくキリスト教とはなんのかかわりがないだろうけど私は認めます。イスラム教はキリスト教と重複する部分があるけど別の世界観であるにすぎない。どの世界観が心に響くかは個人的な問題。

キリスト教の観点からは、神は万民に愛を降り注いでいるが、その愛に応えない人もいる。その愛に応えるひとは民族など関係なくクリスチャンであり真理に近いと思います。

ヨハネ14:6 における真理は絶対的なものでなく聖書の中でのみまことといえるのではないでしょうか。

その世界観においてのみの唯一神であり、他の世界観を認めます。真理なんてものはもともと無い。それは観点の違いに過ぎない。アッラーの神から救いを得ることができる人々がいるかどうかクリスチャンにははかり知ることはできないと思うのです。

僕の考えでは、イスラム教もキリスト教も宗教として同列でありキリスト教だけが宗教ではないという立場ではありません。旧約の時代は、異民族には異民族の神があり、それが偶像であってもいいと思うのです。バァル神やアシェラ像も異民族にとっては神であると思います。一神教というのはその世界観においてのみの唯一神であり、僕は他の世界観を認めます。真理なんてものはもともと無い。それは観点の違いに過ぎない。

アッラーの神から救いを得ることができる人々がいるかどうかクリスチャンにははかり知ることはできないと思うのです。

キリスト教の観点からは、神は万民に愛を降り注いでいるが、その愛に応えない人もいる。その愛に応えるひとは民族など関係なくクリスチャンであり真理に近いと思います。

では仏教とイスラーム教はどうなりますか?

おなじことです。否定しません。仏教の世界観があり、信者がいる。おそらくキリスト教とはなんのかかわりがないだろうけど私は認めます。イスラム教はキリスト教と重複する部分があるけど別の世界観であるにすぎない。どの世界観が心に響くかは個人的な問題です。

イスラームの世界観を知らない僕には詳しくわかりませんが。仏教についても偶像があって忌み嫌うクリスチャンがいると思いますが、僕にとって、仏像はアートであり、表情やしぐさを鑑賞する対象です。仏教の世界観ではありません。よその宗教に自分たちの世界観から偶像だとみなされるものがあっても、わざわざ壊しに行くのは良くない。

例えば教会に偶像をもちこんだら、キリスト教の世界観からしてありえないことだけど、旧約の時代、イスラエルの高き所に異教の偶像をつくってどちらの神も崇めていたから、アブラハム、イサク、ヤコブの神は怒った。一方ユダヤ人の信仰をただすために、異民族、異教徒を利用してユダヤを打っている。別に神は異民族が異教を信じていても異民族を直接こらしめることはしていない。

キリスト教もイスラーム教も同じ系列に属する一神教だけど、偶像礼拝に関しては考え方が違います。イスラーム教は徹底的に偶像を排除すれという考え方。一方のキリスト教はある程度の偶像であれば認めますという考え方です。

カトリックは聖人の彫刻や絵画を飾っている。聖母マリアにいたっては特別な存在ととらえ、マリア自身も無原罪としている。これに対しプロテスタントはルーテル教会を除き聖母マリアも罪ある人間の一人に過ぎないとしている。またキリスト教では十字架をシンボルとして用いていて、これは偶像ではないとしているが、だったらなんだよってことになる。

人は十字架を拝んだりしません。したがって偶像ではありません。では十字架とはなんでしょう? それは、クリスチャンが、全ての人の罪のために死んだイエスを拝むための徴です。カトリックに限らずプロテスタントも十字架にイエスを重ね合わせて礼拝しているのです。十字架はイエスの一部といってもいいです。

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