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こんな私になったワケ

今、コロナ禍で人と気軽に会う事すらできない状態が続いている。
特に悪者にされた「ライブハウス」は未だに回復していない。非常に残念である。

私が若かりし頃はライブハウスも盛んで、特に京都は”老舗”と呼ばれるお店もあり、今でも「拾得」や「磔磔」は健在だが、「サーカスサーカス(CBGB)」や「BIGBANG(VOXhall)」はなくなってしまった。RAGはまだ北山にあったころの話だ。

まだ私が10代後半の頃、「カイトランド」という学生情報誌のバイトをしていた。お金はほぼなかったが(苦笑)

ライブハウスのスケジュールを聞きに行く役目が与えられた。自分でもバンドを組んでいたし、音楽が大好きだったから喜んでやっていた。

しかし、苦手なライブハウスがあった。それが「サーカスサーカス」。というのもブッキング・マネジャーの“テツさん”が怖くて苦手だったからだ。

しかし当時「トミーとミーノ&かねてつおかげ様ブラザーズ」の、きんたさんがそこに居て、きんたさんがいるとホッとしたのを覚えている。
ちょうど私の誕生日にライブがあり「来たらお祝いしたげるで〜!」と言ってくれたり、いつも本当に優しく、当時から本気か嘘かわからない面白さのある根っからのエンターテイナーだった。

あの頃おつきあいしていた人がきんたさんのお友達でもあり、多忙な彼氏だったので遊んでもらえず、可哀想に思ったのか、はたまた彼に頼まれたのか定かではないが、きんたさんがよく、変わりに遊んでくれた。
本当にありがたかった。多分きんたさんはあまり覚えてないだろうけど(笑)

きんたさんが在籍していた「トミーとミーノ&かねてつおかげ様ブラザーズ」は、実力派コミックバンドで、私も大ファンになった!落ち込んでいてもおかげ様ブラザーズの曲を聞いて笑い飛ばした事が何度もあった。
「信心」「近親相姦」「人間ポンプ」「ちょっといいですか〜」「プレリュード85」「どうせ私は肥満体」など歌の内容を聞いたら笑う笑う。

コミックバンドってうまくないと面白くないが、おかげ様ブラザーズはうまかったから、さらに笑いが深まった。

やはりいいバンドはすぐに目を付けられるものだ。
「おかげ様ブラザーズ」としてあっという間にメジャーデビューした。嬉しいが、なんとなくもう手の届かない存在になったような気がした。
おかげ様ブラザーズの曲が主題歌だった「ムイミダス」というTV番組も好きでみていた。それから4年くらいして活動停止。
そして再結成したとき大阪のシャングリラでライブを久々に観た!懐かしいやら嬉しいやら。「これ!これ!」という待ってました!のオンパレードでお腹いっぱいになって帰ったのを覚えている。


もう一軒思い出があるのは、「拾得」だ。バンドのステッカーだらけの赤いSKYという原チャリに乗って「RAJAS」を観に行っていた。まだOZMAさんの居た頃で、「かっこえ〜!」と憧れてみていたが、コチラもあっという間にX-RAYでデビューし、続いてRAJASもデビューした。

昔の拾得には奥に店があって、ノーコメンツのワカさんが雑貨店をやっていた。たしか店名は「ハイカラ雑貨店」。
まだ高校生だった私にはワカさんがすごい素敵な大人に見えた。
正直、子供には敷居が高い場所だった。「なんか裏でマリファナ密売?」みたいな怪しさがあったが、ある日意を決して入ってみたら、えらいカッコイイ雑貨店だった。ワカさんも気さくな姐さんだった。
さらに拾得にいたロッドスチュアートに似た店員さんを「ロッドさん」と勝手にあだ名を付けて呼んでいたが、それがボ・ガンボスのどんとさんだった。あのときはまだ「ローザルクセンブルグ」をやっていたときだと思う。

そして、「磔磔」にも思い出がある。面白い手描きのようなポスターがあり、そこには「なぞなぞ商会」と書いてあった。「あ、なんか噂に聞いた事ある!」名古屋にすごいバンドがいて、それがたしか「なぞなぞ商会」だった。
磔磔のスタッフさんに「これ観たいんですけど、チケット買えますか?」と聞いたら「あ〜、これはやめとき、めちゃ怖いバンドやから、自分みたいな若い女子は危ない」と、とりあってもらえなかった。。。。
どんなバンドなのか、さらに興味が増したが、その後彼らを観る機会はなかった。

しかし、その「謎商」のボーカル遠藤豆千代氏と何十年後かに「豆異℃」で一緒にバンドをやるはめになるとは夢にも思っていなかった。(この話はまた後日)ここにも「奇跡の出会い」がまたひとつあった。

京都はブルースなイメージを持つ人も多いが、私の若い頃は案外メタルやパンクが流行っていた。
「ビートクレイジーが」磔磔ではよく行われていた。蘭子さんかっこ良かったなぁ〜。しかしこれに行くにはとても根性が必要だった。なんせもう怖い人がてんこ盛りだった。
私なんか完全に場違いだったからだ。

それにくらべて「ITACHI」みたいなファンクなバンドは安心してライブを楽しめた。和佐田さんのベースはあの頃からすごかった。
さらに、シュワルツワルツや、EP−4などのニューウェーブも流行っていた。
京都という街が古いものと新しいものの融合が得意だからかもしれないが、いろんなものが融合されて、音楽は盛んな街だった。

私は一番いい時代にそれを体験していたかもしれない。

あのころ京都で活躍していたバンドはほぼメジャーデビューして、どんどん地元から消えていった。
いつも近くで観られたのに、メジャーは嬉しいけど、なんとなく手の届かないところにいってしまう寂しさがついてまわった。
そうこうするうちに京都の音楽が衰退していった気がしている。

ただ、あのムーブメントのなかに自分もちょっと足を突っ込んでいたのはありがたいことだ。

いつも年上の人が周りにて可愛がってもらった。ライブハウス関係だけでなく、京都のロック喫茶「ジャムハウス」やレコードショップ「ジョーズガレージ」なども出入りしていたが、同時に色々と学ぶ事も沢山あった。

そのとき教えてもらったこと「楽しむってのは、こうやるんや!」という本気の楽しみ方、楽しませ方だったように思う。

大人だからこそ本気で楽しませるエンターテイメント!
みんな本気で音楽を楽しんでいた。
ある意味いい時代だったと感じる。

しかし、ワカさんも、どんとさんも、ブラッキー岡部さん、そして、きんたさんに我が酋長の遠藤豆千代も帰らぬ人となってしまった。
あのとき少しでも同じ時代の空気を吸えたことは私にとって貴重な思い出になっている。特にきんたさんと豆さんには「ありがとう」を沢山伝えたい。

コロナ禍で、大切な人と、会う事も別れる事も簡単にできないことが
本当に悔しい。

会いたい人には会えるときに会って、ちゃんと気持ちを伝えることが大切だと、今だからこそよけいに思う。

あの頃の私に影響を与えてくれた音楽、場所、人、それら全てに感謝だ。
こと音楽に関しては、なぜ私が「豆異℃」をやりたかったのか、わかった気がした。
私に影響を与えてくれた人々に心から感謝している。ありがとうございました!皆さんのおかげで「こんな私」ができました。


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